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儚い人 #5 side Y
何軒か店を巡り、時計を確認すれば、正午を30分ほど過ぎていた。冬真が選んだパンを購入し、帰宅の途に就こうとすると、冬真が珍しく、昼食を外で摂りたいと主張する。しかもリクエストは、フレンチレストランで昼限定で提供されるハンバーグ。ハンバーグは冬真の好物の類いには入らない。その上、未だ上手に使いこなすことの出来ないナイフやフォークを使う食事を、冬真がわざわざ選んだことが、どうにも腑に落ちなかった。
おかしい...絶対に。
何かあるに違いない。
「なぁ?冬真?どうしたんだよ?ハンバーグ、大好きってワケじゃないだろ?なのに、どうして今日に限ってハンバーグなんだよ?」
それでも冬真の唇は『ハンバーグ食べる』とだけ動き、押し問答がしばらく続いた。
「お二人とも似た者同士ですね。葉祐さん、ここは冬真さんに譲りましょう。食べたいのであれば仕方ありません。」
俊介さんに促され、俺達はフレンチレストランで昼食を摂ることに決めた。冬真の様子がおかしいと思ったのは俊介さんも一緒で、俊介さんは耳元で小声で言う。
「おおよその見当は付きますが、何か思うところがあるのでしょう。今は彼の意見を尊重しませんか?ここまで主張するのは珍しいですから...無理そうならシェフには非礼を詫びて、途中で失礼しましょう。」
店内に入ると、思ったよりも格式が高そうな雰囲気で、俺と俊介さんは互いに服装を無言でチェックし、店に入ったことを後悔し始めていた。それを見たディレクトールとおぼしき男性が声を掛けて来た。
「ドレスコードはどうぞお気になさらず。お食事を楽しんで頂ければ結構です。3名様ですね。只今、ご案内致します。」
男性に案内され着席する。俊介さんがハンバーグステーキを3つ注文し、車で来ていることを伝え、丁重にソムリエの挨拶を辞した。一連の動作がスマートで、男の俺から見ても惚れ惚れする。こんなとき、こういう店に慣れていない俺は、全てがぎこちなく、ドギマギするばかりだ。それに引き換え、こんなときの冬真はいつだって優雅だ。普段はすっかり忘れているけれど、冬真は日本でも屈指の大企業の創業者一族の御曹司で、本来なら俺の様な人間と生活を共にするなんてあり得ないのだ。
目の前にサラダとスープが出された。食してみればなかなかの美味で、ハンバーグが好物の俺は、これは期待できそうだと、どこか浮かれた気分になった。しかし、すぐに冷静になり、冬真を見れば、カトラリー類を上手く使いこなせないどころか、普段使っている物よりも重いそれらを支えきれず、何度もテーブルや床に落とした。その度にギャルソンが拾い、新しい物と交換する。そして、冬真もその度に頭を下げた。あまりにもその頻度が多いので、冬真がカトラリーを落とす度に、俺達は注目を浴び、店内はざわめいた。
「せっかくのイケメンなのに...残念。」
「何か可哀想...」
「あの人…変じゃない?」
冬真を罵る言葉がチラホラと聞こえてきた。
止めてくれ...
何も知らないくせに...
冬真を...俺の冬真を...
罵るなんて...許せない...
もう限界だと感じたのは、俊介さんとほぼ同時で、店を辞そうと互いに目配せをしたとき、冬真は俯き、早くて浅い呼吸を繰り返した。それから、自身の右手を左腕に乗せた。
「冬真!」
「冬真さん!」
自傷行為の始まりだった。
冬真は爪を立てる様に、右手で左腕を掴んだ。俺と俊介さんは立ち上がり、冬真の右手を左腕を引き離そうとするが、なかなか引き離せない。冬真のどこにこんな力が潜在しているのか、普段の彼からは全く想像出来ないほどの力量だった。それでも何とか右手を左腕から引き離すと、行き場を失った冬真の右手は、すぐそばにあった俺の腕を掴んだ。その力はとても強く、次第に所々血が滲み出した。
俺達の異変に気が付いたディレクトールがやって来て言う。
「さっ、こちらへどうぞ。」
意識を失い掛けている冬真を、俊介さんと挟むよう運び、少しどよめいた店内を後にして、俺達はディレクトールについて行った。
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