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事情 #2 side W ~Wataru Kakiuchi~

おじさん先生は、岩崎っていう人のことを教えてくた。生まれつき心臓が悪くて、小学校はほとんど行っていないこと。目の前にいる兄ちゃんは、小学生の時の友達。だけど、一緒に過ごした時間はとても短かったこと。おばさんは中高の時の同級生。だけど、学園生活の大半を保健室で過ごしたこと。友達と呼べる人はこの二人と、あともう一人の三人ぐらいしかいないこと… そして、おじさん先生が次に放った言葉に衝撃を受けてしまって...あまりの衝撃に身動きも取れず...言葉を発することさえ出来なかったんだ。 「少し語弊があるんだけど...君に分かりやすく言うとね、四年前、岩崎さんは拉致されたんだ。」 えっ? 「彼がここに運ばれたとき、私は当直でね。救命の方から連絡があったんだよ。『先生の患者さんの岩崎さんって方が運ばれて来ました』って。心臓の発作かと思って急いで駆けつけてみると...違かった。全身血だらけで···顔なんて腫れ上がってて...もう誰なのか全然分からない。瀕死の状態の彼が、救命の医師や看護師に囲まれて、身体中にたくさんの管を付けられた状態で、目の前で横たわっていたんだ。信じられなかったよ。綺麗な顔立ちで、とても優しく、いつも穏やかな岩崎さん。笑う時すらも遠慮気味に小さく、それでも楽しそうに笑っていた彼の身に、一体何があったんだろう...って、正に茫然自失状態。そんな時、看護師が手渡してくれたものがあってね。掌に乗せられたのは、血まみれの押し出された後のカプセル薬のゴミ。私が処方した心臓の発作を抑える薬。ずっと握り締めていたんだって。あんな瀕死の状態でも薬を服用して、最後の力を振り絞って、生を掴み取ろうとしたんだ。彼のために私は祈った。医者なのにそれしか出来ない自分の無能さを、あれほど情けないと感じた日々はなかったな......彼の生きたいという気持ちと救命チームのおかげで、岩崎さんは一命をとりとめた。でも...その代償として、彼は色んな物を失った。体の自由、声、仕事、笑顔···心と体のバランスを崩してね。生きることも何度か放棄しかけた。それでも、ここにいる二人が励まし続け、助けて来たんだ。そのおかげで、彼は少しずつ元気を取り戻し、出来ることも増えていった。今では、調子が良ければ会話も出来る。ただね、まだ決定的に出来ないこともあるんだ。それは、会話を聞き取ること。それが長かったり早かったりすると、かなりの確率でその会話が、ただの音に変化する。君が待合室で彼に話し掛けた時、どうだったかな?きっと、長いか早いかどちらかだったんじゃない?」 「そうだったと思う...それじゃ...」 「岩崎さんは、君や泉ちゃんに対して無下な態度をとったワケじゃなくて、ただ···何を言ってるのか分からなかったんだ。しかも運悪く、今日は声が出せない。どうしたら良いのか分からなくて、俯くことしか出来なかったんだよ。そんな彼が突然、見ず知らずの人間に腕を取られ、待合室から連れ出されそうになった。岩崎さんは...どう感じただろうね...」 「四年前のこと...思い出したかも...」 「うん。でも、それを思い出したのは、岩崎さんだけじゃない。」 「あっ!」 俺は空かさず兄ちゃんを見た。兄ちゃんは目を閉じて、少し上向き加減で、何だか悲しそうな表情をしていた。多分、これが悲痛な表情というのだろうと初めて思った。 「海野さんが君に掴み掛かろうとしたのは、そういう理由なんだよ。海野さんは一番近くで、苦しむ岩崎さんをずっと見て来たんだ。守ろうとするのは当然だろう?だから...許してやって欲しい...」 「俺...俺......ごめんなさい。悪気は全然なかったけど...俺...岩崎さんに酷いことした...」 「大丈夫。全ては泉ちゃんっていう友達を思いやっての行動だったこと、今では十分反省していること、きちんと岩崎さんに説明しておくよ。」 「ねぇ、先生?」 「何だい?」 「岩崎さんを拉致した犯人って捕まったの?」 「すぐに捕まったよ。私利私欲のための犯行だった。岩崎さんに何の罪も落ち度もない。でもね、そんな不本意な体験から、彼にとって外出は恐怖そのものになってしまったんだ。家の外は怖いものだらけ。だからね、次に岩崎さんを見かけた時は、そのことを念頭に入れて接してあげて欲しい。来週からリハビリを再開する予定なんだ。病院の敷地内で会うことも多くなるだろうから、その際、院内学級に行って、泉ちゃんに会いに行って欲しいって、彼が理解しやすいようにお願いしてごらん。絶対にOKしてくれるはずだよ。」 「うん。分かった。先生あのさ、俺···岩崎さんが起きるまでここで待っていても良い?」 「良いけど...どうして?」 「俺...やっぱり自分で謝りたい。岩崎さんに。きちんと自分の言葉でさ。でも...岩崎さん、また怖がっちゃうかな…俺を見て。そうだったら、逆に可哀想だよね...」 「いや。君がそうしたいのなら、そうした方が良いだろう。」 「うん······」 「大丈夫!何も心配するな。」 おばさんが突然、口を開いた。 「岩崎に謝罪する時、私と海野もそばにいるよ。君に悪気はなかったと岩崎が理解出来るまで、きちんと話してやる。私も君に、岩崎っていう男を知って欲しい。そうすれば、おのずと君の大切な泉ちゃんが言った『私の希望』の本当の意味が分かると思うんだ。」 『私の希望』の本当の意味?」 「おばさん...いや、お姉さんは分かるんですか?」 「何となくね。まだ確証はないけど。岩崎が目を覚ますまで、もう少し時間があるはず。私はその間、泉ちゃんを訪ねて、私の考えが合っているのか確認してくる。もう二人だけにしても揉めることもないだろうからね。」 俺にそう言った後、おばさんは、おじさん先生に言った。 「先生、お忙しいのにここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます。よろしければ、後のことは私に任せてくださいませんか?」 「そうだね...じゃあ、お願いしようかな。岩崎さんが目を覚ました時、また会いましょう。」 おじさん先生は立ち上がり、部屋を出る直前、俺の頭を撫でた。俺は驚いておじさん先生を見つめた。 なっ...何? 「ああ、失礼。やっぱり、君はとても誠実で優しくて、本当に良い子なんだなぁ。君みたいな子が医学界で活躍することが、私の楽しみなんだけどなぁ。」 おじさん先生はそう言って、部屋を出ていった。

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