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事情 #3 side S ~Sayaka Iwashiro ~
2時間近くが経過した頃、岩崎は目を覚ました。奥野先生が診察を終え、私達は面会が許されたが、岩崎を不安にさせないため、まずは海野一人で事の次第を説明することになった。処置室のガラス越しに見た岩崎は海野を見つけると、この上なく穏やかな表情をしていた。その様子を見て、航は安心したように呟いた。
「良かった...何だかホッとしたって顔してる...」
「そうだな。」
「待合室にいた時とは雲泥の差だよ。」
「海野がそばにいるからな。」
「兄ちゃんは、ずっと岩崎さんの世話をしているの?」
「うん。」
「家族でもないのに?」
「その家族が...岩崎にはいないんだ。」
「家族が...いない?」
「身寄りはいるよ。皆さん良い人ばかり。でも、子供の頃のトラウマのせいで、岩崎はその人達とは一緒にいられないんだ。一緒ににいればいるほど、自分を失って、苦しくなってしまうんだよ。かと言って、一人にしておくのはもっと危うい。海野はそれが分かってる。死人の様な生き方をしていた頃の岩崎を海野は知っているからね。」
『今から少し長い話をするよ。分からなくなったら手を挙げて。分かった?』
処置室の中にいる海野の声が、くぐもるように遠くからゆっくりと聞こえた。
「あんな風に話さないとダメだったんだ...」
「そう落ち込むな。君は知らなかったんだから仕方あるまい。」
「そうだけど...」
航はしばらく黙って処置室の二人を見つめていた。
「俺...あんな風に出来るかな...」
「あんな風って?」
「兄ちゃんみたいに...泉ちゃん...支えてあげられるかな...」
「あそこまでは無理さ。あの二人は絆は運命的なものに近い。ただ、泉ちゃんが一番必要としているサポートを君がしてあげられるかもしれないよ。」
「えっ?」
「なぁ、泉ちゃんが岩崎を『希望』と言ったのはどうしてだと思う?」
航は首を横に振った。
「岩崎は生まれつき心臓が悪い。そのせいで、人生の大半を病院やベッドの上で過ごしている。病は違えど、泉ちゃんも似たような境遇だ。小学校もほとんど行けなかった岩崎が中学、高校へと進学し、その後、第一希望の美大に進み、無事卒業し、画家という仕事まで手に入れた。それを知った泉ちゃんはどう思っただろう?」
「体のことで...進学を諦めなくてもいい...頑張れば...夢は叶う?」
「だから、何の障害もなく高校へ進学した君に、泉ちゃんは『航君には分からない』と言ったんだよ。きっと。」
「そっか...そうだったのか...」
「なぁ、航君?」
「うん?」
「来年、S学園を受験してみてはどうだろう?」
「S学園?私立だろ?無理だよ...そんな金、親父が俺に出してくれるはずないし、あそこ偏差値高いし...」
「大丈夫。頑張って勉強して特待生を狙え。泉ちゃんはきっとS学園の受験を考えてる。泉ちゃんのような境遇の子が安心して通える高校は、この辺じゃS学園だけだからな。二人で一緒に通ってさ、彼女の高校生活をサポートしてやれよ。私が岩崎にしたようにさ。」
「出来るかな...」
「ひとまず何かアクションを起こしてみな。父親に相談することも然り、受験勉強を始めることも然り。これは泉ちゃんのためでもあるけど、君のためでもある。君は学業に戻るべきだ。S学園なら特待生を逃しても、色んな奨学金制度がある。とても良い学校だよ。卒業生が言うのだから間違いない。」
「考えてみるよ…」
海野に呼ばれ、航は処置室へと消えて行く。航は岩崎に謝罪をし、岩崎は
『大丈夫。君は良い子。分かる。』
と唇で知らせた。それを聞いた航が岩崎の胸に飛び込み、海野がヤキモキするというなかなか面白い光景が見られた。
後日、海野から送られてきたメールには、航の身辺とその後の様子が記されていた。航は父子家庭で育ち、父親は現在、海外赴任中。学業のため、航は一人日本に残った。そんな折り、父親の再婚が決まった。父親と家族になる女性との間に、まもなく新しい命が誕生することを知った航は、自分の居場所を失ったと思い、一人で生きていくことを決断。高校を退学し、バイト生活を始めたばかりだった。あの待合室の一件から数日後、海野に諭された航は、父親と話し合い、来年、私と岩崎の母校を受験することになった。それからというもの一生懸命勉学に励んでいるらしい。そして、すっかり岩崎になつき、いや、海野曰く、岩崎にメロメロになった航は、受験勉強の質問と称し、ちょくちょくEvergreenや岩崎家を訪れ、岩崎のそばから離れないのだという。そこからは、おおよそ成人男性が書いたとは思えない、独占欲丸出しのボヤキだけが書かれていた。
Evergreenも岩崎家もだいぶ賑やかになったことだろう。
ヤキモキする海野とそれに全く気が付かない岩崎を見るのは、かなり面白そうだ。
『来週の火曜日、そちらに行く。』
そう短く返信をし、手帳のその日に二重丸を付けた。
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