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儚い人 #7 side Y

「えーっと、航君...だったかな?」 冬真が笑顔で手を取り、嬉しそうにしているのとは対称的に呆然と立ちすくむ航に、小泉さんが声を掛けた。 「はい。」 「良かったら、君のこと教えてもらえないかな?」 「俺のこと?」 「そう、君のこと。君のことなら何でも良いよ。言葉は悪いけど、君に興味があるんだ。短くても良い。ただ、坊っちゃまと、どのようにして出会ったかのだけは絶対に教えて欲しい。良いかな?」 「はい。」 「ちょうど良い時間ですし、ここらでお茶にしませんか?葉祐さん。」 俊介さんに促され、俺はコーヒーを淹れるためキッチンへ向かった。 コーヒーの入ったカップを各々に差し出すと、航は話を始めた。名前からスタートしたその内容は、俺達が把握しているものとほぼ一緒だった。学校のこと、髪のこと、親との関係、泉ちゃんのこと、泉ちゃんを通して俺達と出会ったこと。その際、冬真を傷つけてしまったこと、受験のこと… 航がここまで一気に話すと、俺の隣に椅子を並べて座っていた冬真が、俺のTシャツの脇を掴んだ。 「うん?どうした?」 顔を覗けば、眉はすっかり下がり、瞳が揺れている。 ああ...音になっちゃったんだ...会話。 「大丈夫。後でちゃんと教えてあげるよ。」 冬真の頭を撫で、ゆっくり語りだした俺を見て、航はソファーから立ち上がり、冬真の前まで来ると膝立ちになり、自身の両手で冬真の両手を優しく包んだ。 「またやっちゃった...ごめん。ごめんね、冬真。次は気を付けるから...」 人の会話が音にしか聞こえなくなると、その後、しばらくは音の余波らしきものが鳴り響き続け、どんなに大きい声でも、ゆっくり話しても、ほとんど伝わらないのだと、以前、冬真から聞いたことがある。今、まさにこの状態なのだろう。冬真は航をじっと見つめ、航の唇から言葉を汲み取ろうとしている。 「冬真さん。」 俊介さんが背後から冬真の肩を叩いた。振り向く冬真に俊介さんは、右手で二回自身の胸を叩き、それから、本を開くような手振りをした。 「私と画集でも見ましょうか?」 俊介さんが普段見せるものとは全く違う、かなり大きい声量と手振り。だけど、きっと冬真には聞こえていない。なぜなら、冬真は音を頼りにしている素振りを見せず、俊介さんの手にばかり集中しているから。恐らく、画集は伝わってはいない。だけど、『俊介さんと本を見る』ということは伝わったのか、冬真は首を横に振った。すっかり落ち込んだ冬真に、俊介さんは今度は三本の指で何かを掴み、持ち上げ、置くという一連の動作と、再び自身の胸を二回叩いてを見せた。 「じゃあ、チェス。チェスをしませんか?」 曇っていた冬真の表情が少しだけ変化した。チェスが伝わったのだ。冬真の周囲でチェスが出来るのは、天城医師と修くん、それから俊介さんぐらいだった。俺が店に出ている時、俊介さんが冬真の面倒を見てくれる日がある。そんな時、チェスなんていつでも出来そうな気もするが、冬真の面倒を見ている時、俊介さんは場所を変えても出来る仕事をしていた。製造以外のこと。主にデザインや材料の発注、経理上の何か。冬真もそれが分かっているから、絵を描いたり、画集や色見本などを見たりして、邪魔にならないように心掛けている。冬真は俊介さんとチェスをするのを、実はとても楽しみにしていて、言えば俊介さんはいつでも応じてくれるのだが、俊介さんの邪魔になりたくない冬真はそれを言わない。だから、二人がチェスをする機会はあまりなかった。 「ねっ、しましょう。チェス。」 俊介さんは再び、あの一連の動作をしながら言った。冬真は頷いた。俊介さんは冬真を立ち上がらせ、俺にアイコンタクトをして頷いてみせた。 「小泉さん、大変申し訳ありません。気分を少し落ち着かせて参ります。皆さんのお話が終わる頃、また戻って参りますので、ここは一旦失礼させて頂きます。」 二人は小泉さんに頭を下げ、リビングを出ていった。 「また傷つけちゃったな...俺...冬真のこと。」 航が呟くように言った。 「気にするな。お前が全てを冬真に合わせる必要はねえよ。」 「でもさ...」 「それに、冬真だってそんなこと望んでないさ。だから、リハビリだって頑張ってるんだし。」 「うん…」 小さく返事をした後、航は話の続きを再開した。

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