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旅立ちの日 #1 side W
約束の時間に指定されたイタリアンレストランに行くと、岩代さんはカプレーゼをつまみにワインを飲んでいた。
「遅せーよ。」
「ちょうど5時。そっちが早いんだよ。」
「そうか。まぁ、座れよ。」
「うん。」
席に着くと、岩代さんは乱暴にフォークを差し出した。
「全く...ひでー顔してんな。寝てないのバレバレだぞ。どうせ何も食ってないんだろ?ひとまず、これでも食え!」
「ありがとう。」
カプレーゼを一口頬張った。とても美味しかった。考えてみれば、葉祐の作った朝食を食べて以来の食事だった。
「好きなもの食えよ。奢ってやる。」
「何でも良い。岩代さんに任せるよ。」
「可愛くねーな。私の奢りなんて超レアなんだぞ!全部酒に合う物になるぞ。後で後悔するなよ。」
そう言いつつも、岩代さんは『ボローネーゼか?グラタンか?』と小声でいかにも子供が好きそうなものをチョイスしようとしている。岩代さんの手からメニューを取り、ペラペラとめくって、
「アンチョビとイカのピザ、ルッコラと生ハムのサラダ、それとジンジャーエール。」
と言った。
「あり得ねー!ガキのくせに、何だそのチョイス。」
「これでも気を遣ったんだよ。これなら酒のツマミにもなるだろう?」
「ホントに可愛くねー。」
それからまた沈黙が続いた。どうしたら良いのか分かず、ずっと黙っていた。沈黙を破ったのは、岩代さんだった。
「どこまで聞いたんだ?」
葉祐から聞いた話...冬真の家のこと、両親のこと、お父さんの死とお母さんの病気。お母さんと離ればなれにならなければならなかった理由。それから..冬真自身が遭遇してしまった事件のこと。その他に昨日の出来事、前々から考えていたこと、小泉のおじさんの話も伝えた。
「で、お前はウジウジしていると。」
「ウジウジ...って...」
「お前は岩崎の壮絶な過去を知って、あまりのショックに、岩崎とどう向かい合えば良いのか考えあぐねているんだろう?」
「......」
「いいか、航。お前はまだ16で、こんな話を聞いてショックを受けるのは当然だ。大人とは言えないお前が、岩崎を見る目が変わってしまっても仕方がない。でもな、岩崎には何の落ち度も罪もない。それだけは分かってやってくれ。」
「大丈夫。分かってるよ。冬真は冬真だ。見る目は変わらない。でも...」
「でも?」
「冬真はそれらをどんな気持ちで受け入れたのか...俺はどうしてやったら良いのか...」
「なぁ、何で海野がお前に事実を打ち明けたと思う?」
俺は首を横に振る。
「全てではないけど、岩崎を託そうとしているんだよ。お前にさ。だから岩崎の過去を話したんだよ。信用してるんだ、お前のこと。人としても、男としても。」
「えっ?」
「海野には岩崎のため、ずっと心掛けていることがあるんだ。それは、岩崎が諦めてしまったもの、諦めなくてはならなかったものを一緒に取り戻すこと。」
「諦めてしまったもの?」
「まぁ、平たく言えば、子供の頃にしてきたであろうはずのことを経験すること。例えば、映画館で映画を観たり、海に行ったりとかさ。岩崎は体のことや家の事情もあって、そんなことすらもしたことがないんだよ。海野は岩崎の体調を最優先して、無理をさせないように少しずつゆっくりと、色々なことを一緒に経験し、岩崎が不安になったりしないよう、そばにずっと寄り添って来た。取り分け、一番経験値が乏しい『褒められる』ということを絶対に忘れず、どんな些細なことでも褒めたんだ。色んなものが欠落し、空っぽだった岩崎にも、徐々に温かいものが流れて来て、本当に幸せそうだったよ。そんな矢先、岩崎は事件に遭遇した。一命はとりとめたものの、全てをなくした岩崎は心を閉ざし、全てを放棄するように、辛うじて呼吸だけはしている存在になってしまった。誰かの手がなければ、もう生きていくことも困難な状態だった。海野は岩崎のために会社を辞めた。あの頃の海野は、本当に大変だったと思う。手探り状態で出口の見えない日々、押し寄せる不安と一人で戦っていた。それでも、海野は常に岩崎の幸せだけを考え、自分に出来ることをずっと模索し続け、実行に移した。でも、ある時、気が付いたんだ。岩崎にとって一番近い存在となった自分には、どうしても与えてやれないものがあると。自分では与えてやれないそれを与えてやるには、自分の手から岩崎の手を離さなければならない。だが、心と体のバランスが不安定な岩崎に、それが本当に必要なものなのか、ずっと悩んでいたんだ。でも、昨日、小泉さんとお前の話を聞いて、海野は考えた。やっぱり自分の手から離してでも、岩崎には必要なものがあるのだと。しかも、それを小泉さんも望んでいる。海野はお前に白羽の矢を立てた。泉ちゃんを守ろうとしているお前なら、岩崎に何かあった時、最善を尽くしてくれるんじゃないかと...だから、お前に託すことにしたんだよ。」
「分からないよ...俺...葉祐に出来なくて、俺に出来ることなんて。冬真にとって、葉祐は絶対だ。そんな葉祐を越えられる要素が俺にあるとは思えないよ!」
「友達のように接すること。そして、時には弟のように接すること。それだけだ。小泉さんは言ったんだろう?岩崎には友達との日常がないって。確かに岩崎は学生時代、友達と何かをしたってことがない。保健室登校で学校行事にはほとんど参加していないし、送迎は車だったしな。学生時代の楽しい、時には甘酸っぱい友達と日常。そんなの海野じゃ無理だ。学生時代からはほど遠い年齢な上に、岩崎から近い存在過ぎる。でも、お前は違う。現役だし、何よりも岩崎より年下だ。岩崎は誰かに頼られるってことも経験がない。そういうことも含め、海野はお前に...岩崎のことを考えてくれているお前に...大切な岩崎を託したいと思ったんだよ。」
「俺...葉祐の想いに応えたい...でも...俺が倒れそうだったら...岩代さん助けてくれる...?」
自分の気持ちを正直に伝えた。もう...それだけ言うのが精一杯。
「当たり前だろ?私も海野も藤原さんも、お前を一人にする気は毛頭ねぇよ。私達はチームであり、家族なんだからさ。」
岩代さんはそう言って笑った。
その日...俺はみっともなく泣き続け、次の日、冬真に誘いの連絡を入れた。
「わたくん...?どうしたの?」
隣で料理をしている冬真が小首を傾げて言った。
「何でもないよ。ちょっと考え事してただけ。」
「わたくん...かみ...にあう。」
小泉のおじさんの店で黒に戻した髪に触れながら、冬真が言った。
「そうかな。」
「うん。わたくん...りりしいかおだち...くろかみ...にあう。」
「冬真がこんなに褒めてくれるんだったら、もっと早く元に戻せば良かったなぁ。」
「ねぇ。わたくん...とまと...きって...」
うふふと笑った後、そう言って、冬真はトマトを差し出した。
「普通に櫛形に切ればいい?」
「うん。ぼく...わたくんち...いく...ほうちょう...つかわない...やくそく...ようすけと...」
「うん。聞いてる...っーか、憲法か!ってぐらいの量の注意書もらって読んだ。あっ!冬真の分はもう少し小さく切らなくちゃだね。」
「ごめんね。」
「ううん。これぐらいどうってことないけど...でも...良いのかな?冬真に晩飯作らせちゃって...後で葉祐に怒られるんじゃないかな?」
「だいじょうぶ。ようすけ...やさし...い。でも...ようすけ...ぼくのからあげ...だいすき...いいなって...いうかも...」
「葉祐が優しいのは冬真にだけだよ。でも、冬真の唐揚げ食べたって言ったら悔しがるかな?ちょっといい気味だ。」
「だめ...けんか...」
「分かってる。しないよ。冬真が悲しむことはしない。それより楽しみだなぁ...冬真の作るご飯!明日の朝食は俺が作るからね。」
冬真は微笑んで、再度料理に集中する。
「明日の夕方、葉祐が迎えに来てくれるって。それまで俺ら自由だぜ!何しよっか?葉祐に内緒でドーナツたらふく食っちゃおうか?」
「ようすけに...ひみつ...いや...」
「じゃあ、冬真が俺んちに泊まりに来た記念で、チェス買いに行こうか?ほら、駒っていうの?あれにさ進み方とか書いてあるやつ。子供向けのさ。あれ買って来ようよ。それで、俺に教えてよ。次、冬真が泊まりに来た時、キチンと勝負出来るように勉強するからさ。あとは...ジュース買って、お菓子も買って...あっ!お互いオススメのお菓子を一つ買ってさ、交換しない?」
「うん...たのしみ...」
冬真は微笑んだ。その笑顔はやっぱり美しく、とても可愛らしかった。葉祐が冬真を笑顔にしたい、この笑顔が見たいって思ったこと、スゲー納得出来た。
俺...頑張ろう。
出来るところまで。
俺にだって出来ることあるんだから。
俺のこと、信用して待ってくれている人がいるんだから。
もう辞めよう。
拗ねてバカなことしてみたり、ウジウジしたりするの。
昨日までのお子様の自分におさばらだ!
見てろよ!葉祐!
今はまだまだだけど...少しでも葉祐に近づいて...
俺も泉ちゃんを笑顔にしてみせるから!
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