238 / 258
その夜 #1 side Y
冬真が初めて俺の元を離れ、航の家に泊まるその夜、俊介さんが急に訪ねて来た。彼をリビングに招き入れる。
「どうされたんです?」
彼に訪問の理由を尋ねた。俊介さんは何か答えてくれてはいたが、どうしても冬真のことが気になって、彼の言葉が全然頭に入ってこない。申し訳ないと思いつつ、コーヒーを淹れようとキッチンへ向かった。キッチンにいる間も心ここにあらずで、彼が何か言っていることに気付いたのは、きっと彼が話し掛けてから随分後のことだったのだろう。彼はそんな俺を見つめ、苦笑いをした。それから、予想もつかないことを口にした。
「酒でも飲みましょうか。葉祐さん。」
「へっ?」
「気になって仕方がないのでしょう?冬真さんのこと。」
「ええ。まぁ...しかし酒は...」
酒なんて口にしたら...冬真に何かあった時、すぐに駆けつけることが出来ない。そんなのは醜態に近い。
「大丈夫。航を信じましょう。ちょっとキッチンお借りしますね。」
しばらくすると、キッチンから良い香りが漂ってきて、30分たった頃には、ラザニアをメインに数々のイタリアンがテーブルに並べられていた。
「こんなことだろうと思っていました。放っておくと冬真さんのことが心配で、何も召し上がらないでしょう?ですから、最後に一手間加えるだけで済むようなものを作ってきたんです。それに、ラザニア長らくお召し上がりになっていませんよね?冬真さんが熱いものを食すのは、火傷の可能性があるから無理ですし。こんな機会でもなければ、葉祐さんが食することもないでしょう?さっ、熱いうちに食べてください。」
席に着くと、俊介さんはスパークリングワインをグラスに注ぎ、それを目の高さまで持ち上げた。
「冬真さんの新たなる旅立ちと冒険に乾杯!」
「かっ...乾杯...」
おずおずと乾杯をする俺に反して、俊介さんは笑顔で乾杯した後、スパークリングワインを一気に飲み干した。
「向こうでもジュースで乾杯している頃ですかね。どんな食事を摂っているのやら。」
「俊介さん。俺...やっぱり...」
俺は一口も口をつけずに、シャンパングラスを置いた。
「心配ですか?」
「ええ。何かあった時、すぐに駆けつけられないのは...」
「葉祐さん。航を信頼したんじゃなかったんですか?」
「もちろん信頼しています。ですが...」
「こちらが考えているより、航は子供ではありませんよ。彼なりに色々考えているみたいです。」
「どういう意味ですか?」
「先日、岩代さんから伺いました。冬真さんをお誘いしたその日、航は岩代さんに連絡して、N大病院の奥野医師にアポを取ってもらっています。」
「航が?何故?」
「今回、自宅に招くにあたり、留意点や何かあった場合どうしたら良いか、奥野医師に確認したそうですよ。一つ一つ丁寧に。航の家は病院から歩いて10分ほどのマンションだそうですから、我々が駆けつけるより、病院へ運んだ方が早い。もしもの場合、受け入れてもらえるかどうかまで確認したそうです。奥野医師も航の行動に随分感心されたそうです。」
「本当ですか?」
「はい。私はすぐに航に連絡を入れました。『当日、葉祐さんが落ち着かず、ソワソワするでしょうから、葉祐さんのためにも、その晩は二人でワインを開けるつもり。』それだけ伝えました。航は勘の良い子ですから、それだけで、私の意図が伝わったんだと思います。」
「それで、航は何と?」
「『落ち着きのない葉祐と、滅多にない落ち着きのない楽しい晩餐を。』と。」
「ったく!あいつは!」
「それでも電話を切る直前に『そこまで信頼してくれて嬉しい。』そう言っていました。少し航に任せてみましょう。航にとっても今日が正念場なのかもしれません。大人の男になるための。」
「もうっ。俊介さん。今日はトコトン飲みましょう!今日は帰しませんからね!」
俺はシャンパングラスを一気に煽った。
「はいはい。どこまでもお付き合いしますよ。今日はあなたにとっても正念場ですから。」
「俺?」
その時、俊介さんのスマホが短い音を発した。
「ちょっと失礼。」
俊介さんがスマホを確認すると、彼はたちまち笑顔になった。
「ほら。やっぱり。」
そう言って俊介さんはスマホを差し出した。メールの主は航で、そのメールには画像が2枚添付されていた。1枚は2人で乾杯する様子で、もう1枚は航に手助けしてもらいながら、夕飯を一生懸命食べる冬真が写っていた。どちらも穏やかな表情だった。
「良かったですね。思い切って任せてみて。」
「はい...でも...」
「でも?」
「何て言ったら良いのかな...嬉しいんですけど...正直ちょっと寂しいような...」
「やっぱりあなたにとっても正念場のようですね。まるで、今まで大事に育ててきた娘を嫁に出す父親のようだ。まぁ、今まで大切に慈しんできたのですから、そんな風に考えてもやむを得ないところはあります。ですが、子離れも大切です。明日は笑顔で迎えてあげましょう。冬真さんにとって、喜ばしいことなんですから。さっ、感傷に浸って良いのは今だけ。今日はトコトン飲みますよ。私もそのつもりですから、今晩はこちらに泊めてくださいね。」
俊介さんは微笑み、再度グラスにスパークリングワインを注いだ。その晩、俊介さんと飲んだスパークリングワインは少しだけ涙の味がした。
ともだちにシェアしよう!