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約束の日 #3 side Y

2階に上がり、左手にある引き戸を開くと、扉の向こうには小さな部屋があった。装飾品など一切ない、清潔に保たれた畳敷きの至って普通の小部屋。しかし、そこは冬真にとって優しく、温かい空間だった。 「冬真君!」 平塚夫妻は俺達二人の姿を見ると、すぐに立ち上がった。夫の将吾氏は冬真の両手を取った。 「しょうごさん...おまねき...ありがと...う。ぼく...うれしい。しょうごさん、おけいさん、あけみさん...あいたかった。」 「うん。僕もだよ。冬真君!」 将吾氏は冬真の手をブルンブルンと振り、冬真との再会の喜びを全身で表していた。 「忙しいのに悪かったね。店、閉めてから来たのかい?」 妻の景子氏、いや、お景さんが俺に言う。 「今日は休業しました。」 「わざわざ休みにしたのかい?悪いね...時間を考えるべきだったね。」 「いいえ。最近、冬真をどこにも連れて行ってないことに気が付いたんです。せっかく素敵なホテルを取って頂いたのですから、ちょっとした小旅行を兼ねようかと考えました。今日はX寺を参拝してきました。近くに住んでいながら、二人とも行ったことがなかったんです。境内を散策したり、名物の蕎麦を食べたり、絵を描いたりして楽しく過ごしました。明日は美術館巡りをしようかと考えています。お二人のおかげです。それと、先日は冬真が大変お世話になりました。あの時、お景さんに見つけてもらえなかったら...そう考えると今でも血の気が引く思いです。本当にありがとうございました。」 「いやいや、私達は何も。それより、喜んでもらえて本望だよ。あっ、アタシの亭主を正式に紹介するよ。」 お景さんは改めて、ご主人の将吾氏を紹介した。俺と将吾氏は握手をした。 「すっかりご無沙汰してしまってすみません。海野様。」 将吾氏は彼の職業を彷彿とさせる丁寧なお辞儀をした。 「『葉祐』で結構です。俺も冬真同様『将吾さん』って呼ばせて頂きますから。」 「ありがとうございます。そうさせて頂きます。」 将吾氏、いや、将吾さんは微笑んだ。 「さ、早くおすわり。寒かっただろ?」 お景さんがヒーターのそばの席に座るよう促した。着席するとすぐ、冬真が俺の服の袖を小さく引っ張った。 「うん?」 冬真の顔を見れば、ウズウズと何かを待ちきれないといった、子供のような可愛らしい無邪気な表情だった。 「ああ、ごめん。あれね。」 冬真に紙袋を渡す。 「しょうごさん...おけいさん...ぼく...だいすき。これは、おれい。」 冬真は二人に、また色紙ほどの大きさの紙を差し出した。そこには森で仲睦まじく寄り添う二匹のリスが絵が描かれていた。 「ぼくのいえ、まいにち...りす...きます。にひき...とてもなかよし。しょうごさんと...おけいさんみたい。」 冬真の絵を見た二人はそれぞれ、感嘆の言葉を漏らした。 「しょうごさんには...おまけ。」 冬真は将吾さんに、藤の花とお景さんが描かれたあの紙を差し出した。将吾さんは愛しい物を愛でるように指で触れ、うっとりと絵を見詰めた。 「ふじのはな...おけいさんのたんじょうびのはな。しょうごさん...おけいさんだいすき。それならふたり...いつもいっしょ。おけいさん...しゃしんじゃない...これならゆるしてくれる?」 「冬真君...」 お景さんは苦笑いをし、絵に視線を移した。将吾さんは少し震え気味の声で言う。 「素敵だね。君の絵は本当に美しくて...観る側の心の内の見苦しい物、全て拭い去ってくれるんだ。君の絵の前では、観るもの全員が純粋な気持ちに戻れる。ねぇ、お景さん?」 「ああ。」 お景さんが短い返事をすると、将吾さんが無言で頷いた。そんな将吾さんに、お景さんも無言で頷き返した。 「冬真君、葉祐君、早速なんだけど...今日来てもらったのはさ、実は冬真君に仕事を依頼したいからなんだよ。」 えっ? 居ずまいを正したお景さんから発せられた言葉は、今の俺達にとって、全く思ってもみない言葉だった。

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