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ヘッドハンティング side S (sho-chan)
僕は戸惑っている。
そのワケは、葉祐君から手渡された彼の店のコーヒーチケットと白い封筒。
何故これを?
僕は戸惑っている。
だけど...それは...
葉祐君が僕に与えてくれた...微笑ましい戸惑いだった。
葉祐君の店、「Evergreen」に着いたのは、午後2時過ぎだった。葉祐君は僕の訪問をとても喜び、噂通りの美味しいコーヒーを頂いた。カウンターのそばにぐるりと円を描くように配置された10席ほどのテーブルと椅子。とても落ち着く空間で、かなり居心地が良かった。そこから少し離れた壁沿いにちょっとしたギャラリーがあり、そこには冬真君が今まで手掛けた作品が展示されていた。絵画は勿論、装丁した書籍、挿し絵を施した児童書などが置かれていた。僕は瞬時にこのギャラリーの虜になった。すっかり時間を忘れ、絵画を見入り、児童書を読み耽った。そうしているうちに、午後3時を回り、店内がどっと混み始めた。葉祐君と彼らの会話を聞いていると、その語り口から、どうやらこの人達は常連さんで、平日のこの時間、彼らがここを訪れるのは日常のことのようだった。僕は店を辞することにした。葉祐君と少し話がしたかったが、この状況では仕方あるまい。テーブルのカップを片付け、礼を述べようとした時、葉祐君が言った。
「将吾さん、大変申し訳ないんですけど...お時間があったら、少し手伝ってもらえませんか?今日は人手が足りなくて...」
当然『勿論』と答えた。急いでシャツの袖を捲り、手渡されたエプロンを身に纏うと、いわゆるホールの仕事をした。それはフレンチレストランのギャルソンの仕事に似ていて、修行時代を思い起こさせ、背筋が更にピンと伸びた。ありがたいことに、多くのお客様から接客についてお褒めの言葉を頂いた。その度に葉祐君は、
「その方は平塚さんと仰って、K町にあるフレンチレストランの総支配人さんなんです。接客のプロなんですよ。平塚さんのお店は、接客もさることながら、料理も完璧です。皆さんも是非一度足を運んでみてくださいね。」
と言い、そして更に
「あっ、将吾さん、今日はお店の名刺はお持ちじゃないんですか?」
と僕に店の名刺を配るよう促した。僕は常に持ち歩いている名刺を『よろしくお願いします。』とお客様に手渡した。結果、最終的に持ち歩いていた数十枚の名刺が全部なくなった。
店も閉店となり、店内の片付けも一段落した頃、葉祐君はコーヒーを淹れてくれた。
「すみません。せっかく来てくださったのにお話も出来ず、無理なお願いをしてしまって。」
「いやいや。とても楽しかったよ。修行時代を思い出して、とても懐かしかった。それに、お店の宣伝までさせてもらって...返って悪かったね。」
「いいえ。皆さんお店に伺うと思いますよ。K町は交通機関ならぐるっと遠回りだけど、車ならすぐですしね。あっ、将吾さん、これ...どうぞ。」
葉祐君は店のコーヒーチケットと白い封筒を差し出した。
「一流店のディレクトールにホールの仕事をお願いしておきながら、全く見合う金額ではないのですが...」
白い封筒の覗くと、中には五千円札が一枚入っていた。僕は戸惑った。
「いやいや、これをもらうわけにはいかないよ。大したことしてないし、僕自身がとても楽しんじゃったし...」
「将吾さん...ごめんなさい。お疲れでしょうけど、仕事...まだまだ終わりじゃないんです。」
「ああ。勿論最後まで片付けていくよ。」
「そうではなくて...将吾さん、明日もお休みでしょ?」
「へっ?何で知ってるの?僕、話したっけ?」
「いいえ。将吾さんにはこれから、大仕事が待っています。」
「大仕事?」
「はい。これから一緒にうちに行って、泊まりがけで冬真の将棋の相手をするという大仕事が待っています。将吾さん、寝かせてもらえるかどうか...」
葉祐君は両手を肩の高さまで上げ、首を左右に振り、続けて言う。
「労働時間度無視な上に、対価はそれらの他に、温泉と夕飯のカレーと酒が少々。勿論、朝食付き。一晩限りのヘッドハンティングですが、社長さんの許可は頂いてます。いかがでしょう?」
呆然としていただいた僕に、葉祐君は屈託なく笑う。やっと状況がやっと飲み込めた。そんな僕を見て、葉祐君は何とも彼らしい、眩しいほどの笑顔を僕に見せた。
「はい。喜んで。これでも将棋には少々覚えがあるんです。」
僕も笑顔でそう返すと、
「じゃあ、ちゃっちゃと終わらせますか。今日は声が出せないんですけど、将吾さんの顔を見たら、冬真絶対喜びますよ!」
そう言って、葉祐君は手を動かし始めた。
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