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台風の目 #2 side T

ねえ、葉祐... この人は...誰? ううん...僕はわかっている... この人自身のことは…何一つ知らないけれど... この人がかつて、葉祐の中でどういう位置付けにいたか... ねえ、葉祐... 僕は...僕は君のそばにいても...良いんだよね...? 「な...つみ......」 「久し振りだね。葉祐。」 なつみと呼ばれたその女性は、美しい笑顔をずっと葉祐に向けていた。それに対して葉祐は動揺を隠せず、その場から動けずにいる。僕が葉祐の前から姿を消したあの夏から、彼が交差点で僕を見付けてくれたあの冬まで、彼がどんな風に過ごしてきたのか、僕はほとんど知らない。しかし、この人はその知らない間の一時、彼にとって特別な存在だったに違いない。この場を離れた方が良い。二人のためにも、僕の心のバランスを守るためにも。お客様にしつこくされた時みたいに、早く隣の管理室へ逃げなくちゃ... 「ようす...け...」 「えっ...?」 僕の呼び掛けに葉祐は我に返った。 「もっぷ...だして...く...る...かん...り...しつ...」 モップを管理室に出しに行く...そう言って僕はこの場から離れようとした。 「大丈夫。このままここにいて良いんだ。話はすぐに終わるから。さっ、何の心配もしないで、ホットミルク飲んじゃいな。」 僕の心はもうすでにバランスを崩し始めているのか、上手く言葉が出てこなくなっていた。葉祐もそれに気が付いたのか、僕の席の隣で立て膝をついて、背中を擦ってくれた。 「何しに来たんだ?」 葉祐はなつみさんを睨みつけながら言った。 「何しにって?ここはカフェでしょ?お茶しにに決まってるじゃない?」 「こんなところまで?さっきも言っただろ?もう閉店なんだ。」 「随分冷たいのね。せっかく来たんだから、コーヒーの一杯ぐらい良いじゃない。そちらの美人さんもまだ飲んでる途中みたいだし。」 葉祐が甲斐甲斐しく背中を擦る僕を、なつみさんはチラリと見た。その視線は、自信、憎悪、懐疑、軽蔑、そんなものが複雑に入り交じっていた。僕はそれから逃れる様に俯いた。ただ、かつて葉祐の恋人だった女性に睨まれただけ。それだけのことなのに、僕にはそれに向かっていく勇気もない。僕はこんなにも弱くなってしまったのかと情けなくなった。どうすることも出来ず、ただズボンをぎゅっと掴んだ。 「君に出すコーヒーはないよ。もう帰ってくれ。」 「久し振りに会ったのに散々な物言いね。私のこと、まだ許せない?」 「勘違いしないでくれ。正直、君に対しては何の感情もないよ。そして、君の話を聞く気も、昔話をする気もない。」 「随分と徹底しているのね。」 「大切な人がいるんだ。中途半端に君を受け入れることで、その人に感じなくてもいい不安や誤解を与えたくない。」 「私がその人からあなたを奪いたいって言ったら?」 「馬鹿げてるよ。」 「そうかしら?」 「なあ、何の目的で、何しに来たのか分からないけど、もうここへは来ないでくれ。俺さ、今スゲー幸せなんだよ。派手なことも贅沢もしないけど、この世で一番大切に思っている人がさ、同じように俺のこと大切に思ってくれて、そばにいて笑ってくれる。そんな幸せを誰にも邪魔されたくない。その人がそばにいない人生なんて、俺ホント無理。失いたくないんだ。その人も、その人との幸せも、この穏やかな生活も。それでも君が邪魔をするならば、仕方がないけど法的手段に出るよ。」 「あはははは...つまらない女のせいで、随分とつまらない男になったのね?葉祐。私もあなたなんかに何の未練もないわ。私が興味があるのは、あなたのキャリアと人脈だけ。近々独立して店を出すの。だから、この際、利用出来るものは利用させてもらおうかと思ったけど、まあ、見当違いも甚だしかったわ。だけど、噂の美人店員君に遭遇できたのはラッキーだったわね。これぐらいの収穫もなかったら、ホントこんなところまで来た甲斐もなかったもの。じゃあね、葉祐。つまらない女と最高につまらない人生を!」 なつみさんは手をひらひらと振り、店から出ていった。その直後、僕は席から立ち上がり、カウンターへ向かった。 「どうした?冬真?」 葉祐が背後から不思議そうに声を掛けた。 「しお...だよ。しお...まかないと...」 僕の言葉に葉祐は、あははははと大笑いした。

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