256 / 258

Evergreen #3 side T

カウンターから塩を持参しようとする僕に、葉祐は笑いながら言う。 「あはははは...塩はもう良いからさ、こっちにおいで。」 おずおずと席に戻ろうとすると、葉祐がふわりと僕を抱きしめた。 「もう...俺は冬真が可愛くて可愛くて仕方がないよ。」 そう言って、僕の香りを確かめるように大きく深呼吸して、今度はぎゅっと抱きしめた。 「さっ、少し話をしよう。俺はミルクを温め直してくるから、冬真は入口の鍵をかけてきて。もう、邪魔が入らないようにね。」 あんな理不尽な罵声を浴びせられたにも関わらず、葉祐はとても穏やかだった。入口の鍵を掛け、席に座ると程なく、葉祐がカップを差し出し、隣の席に座った。 「何から話そうか...やっぱり、なつみの話だな。なつみは取引先のカフェのバリスタでね。自分で言うのも変だけど、向こうからの猛烈なアプローチがあって、冬真に再会する10か月前ぐらいに付き合いだしたんだ。何となく押されるがまま付き合い始めたけど、会う度に違和感だけが増していった。今考えると、そんなに好きじゃなかったんだと思う。それから4か月ぐらい経って、なつみが二股していることが分かったんだ。もう一方の男は、彼女の店のオーナーで不倫だった。即別れたよ。元々、彼女に執着もなかったし、彼女とオーナーのゴタゴタに巻き込まれたくもなかったしね。それが冬真に再会する半年前。別れてから一度も会ったことはなかったよ。それなのに、今日突然だったからさ、俺ビックリしちゃって...って、こんな話、嫌だっただろう?でも、話さないまま変に誤解されるのも嫌だからさ。」 「ううん...ありがと...はなし...」 「うん。」 「ようすけ...つよい…ぼく、よわむし...」 「どうして?」 「なつみさん...きっと、ぼくきらい…ぼくをにらんだ...でも...ぼくにげた...たたかうゆうき...ない...なさけない...」 僕はまた情けなくなって俯いた。すると、温かい手が僕の頭にポンポンと乗せられた。 「冬真は弱虫じゃないよ。あんなこと初めてだったんだ。ビックリもするし、怖いと思っても仕方ないよ。そんなのに慣れられても困るしね。冬真はさ、そういうところが良いんだよ。俺は冬真のそういうところ好きだよ。純粋無垢で優しい、天然で平和主義。本当に可愛くて可愛くて仕方がない。」 僕は恥ずかしくなって、徐に目の前にあるカップを取り、ミルクを飲むことに集中した。 「さっ、帰ろうか?俺達の家にさ。冬真が楽しみにしていた、二人だけの時間を始めよう。」 「うん...かえる...ぼくたちのいえ...はじめる...ぼくたちだけのじかん...」 それから僕達はしばらく見詰め合って、どちらともなくキスをした。深く...長く... 店を出る頃には、辺りは暗くなっていた。管理室に寄って、モップの引き渡しと年末の挨拶を済ませ、僕達は家までの道を歩く。 「あっ、そうだ!」 葉祐が突然そう言って、僕の前でしゃがみこんだ。 「なに?」 「乗れよ、冬真。」 「おんぶ?」 「うん。」 「なんで?」 「夢を叶えるのさ。冬真の夢を。子供の頃からずっと、冬真の夢を叶える方法を考えていたんだけど、結果、これが一番かなって。さっ、早く。」 よく分からなかったが、言われるがまま彼におぶさった。 「よしっ、ちゃんと掴まっててな。俺、出来る限り頑張るから!」 僕を乗せたまま立ち上がると、葉祐はそのまま走り出した。そして、家まであともう少しというところで、葉祐は立ち止まり、僕に尋ねた。 「ハアハア...どぉ?冬真?ハア...ちょっとは...ハアハア...走ってるって気分?」 えっ......? 僕はある光景を思い出す。 『なぁ?冬真君の夢って何?』 『夢?』 『うん。』 『そうだなぁ…出来るなら走ってみたいかな。』 『走る?』 『僕...走ったことないんだ...だから...走るって感覚がよく分からなくて...まぁ...泳いだこともないんだけど...』 『あのさっ。その夢...いつか俺が叶えてやるよ!どうしたら良いか一生懸命考えるからさ。いつか一緒に走ろうよ!』 そう...あれは約20年前...葉祐と初めて病院で会った翌々日、葉祐がプラモデルを持ってお見舞いに来てくれた時にした会話... 「あのときの...おぼえていて...くれたの?」 「ハアハア...一生懸命考えるって...ハア...言っただろ?それに...ハアハア...一度も忘れたこともないとも...ハアハア...言ったよ...ハアハア...疑ってたのかよ...ハア...」 葉祐はまた走り出そうとする。 「もう...おろして。」 僕を背中から下ろし、葉祐は僕の正面に立つ。 「どうだった...ハア...」 「うん...かぜをきるって...こういうこと...なんだね...とてもきもちよくて...たのしかった。」 「あー良かった!」 葉祐は微笑む。あの時...20年前初めて病院の花壇で会った時と何ら変わらない、生に満ちた漆黒の瞳で。僕の人生は悲しみと苦しみに満ちたもので、生まれてこなければ良かったとずっと思っていた。だけど、葉祐に初めて会ったあの夏と、N駅前の交差点で腕を掴まれたあの冬から... ガタン... 僕を支配していた絶望という箍が外れ... ゴロン... 愛へと導く運命が動き出していた... 「ようすけ...ありがと...ぼくをみつけてくれて...ぼく...ようすけとであえて...ほんとうによかった...うまれてきて...ほんとうによかった...」 「冬真......うん。その台詞、これから先、何度も何度も言わせてみせるよ。だからさ...これからもずっとずっと一緒だよ。」 葉祐が右手を差し出した。僕は左手を差し出し、恋人繋ぎをした。 家までの距離はあと少し... だけど..葉祐と過ごす時間は長く続きます様に...と僕は祈る。 Evergreenの森のように...と。

ともだちにシェアしよう!