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Evergreen #3 side T
カウンターから塩を持参しようとする僕に、葉祐は笑いながら言う。
「あはははは...塩はもう良いからさ、こっちにおいで。」
おずおずと席に戻ろうとすると、葉祐がふわりと僕を抱きしめた。
「もう...俺は冬真が可愛くて可愛くて仕方がないよ。」
そう言って、僕の香りを確かめるように大きく深呼吸して、今度はぎゅっと抱きしめた。
「さっ、少し話をしよう。俺はミルクを温め直してくるから、冬真は入口の鍵をかけてきて。もう、邪魔が入らないようにね。」
あんな理不尽な罵声を浴びせられたにも関わらず、葉祐はとても穏やかだった。入口の鍵を掛け、席に座ると程なく、葉祐がカップを差し出し、隣の席に座った。
「何から話そうか...やっぱり、なつみの話だな。なつみは取引先のカフェのバリスタでね。自分で言うのも変だけど、向こうからの猛烈なアプローチがあって、冬真に再会する10か月前ぐらいに付き合いだしたんだ。何となく押されるがまま付き合い始めたけど、会う度に違和感だけが増していった。今考えると、そんなに好きじゃなかったんだと思う。それから4か月ぐらい経って、なつみが二股していることが分かったんだ。もう一方の男は、彼女の店のオーナーで不倫だった。即別れたよ。元々、彼女に執着もなかったし、彼女とオーナーのゴタゴタに巻き込まれたくもなかったしね。それが冬真に再会する半年前。別れてから一度も会ったことはなかったよ。それなのに、今日突然だったからさ、俺ビックリしちゃって...って、こんな話、嫌だっただろう?でも、話さないまま変に誤解されるのも嫌だからさ。」
「ううん...ありがと...はなし...」
「うん。」
「ようすけ...つよい…ぼく、よわむし...」
「どうして?」
「なつみさん...きっと、ぼくきらい…ぼくをにらんだ...でも...ぼくにげた...たたかうゆうき...ない...なさけない...」
僕はまた情けなくなって俯いた。すると、温かい手が僕の頭にポンポンと乗せられた。
「冬真は弱虫じゃないよ。あんなこと初めてだったんだ。ビックリもするし、怖いと思っても仕方ないよ。そんなのに慣れられても困るしね。冬真はさ、そういうところが良いんだよ。俺は冬真のそういうところ好きだよ。純粋無垢で優しい、天然で平和主義。本当に可愛くて可愛くて仕方がない。」
僕は恥ずかしくなって、徐に目の前にあるカップを取り、ミルクを飲むことに集中した。
「さっ、帰ろうか?俺達の家にさ。冬真が楽しみにしていた、二人だけの時間を始めよう。」
「うん...かえる...ぼくたちのいえ...はじめる...ぼくたちだけのじかん...」
それから僕達はしばらく見詰め合って、どちらともなくキスをした。深く...長く...
店を出る頃には、辺りは暗くなっていた。管理室に寄って、モップの引き渡しと年末の挨拶を済ませ、僕達は家までの道を歩く。
「あっ、そうだ!」
葉祐が突然そう言って、僕の前でしゃがみこんだ。
「なに?」
「乗れよ、冬真。」
「おんぶ?」
「うん。」
「なんで?」
「夢を叶えるのさ。冬真の夢を。子供の頃からずっと、冬真の夢を叶える方法を考えていたんだけど、結果、これが一番かなって。さっ、早く。」
よく分からなかったが、言われるがまま彼におぶさった。
「よしっ、ちゃんと掴まっててな。俺、出来る限り頑張るから!」
僕を乗せたまま立ち上がると、葉祐はそのまま走り出した。そして、家まであともう少しというところで、葉祐は立ち止まり、僕に尋ねた。
「ハアハア...どぉ?冬真?ハア...ちょっとは...ハアハア...走ってるって気分?」
えっ......?
僕はある光景を思い出す。
『なぁ?冬真君の夢って何?』
『夢?』
『うん。』
『そうだなぁ…出来るなら走ってみたいかな。』
『走る?』
『僕...走ったことないんだ...だから...走るって感覚がよく分からなくて...まぁ...泳いだこともないんだけど...』
『あのさっ。その夢...いつか俺が叶えてやるよ!どうしたら良いか一生懸命考えるからさ。いつか一緒に走ろうよ!』
そう...あれは約20年前...葉祐と初めて病院で会った翌々日、葉祐がプラモデルを持ってお見舞いに来てくれた時にした会話...
「あのときの...おぼえていて...くれたの?」
「ハアハア...一生懸命考えるって...ハア...言っただろ?それに...ハアハア...一度も忘れたこともないとも...ハアハア...言ったよ...ハアハア...疑ってたのかよ...ハア...」
葉祐はまた走り出そうとする。
「もう...おろして。」
僕を背中から下ろし、葉祐は僕の正面に立つ。
「どうだった...ハア...」
「うん...かぜをきるって...こういうこと...なんだね...とてもきもちよくて...たのしかった。」
「あー良かった!」
葉祐は微笑む。あの時...20年前初めて病院の花壇で会った時と何ら変わらない、生に満ちた漆黒の瞳で。僕の人生は悲しみと苦しみに満ちたもので、生まれてこなければ良かったとずっと思っていた。だけど、葉祐に初めて会ったあの夏と、N駅前の交差点で腕を掴まれたあの冬から...
ガタン...
僕を支配していた絶望という箍が外れ...
ゴロン...
愛へと導く運命が動き出していた...
「ようすけ...ありがと...ぼくをみつけてくれて...ぼく...ようすけとであえて...ほんとうによかった...うまれてきて...ほんとうによかった...」
「冬真......うん。その台詞、これから先、何度も何度も言わせてみせるよ。だからさ...これからもずっとずっと一緒だよ。」
葉祐が右手を差し出した。僕は左手を差し出し、恋人繋ぎをした。
家までの距離はあと少し...
だけど..葉祐と過ごす時間は長く続きます様に...と僕は祈る。
Evergreenの森のように...と。
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