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26.Compensation(埋め合わせ)

八熊がぐっと頭を近づけると煙草と日本酒の匂いが濃くなる。照明を背にした彼の表情に影が落ちた。 「なァ、どんなヤマを抱えてんだ」 白島は赤猫やテルの薬を脳裏に浮かべると目を伏せ、自分の頰に当たる外套の毛皮を煩わしそうにして首を捩った。 「…さぁな…。だが、相当込み入ってる」 それを見ていた八熊は、ほう、と息をつくなり何の前触れもなく白島の唇を奪おうと鼻先を寄せる。しかし寸前の所でガードが早く、白島は真顔のまま掌で顎を押し返すと淡々と告げた。 「女にトラウマがあるからって、俺に手を出すのはやめてくれないか」 八熊は首を振って掌から逃げると眉根を寄せた。 「誰でも良いってワケじゃねェんだぞ。折角ウチに自分から飛び込んで来たんだ、相手しろよ」 「それは、失敗した時の話だろ……」 不本意だが以前のミスの償いのこともあり、次に涼葉組に損害を負わせてしまった場合、白島自身が体で代償を支払うよう八熊に約束を取り付けられている。そうしなければテルが代わりに売り飛ばされてしまうのだ。 八熊は単純にこの様なやり取りをして遊びたいだけなのだろう、三十路を過ぎた歳上の男のいたずら心に呆れた溜息をついた。 そんな白島の心中を察するもはあえてやめるつもりは無いらしく、手にしていた浴衣の帯を一気に剥ぎ取っていく。 「!」 浴衣の下は下着以外何も身につけていない。マズイと暴れ出した獲物を逃すまいと八熊は楽しそうな顔で肌蹴た布を引っ掴む。咄嗟に刀に手を伸ばしかける白島のマウントを勝ち取った男は、目下にあるほど良く鍛えられた躰を舐め回すようにまじまじと眺めた。 嫌でも性対象として見ている瞳の色に気づかされ、カッと顔面に血がのぼる。嫌悪感よりも恐怖心が勝り、やめてくれ、と懇願する声が自然と震えた。 「…お前ェみたいに毛並みの良い野郎はなかなかいない」 まるで犬か猫を値踏みするような例え方に対して、反発する意思さえ奪いかねない権力者の迫力が有無を言わさない。抗う両腕を拘束し、捕らえた男の喉元を貪るように舌が這った。 「ンッ…く、そ…ッ」 脚をバタつかせ反感の意思を示しつつも、全力で逃げ切る事が出来ないもどかしさ。上下関係を植え付けられた人間の性故に一瞬でも抵抗に迷えば、その隙をついて見る間に呑まれていく。まるで女を扱うかのように優しく耳殻や首筋を愛撫する動きと音に羞恥と絶望が入り混じった呻きが漏れる。引き締まった腰をかき抱き、獣の滾りを燃やす八熊は無防備な薄い唇を塞ごうとした。 「…っ、旦、な!」 その時、スパァァァン!という荒々しい音ともに部屋の襖が勢いよく開いた。突然の事に驚いた2人が振り返ると、片腕に猫を抱えたテルが白島達に冷ややかな視線を浴びせて立っていた。背後では付き添っていた見張り役の組員が挙動不審な態度で組長と少年を交互に見比べている。どちらかというと、室内の様子よりテルの容赦ない行動に困惑しているようだ。 「……。」 「…、…。」 数秒間少年と見つめあって火花を散らした八熊だったが、渋々白島の上から離れると「良いところだったのに」とぼやいて立ち上がる。去り際に自分の部下にオラァと八つ当たりのような威嚇をして階段を降りていった。 廊下で立ち尽くす哀れな組員に猫を押し付けたテルは、茫然自失状態の相方の元へ静かに歩み寄る。 少年の軽蔑とも同情とも取れる眼差しを受け漸く我に返った白島は、助かった事に安堵すると同時に途轍もない羞恥に襲われ、決まりの悪い顔で体を起こした。 彼の喉元に紅く散った痕跡を目の当たりにしたテルは顔を顰め鋭く言い放つ。 「どこまでもお人好しだな」 その言葉が突き刺さったのか、赤面したまま白島は相手を睨むが一方は気にせず続ける。 「なら、好きこのんであの男を受け入れるのか」 「……、違う」 「じゃあ何故だ」 その問いに白島は口を噤んで目線を下げた。いつもと違った相方のとげとげしい威圧に萎縮している。 返事をしない彼にテルは余計に表情を曇らせた。 「自分の事を一番に考えればいいだろう」 短い期間でも共に過ごしてきて相手がそういうタイプで無い事は重々承知だが、言わずにはいられなかった。白島が抵抗しきれなかった一番の理由は八熊との約束にある。 「もし、俺が売り飛ばされる事になろうが構わない。その時はここを敵に回す。それだけだ」 そのような状況にならない為に、自ら犠牲になる事を選ぼうとする。理解はしているがこの考え方が気に食わなかった。自身にとっては最善策かもしれないが仲間にとってそうではない。それこそ自己満足に過ぎない。 「仕方がないから、という理由でお前に借りを作ることの方が意に反する。それで俺が喜ぶとでも思うのか」 八熊は白島が欲しいだけだ。他人を差し出すか己を差し出すか、二択に見せかけて最初から一択しか与えていない。白島の性格をいい事に勝ちを確信してちょっかいをかけるのだ。 何故それを受け入れるのか。 考え出したテルの頭の中は徐々に白島に対する疑問で埋め尽されていく。彼はこの世界でしか生きられないのでは無い、ここで生きる為に順応しようとしている。 その行為を少なからず危惧してしまう自分がいるのだ。 もはやこれ以上言う必要は無いと、テルは不満を解消できないまま再び部屋を出た。 「すまん…」 ピシャリと誡められ、テルの苛立ちを感じ取った白島は肩を落として小さな後ろ姿に謝罪を投げる事しか出来なかった。 正直な所、見た目に惑わされテルがまだ子どもだと無意識に思い込んでいる。普段は殆ど感情を表に出さないが、大人としての考えを持っていることを改めて実感した瞬間だった。 * 一人になったテルは特に理由もなく屋敷の庭園をぶらついて地面に散った紅葉を拾った。 枯れて茶色く色褪せてしまった葉を、冷たく澄み切った夜空に浮かぶ月に翳して眺める。 怒りは既に収まっていたものの、己の中に渦巻く感情を整理できないままでいた。昔は、こんな風に色々考えたことは無かった。 間違いなく彼に影響されている。 部屋で見た白島の体を思い出し、ふと疑問にも似たような感想を抱く。以前にアシバとの戦いで負った傷もすっかり癒えていたようで、無茶をする割に綺麗な肌をしていたと、ただ純粋にそう思った。

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