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第6話

額から潤二の手の体温が伝わり、まるで冷めた心を内部から溶かしてくれるようだ。 多分、彼なりに俺のことを心配してくれているのだろう。 こいつのこういう所が、俺を安心させてくれる。 「熱はないみてーだな」 右手を俺の額に、左手を自分の額にあてがいながら潤二はホッと息をつき、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。 「働きすぎなんだよ界斗は。最近は残業ばっかみたいだし…お前の部署、今はそんなに忙しくないだろ?」 「ん……」 その質問に答えるのを渋るように俺は言葉を濁した。 確かにそれほど忙しくはない。 だが、何かに没頭してただ我武者羅にしていないと余計なことを考えてしまいそうで…。 急に黙り込んだ俺を、潤二は箸を動かすのを止めて静かに見つめる。 食器などがガチャガチャとぶつかる周りの音が何故か奇妙なくらいはっきりと耳に届いて、二人のテーブルには気まずい沈黙が流れた。 相談しようと思ったものの、いざ口に出して言おうとするとそれに躊躇いが生じ、自分の決起力の無さが情けない。 しかしずっとこうしている訳にもいかないので、やがて界斗は決心したかのように一呼吸置き、なるべく動揺を隠しながら潤二に話した。 「小杉山が俺の部署に来たんだ。…正社員として」 「小杉…何?誰だそれ。お前の知り合いか?」 「知り合いかって…。小杉山を覚えてないのか?高一の時に一緒のクラスで、黒縁眼鏡を掛けていた奴いただろ?」 小杉山の特徴を伝えてみるものの、潤二は本当に覚えていない様子でそれどころか、まるで元から知らないかのようだ。 そういえばこいつは昔からこういう奴だった。 自分の興味の対象ではない人や物事に関しては本当に無頓着で、ろくに人の名前も覚えていない。 現に高校の時もクラス男子女子共に三分の一程度の人以外はその存在が忘却の彼方へと彼の中では追いやられていた。 その潤二が高校時代の同級生、しかも一年しか一緒のクラスに居なかった人のことを今でも覚えているはずが無いことぐらい明白であった。 「んで、そいつがどうしたんだよ。知り合いだと都合が悪いのか?」 「知り合いだからって言うか…。昔、ちょっとあってさ」 歯切れの悪い返答を潤二は訝しげに聞きながら、暫くして目の前に置かれている箸に再び手を伸ばした。 「何があったかは知らねーけどあんま気にしないほうが良いと思うぜ。立場上、嫌でも指導とかしないといけないだろうがそれ以外極力関わらないようにすれば良いだけだし」 手持ち無沙汰から箸で皿をコツコツと突きながら何でも無いように潤二は言った。 彼の言うことは、もっともだと思う。 でもそんなに単純に割り切ることが出来なくて。 悲観的すぎる俺の思いは彼の裏切りを許そうとはしない。 男に犯されるというこの上ない屈辱を背負いながら今の今まで生きていた、と小杉山は思いもしないに違いない。 その無神経さが腹立たしくて、羨ましくもある。 彼の方は些細なものとして、過去に起こったことなど覚えてすらいないだろう。 今日の、朝礼の時の態度からもそれは充分に伺えた。 俺だけ悩んで、うなされて。 あの時のことが無かったことに出来たのなら、こんなに悩む必要もないのに。 「まっ、とにかく今は飯でも食って腹ごしらえしとけ。ほらっ」 気を遣うようにして差し出された料理を見ても全く食欲が沸かない。 そうしている間にも時間は刻々と過ぎていき、気が付けば休憩時間も残り僅かとなってしまっていた。 「変な話をして悪かった。仕事に戻るよ」 「もう行くのか?まだ全然食べてないだろ」 「あぁ。まだ仕事が残っているからね」 そう言って席を立ち上がろうとした時、急に俺の携帯がブルブルとテーブルの上で着信を知らせていた。 片手で携帯を掴み、そのまま開いてディスプレイに目をやる。 送信者の名前の箇所には俺の彼女、宏実の名前が記してあった。 内容は今夜一緒に夕食を食べに行かないか、というものだったが、正直あまり気が進まなかった。 連日連夜のように続く残業の所為でこのところ、宏実とはほとんど会っていない。 思えば最後に会ったのはもう三週間も前のことになる。 それは丁度、俺が新入社員の名簿を貰ったのと同時期だった。 「彼女からか?」 「…何でそう思うんだよ」 「だってお前今、凄く面倒臭そうな顔していたから」 潤二のその言葉に動揺し、俺は目を軽く見開いた。 まさか顔にまで出ていたとは思いもせず、あからさまな態度だったのだろうと彼女に申し訳ない気持ちになった。 別に彼女が嫌いな訳ではない。 ただ、普通の人が恋人に抱く愛情とかその類のものが、人より薄いというのは否めなかった。 でなければ三週間も連絡を取らないはずがないだろう。 「それで、どんな用件だった?」 「夕食のお誘い。今晩一緒に飯食おうってさ」 「お前、『デート』とかいう表現出来ないわけ?」 「三週間も連絡を取ってなかったんだ。案外別れ話をするためのお誘いかもしれないだろ?そんなのデートとは言わないよ」 「お、おいおい…」 冗談だ、と軽く笑い飛ばすと潤二はその後安心したようだったが、実際有り得ない話でもなかった。 連絡一つもよこさない彼氏など、宏実もいい加減愛想が尽きていることだろう。 今まで宏実以外にも何人かと付き合ってきたが、大抵俺が連絡をしなくなり、冷たくなっただのと言われて別れていた。 大人になったら素敵な恋愛が出来るようになる、と漠然と学生時代に思っていたが、寧ろ学生時代のほうがもっと有意義に恋愛をしていたような気がする。 人からは理想が高すぎるとか言われるが、そもそもその理想が無いからこそ付き合っては別れてしまうのではないかと思う。 いつからこんなにも恋愛下手になってしまっていたのか。 どうにも満たされぬ虚無感が常に俺の中に巣を作っていた。

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