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第8話
息が苦しくなって、呼吸が詰まる。
別にこのエレベーターという独特の密室からくる閉所恐怖症の症状と言うわけではない。
無論、エレベーターが上へと昇っていく感覚の所為でもない。
ただこの男と二人きりになりたくなかった、それだけだ。
「さっき一緒にいたのは本間淳二だろ。懐かしいなぁ。一つの会社に同級生が三人も集まっているとはまるで同窓会みたいじゃないか」
「……」
俺はなるべく小杉山に関わらないように努めた。
相槌など、打つ気になれなかった。
それでも小杉山の声が姿が、聴覚と視覚とを侵していく。
「彼女もいるらしいが、お前みたいな淫乱な奴が女で満足できるとは驚きだ」
無視を決め込む俺に対して小杉山はわざと煽るような話し方をしてくる。
距離を取ろうと密室の奥のさらに隅に身を潜める俺の元に、小杉山は一歩、また一歩とその距離を縮めていった。
「…下衆な男だな。盗み聞きの趣味があったのか?」
「たまたま近くに居合わせただけのことだ。それに気付かないお前が悪い」
互いの心的距離を示すように、俺は厳しい表情で小杉山を睨みつける。
しかし小杉山は薄く笑いを顔に浮かべ、見るからに卑しい表情で人を小馬鹿にしているようだった。
思うに小杉山はたまたま居合わせたのではなく、最初から俺のことをつけていたのだろう。
聞かれたくなければそんな話を公共の場でしなければいいとでも言いたそうな勢いだ。
「相変わらず、だな」
「どういう意味だよ」
小杉山は下卑た笑いを含みながら俺に近づき、目の前に立ち塞がった。
後ずさる俺を追い詰めるように威圧し、壁との間に挟み込む。
スラリと長く節ばった指がスッ…と頬を掠めた時、昔のトラウマからか、俺はビクッと震えて顔を背けた。
「俺が怖いか?」
低く耳元で囁かれると、体が無意識に反応してしまう。
艶やかな声が腰に響くようで。
けれども脳が警告を発し、思い出すことを拒んでいた。
「こっち向けよ」
「…っ!」
荒々しく乱暴にグイッと顎を掴まれ、無理矢理正面を向かせられる。
すると自然に顔が少し上に傾き、眼鏡越しの彼の瞳と視線が交じった。
黒曜石を埋め込んだように深く黒い瞳に間近で見つめられると、何も出来なくなってしまう。
蛇に睨まれた蛙の如く、俺はただじっとその瞳を見つめ返すだけだった。
「本当変わらないよな、その俺を見る眼。呆れるほど真っ直ぐで純粋で、それでいて愚かしくて」
その一言を耳にした時、小杉山への溜まりに溜まった憎悪や嫌悪がドッと溢れ、俺は震える拳を握り締めながら渾身の力を込めて小杉山に殴りかかった。
しかし顔面を狙ったはずの俺の拳はぎりぎりの所で小杉山の手によって阻まれてしまう。
手首を掴むその指が皮膚に食い込んで、そのあまりの痛さに俺は顔を歪めた。
力に対し力で応じた為に、二人分の力が均衡を保って俺の腕はそれ以上ビクリともしない。
忌々しく思い、俺はさらにもう片方の腕を振り上げようとする。
──が、俺の行動など手に取るようにわかるとでも言うように、微かに指が動いた途端、もう片方の手も手首を戒められ、自由を奪われた。
「放せっ…ふざけるのもいい加減にしろ!」
耐え切れないように叫ぶと、小杉山はさも意外そうな顔をした。
「随分威勢が良いが人に命令できるような状況か?このまま押し倒してお前を犯す事だって出来るんだぜ。『あの時』みたいに、な」
血が、逆流するようだった。
『あの時』の記憶が、細胞単位で身体に刻み込まれた記憶が、視界を掠めていく。
目の前の小杉山の顔が昔のそれと被って見える。
遠い記憶のさなかで、自分の喘ぎ声が聞こえた気がした。
その隙に小杉山は束縛された俺の両手を頭上に掲げ、片手で易々と一つに括る。
壁に俺の身体を張り付け、距離を詰められると小杉山の身体に押し潰されそうになった。
近付けば近付くほど強くなる彼のコロンの香り。
それは以前にの嗅いだことのある匂いだった。
あの埃っぽい教室と、コロンの香りが思い出される。
訳もわからず身体全体が小さく震え、双眸を大きく見開いたまま、俺は何の抵抗も出来なくなっていた。
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