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第10話
「今何と、おっしゃったのですか」
自分の部署に戻り俺を待っていたのは、これ以上無いというほどに最悪な状況だった。
何度聞いてもそれが覆されることが無いことくらい俺にもわかってはいたのだが、聞き返さずにはいられない。
「だから、さっきも言ったように君には新入社員である小杉山君の指導をお願いしたいんだよ」
思わずパソコンに文字を打ち込む手が止まってしまう。
やけに笑顔を見せながら淡々と話してくる部長の顔を食い入るように見つめる。
そしてそれが冗談などではないとわかった時、俺の不安は現実のものとなってしまったと実感した。
「で、でも新入社員なら彼以外にも沢山いますし…第一、その手の事は別の人が担当するはずですが?」
「確かにそうなんだがねぇ」
やけに食い下がらない俺を不思議に思ったのであろう。
部長は頭を手でぽりぽりと掻きながら苦笑した後、やがてまた俺を説得してきた。
「君も知っての通り小杉山君は前の会社での実績があってね。彼には即戦力となってもらいたいのだよ。もちろん他の人もそうなんだが、なんせキャリアが違う。君のように優秀な上司の下に付けば彼にも良い影響になるだろう」
俺が黙っていると部長は話を止める事無く喋り続けた。
「それに君と小杉山君は高校時代の同級生らしいし、それなら何かとやりやすいんじゃないかな」
指導よろしく頼むよ、と言うだけ言って部長はそれ以上の反論は聞かないというように、俺の傍からさっさと離れていってしまった。
その後姿を眺めることしか俺には出来ず、はぁ、と盛大にため息をつき、机に肘を置き両手で額を覆った。
これだけ念を押されたらもう避けようも無い。
その上今日やる分の仕事を終えてからそっちに手を回さなければいけない訳で、必然的に本日も残業をせねばならないようだった。
嫌でも宏実の顔がチラつく。
(今日のデート、間に合うだろうか)
不意に昼休みの淳二との会話が思い起こされた。
そう、小杉山なんかに構っている場合ではないのだ。
でも今も唇に残るあの感触が…。
『界斗……』
「…ッ!!」
ゾクリと湧き上がる「何か」に俺は身体を震わせた。
知らず知らずの内に上昇する体温を静めようと自分で自分の二の腕辺りをギュッと掴み、抱きしめる。
どこと無く、吐く息も熱くなっている気がした。
自分で自分を制御することさえ儘ならないというのか。
これも全て、あいつに出会ってしまった所為だ。
そう思わなければ俺が壊れてしまうのではないかという不安に駆り立てられていた。
いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう。
少なくとも中学まではこんな屈辱を受けることはなかった。
小杉山と出会うまでは。
高一の時の、辱めを受けたあの日以来、俺はそれまで以上に部活のラグビーに没頭するようになっていた。
身長こそ人並み程度ではあるもののそれほど体格が良かったわけではないので、体当たりなどの激しい攻防戦でよく怪我をしたものだ。
捻挫や痣、酷い時には骨折。
俺の腕や足や指に包帯が痛々しく巻かれていることを知ると、決まってあいつは俺を呼び出し、所構わず組み敷いた。
それも酷く乱暴に。
『勝手にこんな怪我しやがって…ッ』
そういう時はいつも苛立ったように科白を吐いていたのを覚えている。
そのくせ痣の痕や包帯の上から慰撫するような口付けをする。
だから余計に混乱した。
憎んで良いはずなのに、心の片隅で受け入れてしまっている自分がいる。
その気持ちが存在してしまうから、さっきのエレベーターの時のように済し崩しに抵抗が出来なくなるのだ。
俺はまた一つため息をつくと、全てのモヤモヤした気持ちを振り払おうと残り僅かなコーヒーをぐいっと一気に飲み干した。
頭の中が少しすっきりする。
そしてまた書類とパソコンを交互に睨み、キーで文字を打ち込んでいく。
社内は人の声や電話の音、キーボードを打つ音が騒々しく俺の気持ちをかき消してくれていた。
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