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第52話
俺は運動神経が良い方ではない。
走るのも遅いし、特別得意な分野もない。
こんなに全力疾走したのなんて、高校の陸上記録会以来じゃないか?
息がなかなか整わないし、全身が熱を持っていた。
額にかいた冷や汗を手で拭って、荒く呼吸しながらふと両手の平を見ると、小刻みに震えているのが分かった。
(ダッサ。ビビってやんの)
今頃、足に筋肉痛のような鈍い痛みがある事に気がついた。
きっと男の体を思い切り蹴ったからだろう。
はっ!と気付いて、急いで自分の頬をゴシゴシとコートの裾で荒くこすった。
(あいつ……っ!ホンマ許せん!)
気持ち悪かった。
手を掴まれた時。
顔が近づいて来た時。
あの唇の感触。
アルコールの匂い。
思い出しただけで、ゾワゾワと鳥肌が立つ。
俺を女だと勘違いして声を掛けたんだ。
でも、あいつは俺を男だと気付いたのにキスをしてきた。もし俺があんな風にうまく蹴りを入れられてなかったら、どうなってた?
力も強かったし、もしかしたら……その場で……
怖かった。
よく、大声を出して周りに助けを求めろなんて言うけど、逃げなくちゃって必死で声なんて出なかった。
こんな恐怖、初めてだ。
誰かと話をしたい。そして笑い話にして欲しい。こんな事、記憶に残しておきたくない。
(翔平に……っ、)
スマホを取り出して電話を掛けようとしたけど、翔平は彼女の家に行ったんだった。
こんな時間だし、迷惑だろう。
晴人や秀明の顔も浮かんだ。
晴人は実家に帰省していると言っていたし、秀明は元々実家暮らしだ。高校の友達とも最近電話してないし、やっぱり、こんな事で真夜中に電話をするなんて悪い気がした。
突然電話しても、大丈夫だよって言ってくれそうな人なんて、今の俺には一人しか思いつかなかった。
俺からの連絡を待ってくれているのか、それとももう二度と話す気は無いのか分からないけど、とにかく、声が聞きたい。ただそれだけだ。
俺はいつも、その頼もしい、人を惹きつけるような低い声を聞くと安心するから。
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