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第96話

あまりに突然の出来事で、何が起こったのか分からなかった。 気付いた時にはもう両手首が景の手によって捕らえられていて、運転席側の窓に押し付けられていた。 手の甲に触れた窓ガラスは氷のように冷たい。 目の前の人も同様だ。 俺を上から見下ろすその瞳は、静かな怒りを持ったように冷酷に見えた。 「景っ?何するんよ?」 こんな景は見たことが無い。ドラマでも映画でも、そんな瞳で人を見下ろす景なんて。 この手から逃げようと思って力を入れても、まるでビクともしなかった。 景は相変わらず表情を変えずに、でも少しだけ強めの声を発した。 「元カレを家に泊めるだなんて、どういう神経してんの?」 「……はぁ?」 意味を理解しようとしても、なかなか頭がついていかない。 景のその馬鹿にするような言い方に少しムッとしながらも、俺はとりあえず思ったままを口にした。 「どういう神経って、泊まってええかって言われたから泊めただけやけど……」 「あいつとまたやり直すつもりなの?」 「えっ?」 「好きなの?あいつの事」 景は、さっきから何を言っているの? 俺が元カレの瞬くんの事を泊めたのが許せなくて怒っているって事? それって、嫉妬してくれているって事? ――心に一筋の光が見えた気がした。 もしかして、景って、俺の事……? 目の前の景は怖いけれど、俺は少しだけ自惚れて、顔を熱くさせてしまう。 「あっ……瞬くんの事は好きやけど……別に、やり直すとか、そういうのはまだ考えてなくて」 「まだ?」 景は俺の手首をさらに強めに掴んで圧迫した。 景の人差し指と小指に嵌ったリングが肌にギリギリと食い込んでいく。 「痛い、景……」 「じゃあ、あいつに無理矢理にでも押し倒されて体を許したら、可能性もあるかもしれないって事?」 「はぁ? 瞬くんはそんな事せーへんよ。昨日だって別に何も無かったし」 「あんなに酔ってて、君もお酒の匂いさせてるっていうのに絶対無いって言い切れる?例えばこんな風に、あいつに手首掴まれて迫られたとしても、逃げられるの?」 「そ、そんな事になる訳ないし、仮にそんな事になったとしても逃げられるに決まっとるやろ?」 「無理だね。あいつの方が体格もよくて力もあるのに、こんな小さな体で逃げられる訳ない」 凄い力だった。あの時の酔っ払いの男とは比べ物にならない程に。 まるでビスで固定されてしまったかのように、肘から上が全く動かない。 缶ビール二本なんかじゃ酔わないから、酔いは全く無いはずなのに力が入らなかった。 俺は景の顔を睨みつけて反論した。 「小さなは余計やっ!それに、瞬くんの事見てもないのになんでそうやって言い切れるんよっ!」 「声だよ。あんな低音を出す奴は声帯が大きいから、大抵背も高い」 景はどんどん体重をこちらに掛けてくる。 そして、一ミリも視線を離さない。 少し顎を上げれば、その唇と触れてしまいそうだった。 「逃げられると思うなら逃げてみなよ」 なんで?なんでこんな事になっているの? 景の意図が分からないまま、気持ちは半泣き状態で混乱していると、景の顔がますます降りてきた。 「逃げなよ、ほら、早く」 景の視線の先には俺の唇があると気付いたのと、景の唇が俺のそれに触れたのはほぼ同時だった。

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