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第123話 side景

壁際に移動して、佐伯さんは壁に背中をつけて立ち、僕は一歩下がって佐伯さんの目の前に立ってスタンバイをした。 僕は未だにこの瞬間が慣れない。 本番前のこの緊張感。出来ることならば、ここから走って逃げ出したくなるけれど、毎回試練のように自分を鼓舞する。 目の前の佐伯さんは余裕だといった表情でニコリとして、僕に話しかけた。 「藤澤くんって、身長何センチ?190くらい?」 「いえ、そこまで無いですよ。185センチです」 「そっか、高いね!じゃあ私と30センチ差なの?ごめんね、私チビだから、キスしづらいかも」 「大丈夫ですよ」 「……あ、藤澤くんならこのくらいの背の女の子、キスした事沢山あるか」 「からかわないで下さいよ」 あはは、と佐伯さんは無邪気に笑った。 きっと緊張を和らげようとしてくれているんだろう。 佐伯さんのこういうさりげない気遣いは見習わなくてはならない。 準備が整ったようで、遠くからスタッフの声が聞こえたから、僕は一旦目を閉じて気持ちを作った。 「ではシーン4カット3、本番行きまーす!本番5秒前!…4…3…」 シン…と耳鳴りがしそうなくらいスタジオ内が静かになったところで、佐伯さんが表情を硬くして、切迫した口調で僕に語りかけた。 「――わたし、貴方に会いにきたんじゃないから。もう帰らせてくれる?」 凄いな。さすが佐伯さんだ。 ほんの数秒で美咲が乗り移った。 その表情や潤んだ瞳や声の出し方、何もかも完璧だ。 焦燥感が感じ取れて途端に胸が痛くなってしまった。 ここで、佐伯さんに飲まれないようにしないと。 「……嫌だったら、あの人の名前を呼んで逃げればいいじゃないですか。まだ僕にバレてないとでも思ってるんですか?」 「何の話よっ」 僕は壁にもたれ掛かる佐伯さんの顔の横に思い切り手をついた。 セットの壁は想像よりも薄かったようで、バン!と破裂したような音が響いてしまって、一瞬穴を開けてしまったかと思った。 しまった。やり過ぎたか。 しかし顔には出さず、佐伯さん演じる美咲をジリジリと睨み据えて追い込んでいく。 そのまま背中を丸めて、下を向く佐伯さんを覗き込むように顔を傾けた。 「酷いですね、美咲さん。いつも嘘ばかりで、気付かないフリをしている。本当は僕の気持ちだって気付いてるくせに」 「知らないわよっ貴方の気持ちなんて」 「本当に?じゃあなんで逃げないんですか?」 あぁ、こういう事、最近もあった。 僕はこの後、美咲に無理やりキスをするんだ。 あの日、修介にしたみたいに。 「ねぇ、本当に帰らせて」 「……抗ってる美咲さんも、好きですよ?」 僕は一気に頭を下げて佐伯さんの顔の前で動きを止めた。 お互いの鼻先が触れてしまいそうな程のこの距離で5秒間見つめ合って、台詞を言った後にゆっくり瞳を閉じて美咲の唇を奪う。 そう頭にしっかりインプットされていたはずなのに、僕はあろう事か、あの時の記憶の断片を辿ってしまった。

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