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第3話
日誌を書いて戸締りを済ませ、空を見上げるとすでにオレンジ色は闇に押し潰される寸前だった。
あれから園に帰ると、彼の事を思い出す間もなく子供たちの昼食、外遊び、おやつといつものローテーションをドタバタとこなし、夕方には居残りの子を送り出す。
最後の子を送り出すときには既に日はだいぶ傾いていたのだ。
日頃は節約も兼ねて自炊しているのだが、さすがに消防署での一件が疲労に重しをかける。これはもうコンビニに寄るしかない。
お目当ての幕の内弁当を見つけ、レジで温めて貰っている間にパーカーの内ポケットから財布を出そうとしたら、指先になにかが触れた。
取り出すと、小さな紙片だった。広げてみると几帳面な文字で携帯の番号が書かれ、下に『ブレッド』という名前が添えられている。
(え、これどうしたらいいの?掛けていいの?今?でも仕事が忙しいってヘビロフさん言ってたし、どうしようどうしよう。そもそも昼に一瞬だけしか会ってない自分なんかがかけたところで一体なにを話せばいいんだろう。いや、ちゃんとお礼を言ってないから言わないと。でもなんで僕のパーカーにブレッドさんの携帯番号?)
急いで代金を支払って弁当を受け取り、コンビニの外に出る。
突然提示された番号に疲れを忘れて一気に気分が跳ね上がる。だが、なぜそんな気持ちになるのか自分の頭が追いつかない。
期待と疑問と不安とがぐるぐるとエイトの中で渦をまいていると、その脇を続けざまに消防車が3台、けたたましいサイレンと共に通過して行った。
(火事かな?よく見えなかったけど、もしかしてブレッドさんとかヘビロフさんが乗ってたのかな?)
よく見ていたらもしかしたら姿を捕らえることが出来たのかもしれないのに。不謹慎ながらそう思いながら足を踏み出した時、コンビニの裏手の家から出てきた耳の長いおばあさんが向かいの家に駆け込み、玄関で大声でまくし立てた。
「奥さん!ちょっと奥さん!3丁目のタワマンで火事ですって!だいぶ火の手が回ってるらしいわよ」
その言葉にエイトは青ざめた。
3丁目のタワマンといえば、園でよくエイトが補助に入る年少組のユリアが住んでいる。
よく気がつく子で、エイトが色々間違えそうになると、鋭く「しぇんしぇい、それ違うよ」と指摘して、何度ヒヤリハット案件を未然に防いでくれたことか。
風にたなびく黄金の髪をツインテールでキメていて、言葉の達者な獅子族の彼女は、いつも「ユリア、たわまんの22かいにしゅんでるのよ。大きくなったらエイトしぇんしぇいをお婿さんにしてあげて、いっしょにしゅむんだから」と得意げに話していた。
ユリアの無事が気になって、慌ててスマホを取り出してニュースを検索する。
するとそこには視聴者から投稿されたリアルタイム映像が流れていた。
画像が荒いのは熱のせいだろうか、大量の火の粉とともに黒い煙がもうもうと上がり、一部には炎が映っている。そこはまさに45階建てのタワーマンションの中間階だった。
エイトは全身鳥肌が立つと同時に無意識で駆け出していた。
遠目からも見えるタワーマンションだが、コンビニからはかなりの距離がある。到着した時には炎が轟々とうねりを上げて真ん中より少し上の部分が完全に炎に包まれている。
すでに消防士たちは消火活動を展開しているが、いかんせん高度が高すぎて放水車では出火場所に届いていない。
はしご車でベランダからの救助もしているが、こちらも上階まで届くかどうか。
気が気じゃないエイトは近くにいた野次馬に手当たり次第に状況を聞いた。
「なんせ高い建物だからねぇ、外からじゃ消火は難しいみたいだ」
やはり消火活動は難航しているのか。
「救護テントはあっちだよ。知り合い、無事だといいね」
もしかしたらユリアも運び込まれているかもしれない、そちらへ足を向ける。その途中、エイトと変わらないぐらいの若者たちがスマホを見ながら眉を寄せ、つぶやいた。
「あ、鬼女板で出火場所、特定されてる」
「どこよ?」
「22階らしいよ」
その会話ににエイトの目の前が真っ暗になる。瞼の裏にエイトに懐くユリアの笑顔が映り、儚く消えた。
(だめだ!だめだそんなの!!だめだだめだだめだ!)
「うおおおぉぉぉぁ!!!」
エイトは雄叫びを上げ、めいっぱい空気を吸い込んで隆起した胸を両手で力強く叩き、己を鼓舞した。
周囲の獣人が一斉に後ずさるがそんなことはお構い無しだ。
1階のベランダへ飛び上がると、柵や排水パイプを駆使してどんどんと上階へ上がっていく。
一心不乱に22階を目指して掴んだ場所を軸にし、己の体を振り子にすると勢いをつけて反動で飛び上がる。
あっという間に22階まで辿り着き、横並び5部屋のうちのどれか、とベランダを見渡すと、火の手が上がる部屋のすぐ手前の部屋からユリアの泣き叫ぶ声が聞こえた。
すぐさまそちらへ向かい、ベランダの隅で蹲っているユリアを見つけた。
「ユリアちゃん!」
「エイトしぇんしぇーい」
泣きながらエイトの胸に飛び込んできたユリアを抱きしめ、頭を撫でながら、もう大丈夫だから、と言い聞かせる。
ここまでの行動で興奮状態にあるエイトだが、次はここから避難しなくては、と少し冷静さを取り戻す。
だがユリアを抱えたまま下に降りるのはあまりにも危険すぎる。
これは一旦中に入り、非常階段を駆け降りるしかない。
そう決意し、部屋の中へ足を踏み入れると、周りは煙に包まれ、天井は今にも崩れ落ちそうだ。
泣きじゃくるユリアの体制を低くして、傍にあったタオルで口を覆わせ、玄関扉を開ける。一気に入り込んできた煙で前が見えなくなった。
手探りでわずかに光が見える非常灯へと向かうが、崩れた天井や剥がれ落ちた壁紙で足元がおぼつかない。
なんとか非常階段の手前まで来た時にはエイトの意識は朦朧としていた。
(ユリアちゃんだけは助けないと……)
その気持ちだけで足を前へ出そうとするが、実際に進んだのはほんの僅かだ。目的地までははるか遠い。
(もう、ダメなのかな……僕は誰の役にもたたないのかな)
熱風で飛ばされてきた家具だったものからユリアを庇いながらも、エイトの思考は半ば諦めかけていた。
だが煙の向こうに突如、防護服に身をまとった人たちが現れた。
煙の中だというのに後光がさしている。まさに神のような存在に抱えていたユリアを大事に受け渡すと、息の上がった状態で煙を吸いすぎたエイトはその場に倒れた。薄れていく意識の中で誰かに抱きとめられた気がした。今朝見た面長美形のブレッドのような気がする。それは己の願望か……。けれどエイトはもう目を開けることはできなかった。
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