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第3話
平穏を音にしたらあの小鳥の鳴き声になるのではないだろうか?
チチチチチッ……と鈴を転がすような可愛らし声音。
暖かな日差しが降り注ぐ庭園の東屋の椅子に腰掛け、小鳥が戯れる声に耳を傾けていた香蘭はその唇に微笑を刻んだ。
枝の上でじゃれ合っていた小鳥が二羽、戯れるように揃って空へ飛び立つ。
小さな翼を力強くはためかせ、みるみるうちに空高くへ飛翔していく。
あんな風に空を飛べたらさぞ気持ちがいいだろうなと、香蘭は我知らず想いを馳せた。
孔雀族は本来空を飛べるが、幼いころに逃げられぬようにと背中にあった翼を切断されてしまっていた。
まだ物心つかない赤子の頃の話で、肩甲骨付近にはまだその名残の傷がかすかに残ってはいたが、見えるか見えないか程度のわずかなものだ。
空を飛んだ記憶はないが、憧れは消えない。
だからだろうか、自分が体験できなかったことは、あの子がしたいということは、なんでもやらせてあげたいと思う。
「かあさまぁあ~!!」
きゃっきゃと子供らしく無邪気な声で、自分を呼ぶ幼子に、香蘭は「ここにいるよ」と柔らかく微笑んだ。
小鳥にしては大きく、天使の羽と呼ぶには華美な孔雀の翼を元気にはためかせた息子の凛蓮が脇目も振らずに香蘭の胸に飛び込んでくる。
腕の中にすっぽりと包まれてしまう小さな身体を、香蘭は大切に抱きしめた。
「そんなに慌てて、どうしたのだ?」
「向こうにね。きれいなお花が、あったの。かあさまにあげるね!」
ふふふと得意げに笑って差し出された白く可愛らしい花を、香蘭は小さな手のひらごと包んでありがとうとお礼を言い、ふっくらとした頬にちゅっと口付けた。
凛蓮が目を丸くし、はにかむように笑う。
籠の中ではなく、自由に空を飛び、自分のしたいことをしてのびのびと育ってくれている凛蓮の表情は豊かで、父親似の瞳はいつでも好奇心に輝いている。
凛連は、香蘭と龍蓮の血を引く子どもだ。
表情や仕草が、幼いながらに龍蓮に重なることがあるが、香蘭は凛蓮を見ても、龍蓮に抱いていた負の感情を覚えることは一切ない。
正直、妊娠していることを知った時は、嬉しさよりも狼狽のが強く、産むことを躊躇ったのだが、今では産んで良かったと思っている。
孔雀族は現在、香蘭と凛蓮しか居らず、二人きりの家族だが、一人じゃない。
息子の成長は、今の香蘭の1番の楽しみであり、喜びだ。
子育てなどどのようにすれば正解なのか香蘭は分からないし、母親の愛情というものを知らずに育ってきたが、香蘭は愛を知らないわけじゃない。
それを教えてくれたのは、誰だったのか、今の今まで忘れていたが、それを教えてくれた人は確かにいたのだ。
凛連を育てていると忘れていた記憶がふと呼び起こされる。香蘭と優しくその名を呼び、逞しい胸に抱いてもらった記憶や、頭を撫でてもらった優しい記憶が。
(だが、それも最後には執着という、望まぬ形に変形してしまったが……)
どんな風に愛したら正解なのかは正直わからない。だから、自分なりの愛し方で愛するしかない。
「ん?遊び疲れたのか?眠そうだ」
ふわぁあっと、凛蓮が大きくあくびをする。
「ふふふ、そろそろお部屋に戻って、お昼寝の時間にしようか」
まだ遊びたいのだろう。ぱたぱたと飛び立ちたそうな仕草をする凛蓮だったが、香蘭は腕に抱いたまま、有無を言わせず中庭を後にしようとした、刹那ーーー
「香蘭殿」
どこからともなくかけられた声音に、香蘭はビクッと肩を震わせた。
(……龍、蓮?!……いや、違う、酷く声が似ているが、違う……。龍蓮は、死んだのだ。ここにいるはずはない。だから、落ち着くんだ……)
怯えてしまったことを悟られぬよう、凛蓮をぎゅっと抱きしめたまま一つ深呼吸し、ゆっくりと振り返った。
そこにはやはり、龍蓮ではなく、別人が立っていた。
声だけは、龍蓮と酷く似ているが、彼とは似ても似つかぬ心根の清い人。
武力に物を言わせ、他国に戦を仕掛けては領土を増やしていた龍蓮が、白虎族の領土に手を出してしまい、温厚な彼らの怒りを買い、その結果粛清されてこの世を去った後。
行き場をなくした香蘭を保護し、宮廷に住まうことを許してくれた白虎族の王弟ーーー高雅が、そこにいた。
しばらく城を留守にするからと伺っていたが、どうやら戻られたらしい。
香蘭は先程まで怯えていたことなど忘れたかのように、優美に微笑んだ。
「高雅様、ごきげんよう。地方へ視察に行かれていたと記憶しておりましたが、お戻りになられていたのですね」
「ああ、昨日の夜遅くにな。挨拶が遅れてすまない。そなたも息災そうでなによりだ。それと、また驚かせてしまったようでわるかったな。いきなり声をかけぬように気をつけてはいるのだが……俺の声は……そなたにとってあまり好ましいものでないのだろう?」
武人と呼ぶにふさわしい鍛えられた肉体と、見上げるほどに高い身長。その全身は雪のように白い被毛に包まれてており、顔は白虎族の王族と一目でわかる精悍な顔つきを高雅はしている。
彼は人の心を思いやれる優しい人で、妊娠中の不安な時期に親身になって支えてくれた人であり、警戒心の強い香蘭が心を許した数少い相手である。
息子の面倒も赤子の頃からよく見てくれており、誰に似たのか子供ながらに好き嫌いの激しい凛蓮も彼には特に懐いている。
ふと違和感を感じて視線をやると、高雅は立派な軍服に身を包んでいるというのに、心から申し訳なく思っているのが一目でわかるほど、その腰の尾が力なく垂れていた。
自分より五つも年上の相手にこんなことを思うこと自体失礼ではあるが、その姿はなんとも可愛らしい。
香蘭の心を傷つけてしまったのではないかと案じてくれているのが、またとても嬉しく、香蘭の心はほかほかと春の陽だまりのように暖かくなる。龍蓮に囚われていた時にはついぞ感じたことのない感情だった。
「いいえ、お気遣いなく。確かに前にもお話しした通り、貴方の声は龍蓮にとてもよく似ていますが、中身はまるで別人です。ですので、貴方を見ても私は怯えたりしませんよ?」
くすくすくすと、香蘭が無邪気に笑うと、高雅も安心したようにその精悍な顔に笑みを浮かべた。
「それはよかった。そなたに嫌われたら、私は生きた心地がしないだろうからな」
「それは少し大袈裟では?」と、なおもくすくすと笑う香蘭の腕の中に、高雅な視線が向けられる。それにつられ香蘭もそこへ視線をやる。
凛連はいつのまにか、すぴすぴと、寝息を立てていた。
もう、すっかり夢の中の住人だ。
「どうやら、遊び疲れてしまったようです。私にも綺麗な花を一輪届けてくれました」
「凛蓮はそなたの事が大好きだからな。側から見ていても、仲睦まじい親子だと思う。とはいえ、寝た子は重いだろう?差し支えなければ、凛蓮は俺が運ぼう」
「でも、お疲れなのでは?」
「構わんさ。このくらいのこと」
「ではお言葉に甘えることにいたします」
「ああ、任せておけ」
差し出された大きな手に、香蘭はそっと凛蓮を託す。
獣人が指に備えている鋭い爪が当たらぬようにと、細心の注意を払って凛蓮を抱き上げてくれる高雅の優しさに、香蘭はまた、心が温かくなるのを感じた。
好きに使っていいと下賜された部屋のベッドに凛蓮を横たえた時には、すっかり熟睡しきっていて、ちょっとやそっとのことじゃ起きそうになかった。
気候が良くなったといえどまだ寒い季節だ。風邪を引かぬようにと香蘭はそっと、凛蓮に掛布をかけ、高雅と肩を並べて我が子の寝顔を眺めた。
もうすぐ4歳になるといえど、孔雀族の成長は他の種族より緩やかなこともあり、まだその寝顔はあどけない。
「可愛い寝顔だな」
「ええ」
「香蘭殿によく似ている」
「そうでしょうか?どちらかと言えば、この子は父親似だと私は思っているのですが」
「いや、この子はそなたによく似ている。成長した暁には、月さえ霞ませる美男子に育つだろう。この子はΩだから嫁に欲しいと言ってくる輩が後を絶たないだろうな。勿論、変な虫が寄ってこぬように俺が目を光らせるつもりだが……」
まるで娘を持つ父親のような口ぶりの高雅に、香蘭は堪らず吹き出した。気が早いにもほどがある。香蘭だって、まだ凛蓮を嫁がせることなど、一度も考えたことなどないというのに。
「俺は何かおかしな事を言ったか?」
ふふふふふっと、堪え切れない笑いに香蘭は口元を指で抑える。その横で高雅は真面目な顔に疑問符を浮かべていた。
それがまた香蘭の笑いを誘う。こんなふうに自然に笑みがこぼれることなど何年もなかったというのに、今では自然と笑みがこぼれ落ちる。
自分の取り巻く環境の変化に、自由を得たことに、当たり前の日常に、香蘭はただただ感謝しかない。それもこれも全部、白虎族がーーー高雅が与えてくれたものだ。
多くの幸せが、香蘭の手に溢れていた。
これ以上の幸せはきっとない。
「なぜ笑う?香蘭殿、答えてくれまいか…?」
「いえ、申し訳ありません……先ほどのお言葉が……。まるで父親のような口ぶりでしたので、思わず……」
ひとしきりくすくすと笑い終え、香蘭は「凛蓮の事を、本当の我が子のように思ってくれて、私は嬉しく思います」と頭を下げた。
「私一人では、凛蓮はここまですくすくと育つこともなかったでしょう。知識だけは本から得られたものの、世間知らずには変わりありません。貴方や白虎族の方は本当に親切に色々と教えてくださって、感謝してもしきれません、私自身、穏やかさなど無縁に生きてきたので、こんな幸せを知ることができたことが、奇跡のようです」
一生をあの宮廷の奥深くにある檻の中で終える予定だったのに、人生とはわからないものだ。まさか本当に王子さまに助けて貰えるなどとは流石に夢にも思っていなかったが、それは現実となり、香蘭は今、自分は生きているのだと初めて実感している。
「香蘭殿」
「はい、なんでしょうか?」
いつもより、何処と無く緊張しているような声音の高雅に、香蘭は小首を傾げて、彼の表情を伺った。綺麗に透き通った青い双眸が、真摯にこちらを見つめている。
どうしたのだろうか?
いつになく畏まって見える高雅が何を考えているのが思考しようとしたが、不意に大きな胸に抱き寄せられ、香蘭は大人しく身を任せた。
「そなたが許してくれるのであれば、私は、凛蓮の父になりたいと思っている」
「…………、え?」
「凛蓮に弟か妹が欲しくはないかと、先日聞いた」
「…………。それで、凛蓮は何と?」
「欲しい、と、即答していた。俺も……香蘭殿に私の子を産んで欲しいと思っているーーーー」
何を言われたのか、いまいち理解が追いつかず、耳元に注がれた言葉を香蘭は胸の内で今一度反芻しようとした。
だが、それをする前に、ぎゅっと抱きしめる力を強くした高雅にーーー
「今夜、夜這いに行く。嫌なら部屋の鍵をかけておいてくれ」
と、囁かれ、香蘭は高雅な腕の中で、驚きに身を硬直させた。
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