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9.『千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました』
「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました」
突然そう呟いた君。僕たちの目の前には確かに桜の巨木があった。でも、まだ蕾すら見当たらない。
「東京はもう開花宣言出たの?」
3月の声を聞いても防寒コートが手離せない北の町は、千鳥ヶ淵と同じく桜の名所として名高いけれど、桜前線はまだ遠い。
「さすがにまだだよ」君は笑う。「今のは広告。千鳥ヶ淵の近くにホテルがあって、桜が咲くとその3行だけの広告を新聞に掲載するのが、毎年の恒例だったんだって」
「東京でそんな広告見かけた覚えないな」
「そのホテル、今はもうないから。俺達が生まれた頃に廃業した」
「なんだ、残念。なんで知ってるの、そんな古い話」
「先生が教えてくれた。毎年、その広告を見たら、彼女とそこに食事をしに行ったんだって」
「それが今の奥さん?」
「うん」
君は淋しげに笑う。そんな顔をこれ以上させたくなくて、衝動的に連れてきてしまったのは去年の夏。何かに縋りつきたかった君が、僕の手を振り払えないのを知っていた。
僕は言う。
「弘前の桜も、悪くないよ?」
「うん。早く見たいな」
「まだ先だよ。ここの春は、東京よりずっと遅い。」
「すぐだよ」君は僕の肩を抱き寄せる。「春なんて、すぐだよ」
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