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「そろそろ頃合いだろ」
犬鷲の男はそう言うと、散々解した昴の後ろに鉄の杭のような楔をあてがった。
肉体の反応とは裏腹に背筋は凍りつき、嫌悪で吐き気が込み上げてくる。
「嫌だ…っつ…いやっ」
ぬちゃ…といやらしい音を立てて、その太い肉棒の切っ先が捻じ込まれようとしたその時だった。
昴を取り囲む空気が変わり、またあのむせかえるような匂いがした。
甘い花のような、ねっとりと絡みつくような抗えない匂い。
αの匂い…
鼻を押えようとしてギョッとした。
泥や土にまみれていたはずの右手が真っ白な羽根に覆われていたからだ。
気味が悪くなり慌てて拭おうとして気づく。
羽がついているんじゃない。
生えているのだ。
よく見ると右手だけでなく左手も、腕も、みるみるうちに肌が白い羽毛に覆われていく。
「な、何…」
自分の身に起こっている事が何なのかわからず竦み上がっていると、背後から男が感心したように唸った。
「白い大鷹か…美しい、ますます俺のものにしたくなった」
犬鷲の眼が興奮に染まり、歪んだ笑みをみせる。
怖い、喰われる。
恐怖に身が竦んだその時、突然身体が羽のように軽くなったのを感じた。
今なら逃げられる。
咄嗟に判断した昴は無意識に地面を蹴っていた。
ほんの一瞬時間か止まったような気配がして、気がつくと犬鷲の巨躯をすり抜けていた。
背後で誰かが叫んでいる。
しかし振り向くつもりは毛頭なかった。
とにかく、一時でも早くこの場所から離れたい。
脇目も振らずにひたすら逃げて、逃げて、ようやく冷静になった時にはた、と気づいた。
地面を蹴っていると思っていた足が宙を掻いている。
そしてその地面は遥か下に見えた。
風を捉え、無意識に舵を取るように身体が揺れている。
信じられない事に、昴は空を飛んでいた。
「白い大鷹」と犬鷲が言っていた意味がようやくわかる。
昴は鷹になっていた。
先ほど目の前の鳥の姿から人間の姿に変貌した犬鷲を思い出す。
犬鷲の言う通り昴も猛禽獣人だったのだ。
これが獣人の、鳥の力。
すごい…
昴はあっという間に飛ぶことに夢中になった。
空から見る景色は何もかもが小さい。
人も、家も、木も、川も。
雄大な空を飛び、山や人の住む町を見下ろしていると、昴がこれまで感じていた悩みなんてちっぽけで取るに足らないことのように思えてきた。
このまま何も考えずどこまでも飛んでいけたらいいのに。
猛禽獣人とかΩとかそんなもののない世界まで飛んでいけたら。
大きな湖を越えた頃、昴はようやく高度を下げはじめた。
長い事飛び続けて疲労はすでにピークを超えていた。
風に流され、木にぶつかり、枝に翼を引っ掛けて何度も地面に叩き落とされそうになりながら何とか湖の脇の茂みに着地する。
しばらくは羽根一枚動かすことも億劫なほどクタクタだった。
茂みの中に横たわっていると突然、ガサガサと音を立てて数メートル離れた場所が揺れた。
びくりとして音のした方を見ると、茂みの影から赤い眼がこちらを見ているのに気づく。
さっきの犬鷲がもう追ってきたのか。
しかしすっかり体力を消耗した昴には、もう逃げる力は残っていない。
グルル…
低い唸り声が辺りに響く。
茂みから姿を現したのは犬鷲ではなく痩せ細った野犬だった。
眼は血走り、大きく裂けた口元からは鋭い犬歯が覗き、ダラダラと涎を垂らしている。
弱肉強食の獣の世界。
弱いものはすぐに捕食者の餌となる。
人の姿にも戻る事ができず、昴は漠然と死を覚悟した。
これまでの人生において楽しかった思い出とかそんなものは殆どない。
思い残すようなこともないし、長く生きようとも思ってもなかった。
だけどもし叶うなら、もう一度亜鷹と息を合わせたフライト競技がしたい。
いや、「ありがとう」と一言伝えるだけでもいい。
孤独な昴に寄り添って、いつも心の支えになってくれていた亜鷹に感謝の気持ちを伝えたい。
すると、突然何かが物凄いスピードで目の前を横切り飛んでいった。
それはあっという間に野犬を追い払うと、ここに来るはずがないと思っていた姿になって戻ってきた。
「昴…!!」
亜鷹は昴の身体を優しく持ち上げると自分の腕に乗せた。
「大丈夫だ昴…もう怖がらなくていい」
どうしてここがわかったのかとか、なぜ昴の姿がわかったのかとか、そんな理由どうでも良くて。
とにかく亜鷹にもう一度会えた事が嬉しくてたまらなかった。
(亜鷹、元に戻れない)
昴は亜鷹の腕に必死にしがみつきながら訴えた。
しかし亜鷹の腕は餌掛けをつけていないため、昴の鉤爪が食い込み所々血が滲んでいる。
血の匂いに煽られて昴は暴れ出した。
自分が何者なのかよくわからなくなる。
人でも獣でもない奇異な存在。
獣としても人としてもΩという性が付き纏うなら、このまま生きていても何も変わらないんじゃないか、生きていく意味はあるのだろうか。
そんな疑問が浮かんでは消えていく。
「Ωは汚い」「Ωは卑しい」
子供の頃に浴びせられた冷たい罵倒の数々が甦り昴の心を深く抉っていった。
「昴、聞いてくれ」
ふと、温かで穏和で寛容なものが昴の身体を優しく包み込んだ。
「俺はΩとか番いとか獣人とか人間とかそんなものくそくらえだと思ってる。できる事ならお前からその枷を外して自由にしてやりたい」
「……」
「でも俺には…そんな力はない。お前はどうやっても猛禽獣人の稀少Ωで、これからもそれを背負って生きていくしかない。けれど信じてくれ、これからどんな事があっても俺が必ず守ってやる」
「あ、たか…」
「お前が背負ってるものは俺も一緒に背負う。お前が迷ったら一緒に悩み、悲しいときは一緒に泣く。だから自分を受け入れて俺と生きてくれ、番いとして永遠に…」
滲んだ視界に誰かの姿が浮かぶ。
背中から大きな翼を生やし、昴をしっかりと抱きしめてくれているのは世界で一番愛しい大鷹の姿だった。
「あ…亜鷹っ…亜鷹…」
気がつくと声を出せていた。
自分の指先が見え、人の体の感覚を感じる事ができる。
その指先で必死に亜鷹の背中を掻き抱いた。
「おかえり、昴」
その言葉と温もりに安堵した昴は、まるで子どものように泣きじゃくったのだった。
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