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アネモネ 第4話
結局、山下さんは居酒屋に来なかった。
山下さんは、就業時間終了間際にクライアントから急ぎの見積依頼があり、対応に追われていた。
どうするか気になっていたら『悪い。遅れると三宅に伝えておいてくれ』と耳打ちをされる。されたことがない仕草に舞い上がっていた俺は、まんまとハメられたことに後で気付く。
山下さんは最初から行く気が無かったんだ。
(山下さんの嘘つき)
三宅さんと2人で飲み始めて2時間後、俺は後悔の嵐にいた。
三宅さんは、若くして課長になった中堅のホープである。次の春には次長だとの噂もある。結婚もせず仕事一筋で、つい先月に海外赴任から帰ってきたばかりだ。スマートな仕草に、さり気ない優しさ、それで仕事が出来て非の打ち所がない。遊び慣れている。俺には勝ち組の余裕が服を着て歩いているように見えた。
「向田君、そろそろ次へ行こうか」
「次、ですか?明日も仕事ですから、俺はそろそろ……」
帰りたい、と視線を送るも自信のある眼差しで跳ね返された。
「1杯ぐらい付き合ってよ。いい店知ってるんだ。時間は取らせない。今夜は君と俺だけだし、腹を割って話そうじゃないか。山下来なかったし」
そう言って、居酒屋の伝票を持って行ってしまう。さっきもここで他愛ない話を繰り返したのに、これ以上何か話したいのか。
俺は山下さんのことが気がかりだった。きっとコンビニ飯で済ましてしているだろう。スーツもその辺に脱ぎ散らかして寝ているに違いない。
「で、君は何に囚われているの?」
「えっ…………?」
二件目はお洒落なバーだった。JAZZが流れる薄暗い店内には、俺たちのことを訝しげに見る人はいない。必要以上に周りを気にするのは、昔から俺の悪い癖だった。
「前の店からずっと上の空で、携帯ばっか見てる」
「あ、これは山下課長から連絡が来るかもしれないから……」
「山下は来ないよ。さっき俺が断った」
「……は?」
「だって、山下をダシにして向田君と飲みたかっただけだし。いい手間が省けた」
何か意味深なことを言われた気がする。次の予感に心臓が一跳ねした。
俺は、静かに発泡している目の前のビールを口に含む。喉元を通り抜ける冷たい液体は、苦味を喉に残して胃へ納まった。
三宅さんのコップには黄金色の液体がたゆたっていた。優雅に丸い氷がグラス内を泳いでいる。
「向田くんは恋人いる?」
「………………いません」
「そっか」
唐突に投げかけられた質問へ、普段なら男相手にセクハラですかと流せるのに、そんな気分にはなれなかった。
引くどころか質問を受けとめた俺を見て、三宅さんは更に言葉を続ける。
俺だって、そんな雰囲気になることぐらい予想できた。三宅さんが俺を色眼鏡で見ていることに薄々気付いていたからだ。三宅さんは同族なのか、それとも興味本位なのか。
「長い人生、色んな人を好きになったりするだろうし、頑なに価値観を決めつけないで欲しいと思う。違ってたら申し訳ないけど、向田君は男の方が好きだよね」
「………………」
黙り込んだことが答えになるとは。この時ばかりは語弊力の無い自分を呪った。
「俺と、恋人みたいな遊びしてみない?」
「あ、遊び……ですか?」
「ごめん。遊びとはね、軽い気持ちという意味ではなくて、構えずゆっくりデートからどうですかっていうことだよ。初めて見た時から君が気になっていた。可愛いなって。一目惚れだったんだ」
三宅さんの口説き文句を引き出したのは俺だ。欲しかった言葉をすらすらと彼は俺にくれる。
自分が誰かの特別になるってことが、なんと素敵なことか。随分前に忘れた感情が俺を揺さぶった。
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