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アネモネ 第9話
「ちょっと待て」
「だって、だって……迷惑ですみません。俺は山下さんが好きです。直せるところがあるなら努力します。教えてください。奥さんの次でいいんで、切らないでください。傍にいたい……です」
去るのも追わずなんて真っ赤な嘘だ。俺は山下さんに涙を浮かべて懇願した。きっと大の男が泣いて縋っている姿は無様で気持ち悪いに違いない。
もう自分の気持ちに嘘はつけなかった。
「向田。落ち着いて聞け」
「っひく、、、」
ぽろぽろと落ちる涙を隠そうとしていた俺の手首を掴み、山下さんは落ち着いた声でゆっくり話し始めた。
「俺はマンションに一旦帰る。それは引越しするためであって、元嫁がどうとかは全くない。法的な手続きは終了したから、あいつとは会ってない。これからも一切関わらない」
「引越し……ですか」
「まずはマンションを処分する。住まいを整えて、それから……」
山下さんの顔が近づいてきた。
ショックなことを言われるんじゃないかと、身を固くして構える。
「お前が俺を好いてくれたなんて、思いもよらなかったよ。てっきり嫌われているのかと」
「そんな、こと、ないです。好きれす、好き、山下さんが好き、です。グズ……」
もう、鼻水が最上級にダサい。
「うん。分かってる。色々ごめんな。離婚で人格を否定されて、全てがどうでもよくなって、自堕落な人間になってしまった。向田の好意にずぶずぶに甘えた。格好悪いな」
涙で曇った眼に写る山下さんは傷心から立ち直っていた。思えば、ここ数日は掃除も洗濯も俺に頼ることなく分担してやってくれていた。
髪を切り髭も剃った彼はとても凛々しく、何かを乗り越えた年齢の渋さが垣間見える。とても格好が良いのだ。
「引っ越したら会えなくなりますか?」
「向田が嫌じゃなければ、時々……いやこうして頻繁に会いたい。マンションが売れたら一緒に暮らそう。嫌かな?」
「全然、嫌じゃないっ、暮らしたいっ」
子供みたいな即答をしてしまう。どう思われるかの配慮ができないくらい必死だった。
「奥さんがどうとか言い出すから、ビックリしたよ。あれは過去で、俺は向田しか見えてない。ほらこっちおいで」
目の前には腕を広げた山下さんがいる。彼の胸は信じられないくらい輝いて見えた。
俺は躊躇うことなく飛び込む。
ふわっと同じ柔軟剤の香りがした。
「……久しぶりの山下さん」
「ああ」
「さっきの言葉、信用していいんですか。明日になったら知らない、みたいなことないですか」
「ないない。俺、信用無いよな……ごめん。ありがとう、ありがとう」
「ふははは、や、こそばゆいです」
首筋に顔を埋められ、くすぐったくて身悶えてしまう。
山下さんは何度も「ありがとう」を繰り返し、俺を抱きしめてくれた。嬉しさとさっきまでの不安が混ざりあって涙が止まらない。
(これってハッピーエンドでいいのかな)
山下さんの服へ大きな鼻水のシミを作ったのは恥ずかしい思い出である。
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