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第3話 ①

「ほんっと、遅くにすまんね。仕事中に結構派手にぶつけてね、眼鏡歪むと不便で」  そう言って接客カウンターの椅子に座った年配の男性に、哲平は微笑んだ。  閉店間際の午後七時過ぎ、今日はもう店終いかと残務処理をしているところへの飛び込み客だ。  近所に住む常連客で、よくこうして眼鏡の修理にやって来る。  入社三年目のフリーランサーの岡本が冷えた麦茶を出すと、小さく頭を下げたその客がさっそくグラスに口をつけた。 「村井さん、かなり強くぶつけたようですね。鼻当てまで飛んでますよ」 「直りそうかね?」 「ええ。歪みは酷いですが、フレームに亀裂などの損傷はないんで、十分ほどお時間いただければ」 「良かったよ。まぁた眼鏡買い替えなんっつったらカミさんに何て言われるか……」 「はは。そうですよね。なるべく急ぎで直します。少々お待ちください」  哲平は常連客の村井が持参した酷く形の変形したフレームを預かると、加工台に戻りウォーマーの電源を入れた。  眼鏡の販売だけでなくこうしたメンテナンスも眼鏡店の仕事だ。小さな歪みから、掛け心地まで、お客の要望にできる限り応えていく。それが昨今急激に勢力を伸ばしているロープライスを売りにした眼鏡店との差別化でもある。 「お眼鏡、見え方などはいかがですか?」  岡本が、修理の間お客との話題を繋ぐ。 「見え方はいいよ。これ、軽いしね! 掛け心地良くて高かったけど気に入ってんだ」 「ありがとうございます」  そんなやり取りを眺めながら、哲平はフレームの歪みを直し息を吐く。ぶつかった拍子に飛んでしまった鼻当ても新品に交換して修理は終了。こうした小さなサービスの積み重ねが、次の売り上げへと繋がっていく。  実際、厳しい世の中になった。街に昔からあるような眼鏡屋がここ数年で姿を消したのも生き残りを賭けた競争に負けたからだ。 「いやぁ、助かったよー」  ゆっくりと席を立った客の動きに合わせて岡本が出入り口のドアを開ける。 「いえ。また何かありましたらいつでもお越しください」  客が車に乗り込み駐車場を出て行くまで、哲平たちはその帰りを見送った。ゆっくりと顔を上げ、チラとスーツの袖をずらし腕時計を確認すると、時刻はとうに閉店時間を過ぎていた。 「閉めるか。俺、これ片しながら一服いいか?」  哲平が店の外のセール用の幟旗(のぼりばた)を顎でしゃくると、 「はい。じゃあ、僕戻ってレジ締めちゃいますね」  岡本がそう言って店に入って行った。  岡本は素直で飲み込みも早く、特に接客に長けている。見た目は今どきの若者、と言った感じではあるが、若いフリーランサーの中ではとても優秀だ。  幟を店の中へ片づけたあと、哲平は再び外に出て駐車場の裏手にある喫煙所へと向かう。喫煙所と言っても簡素な灰皿が野晒しで置いてあるだけのスペース。こうしたご時世、恋人の小夏には強く禁煙を進められているが、仕事が一段落した後の一服はやはりほっとする。  煙草に火を点け、空いた手でポケットの中からスマホを取り出した。  相変わらず、悠介からの連絡はない。 「結局、シカトかよ」  哲平から何度か連絡を入れてはいるが、折り返しすらない。  あの日、多少の無理矢理感は否めないが悠介から連絡先を聞き出して、また昔のように戻れるんじゃないか──なんて自分の考えの甘さを思い知る。 「どうして、こうなったかな……」  そう呟きながら、発信履歴に残る悠介の番号をダイヤルした。  何度目かのコールの後、プツと小さな音。数秒の沈黙を挟んで 『……もしもし』  ようやく電話の向こうで声がした。 「悠介?」 『──あ?』   寝起きのようなくぐもった声。けれど確かに聞き覚えのある懐かしい声になぜか鼓動が速くなった。 『あー、哲平か』 「なに。寝てた?」 『ああ。今朝早くて、夕方帰って来てそのまんま』 「悠介酷くね? 俺、あれから何回も電話したってのにさ」  開口一番恨みがましい事を言ってしまう自分の心の狭さを呪いたくなったが、それほど再び悠介との関係が立ち消えてしまうことを恐れていたのだから仕方がない。 『悪い。ちょっと仕事バタついててさ』 「また避けられてんのかと思った」 『ははっ。避けてはないけど、多少面倒臭い……とは思ってた』  昔優しかった悠介の言葉は、意外にも辛辣だった。 「酷でぇな、それ」 『ははっ』 「あれから、おじさん具合は?」  実際、悠介の父親の病状の大まかなことは両親から聞いていたが、あえてそう訊ねた。 『んー。無事手術も終わったし、経過観察ってとこ? つい数日前から仕事も復帰したし、もう大丈夫だよ』 「……そっか。良かったな」 『うん。悪かったな、心配かけて』 「いや。俺は……」  悠介の父親が心配でというのはもちろんあるが、哲平が悠介に頻繁に連絡を入れていた理由は、悠介自身が心配だった部分のほうが大きい。  悠介は昔から、優しく誰からも好かれるが、心の内を人に見せるのが苦手で、誰とも一定の距離を保って付き合っているようなところがあった。  「悠介は平気なのかよ?」 『ああ。俺? 平気に決まってんだろ』 「本当か?」 『何だよ。疑り深いなぁ、哲平は』 「なぁ、寝てたんなら夕飯まだなんだろ? 俺、いま仕事終わったとこだからどっかで飯でも食わね?」  哲平の突然の提案に、電話の向こうの悠介が黙った。悠介に予定がないことを祈りつつ、畳みかけるように言葉を続ける。 「久しぶりに……っうか。近くにいんだし、飯くらい付き合ってくれてもいいじゃん。幼馴染みなんだし、普通だろ? そんくらい」  敢えて、悠介が断りにくいような言葉選びをした。  何がどうなって、長い間疎遠になってしまったのか。その理由ははっきりとは分からないが幼馴染み同士の自分たちが、会わないことの方が不自然だとでもいうように。  昔のように、いつでもどこでも一緒に、などとそんな関係を今更求めているわけではない。ごく普通の友人のように、たまに会って食事をする・酒を飲む、その程度の付き合いにまでその関係を修復したいと思っているだけだ。 「なぁ。いいだろ、飯くらい。何をそんな躊躇うことあんだよ?」  吐き出した煙草の煙が夜の闇に吸い込まれていく。 『……』  電話の向こうで悠介が何か言おうとしたようだが、しばらく間が空いて諦めたように小さく息を吐いた。 『……分かった。いいや、確かに腹減ってるし。哲平の店出て、マツトミの交差点西側に入ったとこに、“とみた”って定食屋あるんだよ。そこでいい?』  悠介の声を聞きながら、頭の中でその交差点付近の景色を思い浮かべた。マツトミとは、派手なオレンジ色が目立つ全国チェーンのドラッグストアだ。確かあの通りには数件の飲食店が軒を連ねていた覚えはある。 「ああ。たぶん分かると思う」 『何分で来れる?』  そう訊ねた悠介の問いに、ふっと小さな笑いが漏れた。つい先ほどまで会うことを渋っていた様子だったのに、腹を括ればその行動が驚くほど早いとは。 「二十分もあれば」 『んじゃ、二十分後にな』 「おう」  そう返事をして、哲平は手にした煙草を灰皿の淵で揉み消した。

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