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第3話 ②
仕事を終え約束の店に向かう途中で小雨が降り出した。
マツトミの角を曲がると、悠介が言っていた店はすぐに分かった。店の前に掛かった暖簾をくぐり、引き戸に手を掛けたところで後ろからポンと肩を叩かれ振り向いた。
「もう着いてたのか。途中雨降られたろ?」
悠介がビニール傘を畳み、肩に付いた雨粒を払いながら訊ねた。
「ああ。でもすぐそこまで来てたからそんな濡れなかったけど」
そう答えて自分も同じようにスーツの肩に付いた雨粒を払うと、店の奥から笑顔の年配の女性店員がこちらに近づいてきた。
「いらっしゃいー! 何名様?」
「二人です」
「じゃあ、奥どうぞ」
店員に促され、悠介に続いて奥の席へと進む。店は週末という事で混みあっていた。
「ここ、飯上手いんだ」
席に着いた悠介が、慣れた手つきでメニュー表を広げこちらに差し出した。
「とりあえず、生。悠介も飲むだろ?」
「うん」
「んじゃ、二つで」
はいね、と返事をした店員が、他の客に呼ばれて慌ててその場を去って行った。
目の前に座る悠介は、ティーシャツ・ジーンズにブルゾンを羽織っただけのラフな服装で、この店にも慣れているらしくとても寛いだ印象だ。
「ここ。よく、来るのか?」
「んー、まぁ。近所だし」
不思議な感覚だった。子供の頃はあれほど一緒にいたのに、大人になってからこうして約束を取り付けて会うなどという事は初めてだ。当たり前のことだが、過ぎ去った年月を感じずにはいられない。
そうしているうちに頼んでいたビールが運ばれて来た。
「哲平、決まった?」
「ああ。俺、ヒレカツ定食」
「お。いいチョイスだな。俺も、それ」
そう言うと、店員が「はいよー」と軽い返事をし、注文内容を復唱して慌ただしく去って行った。
「とりあえず、おつかれ」
「ああ、うん」
悠介に促されるままジョッキを手にし、お互いのそれをカチンと鳴らす。目の前で喉を鳴らす悠介の顔をやはり不思議な気持ちで見つめずにはいられなかった。
「ん? 何だよ? 泡でも付いてる?」
「いや。何か変な感じだな、と思って」
「ああ。こうして飲むのが? 確かに哲平とはジュースで乾杯したことしかないもんな」
互いに大人になったということ。
確かに、少年だったあの頃の悠介とはず随分と雰囲気が違って見える。
「ホテルって働いてるって聞いたけど、悠介はどういう仕事してんの?」
哲平が訊ねると、悠介が顔を上げた。
「宴会──っても、分かんないか。ほら、大きなパーティーみたいのから、結婚披露宴、小さな食事会とかいろいろ……宴会場使ってやる案件全般」
「あー、料理運んだり? 似合いそうだな、悠介」
そこらのファッション誌に載っていそうな、綺麗で整った顔立ちの悠介。ホテルマンが着用してそうな黒服なんかがいかにも様 様になりそうだ。
「もう、長いのか?」
「そこそこな。入社してからずっと宴会だから、もう五年になる」
「楽しい?」
そう訊ねると、悠介がさも可笑しそうに目を細めて笑った。
「何だよ、その質問攻め」
「だってさ。悠介とまともにゆっくり話すのなんてもう何年振りか、って感じじゃん。知らないこと多過ぎるっつうか……」
実際、その通りなのだ。特に悠介が大学進学と同時にあの家を出てからというもの、ほとんどと言っていいくらい接点がなかった。今では、知らないことの方が多いくらいだ。
「そういう哲平は?」
今度は悠介が訊ねた。
「俺は最近あの店の店長になったとこ」
「へ? すげぇじゃん」
「いや、凄くないよ。あの店の店長だった人が出産のために退職してさ。繰り上がりで……って感じだし」
そう答えると、悠介が手元のジョッキを指先で弄びながら哲平を見て目を細めた。
「大人んなったなー、哲平」
「子供扱いすんなよ。歳一つしか変わんないだろ」
「そうだけど。俺、哲平の印象、高校んときで止まってるもん」
「それ。お互い様だからな」
「てゆーか、哲平いつから眼鏡掛けてんの? 中学高校んときは悪くなかったよな?」
悠介が不思議そうに訊ねたのに対し、哲平は軽く眼鏡のブリッジを押さえながら記憶を手繰り寄せるように答えた。
「大学の頃かなー? 運転に不自由するようになって。最初は車の運転のときくらいだったのが、仕事するようになってから急に視力落ちて普段から掛けるようになった」
職場が眼鏡屋ということもあり、ショップの店員がその店の服を着ることを義務付けられているのと似たような意味合いも兼ねてはいるのだが、いまの哲平にはそれを差し引いても外せないアイテムとなった。
「似合うな」
悠介が益々目を細めながら言った。その細められた懐かしい表情に、なぜか胸の奥がザワと疼く。
こういう悠介の顔が好きだったな、などと今更ながらに思い出したりした。
「眼鏡正解なんじゃない? そこそこ賢く見えるし」
「……アホ面で悪かったな」
「そこまで言ってないじゃん」
悠介がふっと可笑しそうに吹き出した。
「言ってるようなもんだろー?」
飛び越えた年月に少しばかりの違和感を残しつつも、こうして昔のように自然に話せていることが哲平には嬉しかった。
「はーい、お待たせー!」
店員が両手に定食の膳を乗せてやってきたのに合わせて、哲平と悠介はそれぞれビールのジョッキをテーブルの端に寄せた。
「うっわ! マジ旨そ」
哲平は目の前に置かれたヒレカツ定食の膳に目を見張る。メニューの写真より実物の方がよりボリューム感があり美味しそうだ。
「マジ、旨いから」
悠介が少し得意げに言って割り箸を割ったのに続いて、哲平も両手を合わせてから割り箸を割った。
「いただきます」
「いただきまーす」
まるで時間が戻ったみたいだった。
昔はよくお互いの家を行き来し、一緒に食事をした。お互いどちらの家族にも馴染んでいて、端から見ればどちらがどちらの家の子供か、と思うほど賑やかな食卓だった。
「なんか、懐かしいな」
悠介も同じことを感じていたのか、哲平が今まさに口に出そうとしていた言葉をボソリ、と呟いた。
「──うん」
「旨い」
「うん、最高だ」
自然と頬が緩むのは、食事の美味しさか、それともこうして久しぶりに同じ気持ちを共有できた満足感か──。
「哲平、顔にやけてんのキモイ」
「にやけてないし」
「にやけてるよ」
「仮ににやけてたとしても、キモイはないだろ、キモイはー! なんか、悠介口悪くなったろ?」
「何それ。なってないよ」
「そうかなぁー?」
昔はもっと優しい兄貴、という雰囲気だった気もするが。
そもそもその辺の記憶も少し曖昧になってきているのは、それに相当するだけの時間が自分と悠介の間に流れているからだ。
「ま、いっか」
こうしてまた笑えるのなら。
こうして目の前の悠介が、昔のように笑ってくれるのなら。
食事を終えて一息ついていると、哲平のスーツのポケットの中のスマホが鳴った。
「なんか鳴ってるぜ?」
「ああ、うん。メッセージ」
スマホを取り出して画面を確認すると、SNSメッセージの主は恋人の小夏。どちらかといえば、まめに連絡をくれるのは彼女のほうで、特に用事がないときでも仕事が終わった頃合いや家に帰って一息ついた頃に必ず連絡をくれる。
「お? 彼女かー? 顔緩んでるぞ」
悠介がニヤ、と少しからかうような表情で訊ねた。
「ああ、うん。まぁ……」
この手を話題はどうも気恥ずかしく、哲平はいつも軽く濁すことが多い。彼女のことは好きだし、大事に思っているが、他人にあれこれ聞かれるのが照れくさい気持ちが強い。
「はは、ちゃんと彼女いんじゃんか。もう付き合って長いのか?」
「あー……、一年くらいかな。飲み会で知り合って」
「哲平から声掛けたんだろ? おまえ、押し強そうだもんな」
「や。逆。……向こうから付き合ってくれって言われて」
そう答えると悠介が意外そうな顔をした。
「へぇー? 哲平モテんだ」
「そういうんじゃないよ。たまたま……っていうかさ」
小夏とは職場の同僚に連れて行かれた飲み会で知り合った。
女の子は好きだし、彼女も欲しいと思ってはいたが、アプローチに関しては昔から苦手なほうだった。
飲み会も苦手というほどではないが、得意ではない。少し居心地の悪い思いをしていたところ、偶然隣に座った小夏とは自然と話が弾んだ。
何かいいな、いい子だなという程度の淡い好意を持っていたところに、彼女から付き合って欲しいと言われた。
断る理由なんてなかった。最初のきっかけこそそんなふうであったが、知れば知るほど小夏に惹かれた。今では彼女のことを本当に大切に思っている。
「そういう悠介は? 悠介だって彼女くらい、いんだろ?」
そう訊ねたのは、断定に近い疑問。自分のことばかり、あれこれ聞かれるのはフェアじゃないというのもあるが、この悠介に誰もいないというほうが不自然な気がしたからだ。
「いるよ」
「だと思った。悠介、昔からモテるもんな」
事実、小学校の頃からバレンタインには女の子たちからたくさんのチョコレートを貰っていたし、中学になってからは悠介目当てに部活の見学に来る女の子たちが大勢いた。
整った美しい顔立ちに、柔らかな物腰。まるで少女漫画の王道ヒーローのような悠介に憧れる気持ちも分からなくはないと、同性ながらに思ったものだ。
「そろそろ出るか」
悠介が時計を見て、伝票に手を伸ばした。
このままもう少し話していたいとも思ったが、もしかしたらこのあと何か予定があるかもと思い「ああ」と素直に頷いた。
「一緒に住んでんだ」
「え?」
「俺、恋人と」
「……そうなんだ」
「束縛厳しいからさ、男友達と飲んだりってのも頻繁だとあんまいい顔しなくてさ。そんなわけだから──」
悠介の言葉に、含みがあった。
そんなわけだから、察してくれよ、ということなのだろうか。
「そっか」
結局、戻れたわけではないのだ。悠介は積極的に自分と会うことを望んではいないというのはその口ぶりから察すことができた。今夜も強引に誘ったのは自分の方だったのだということを思い出した。
会計を済ませ店を出ると、雨は本降りになっていた。
通りを走る車が道路に溜まった水を跳ね上げて走り去って行く。
「マジかー……」
哲平が降りしきる雨を眺め溜息をつくと、あとから店を出て来た悠介が店先にあった透明のビニール傘を広げ、哲平に差し出した。
「持ってけよ」
「え?」
「傘、ないんだろ? ここまで本降りだとさすがに傘ないとキツイだろ」
「や。いいって。したら、悠介濡れんじゃん」
「俺はいいよ。マンション、そこの角曲がってすぐだし」
悠介が通りの先を指さして言った。
「じゃあ、傘借りるついでに送るよ。すぐそこなんだろ、マンション」
哲平の言葉に、悠介はあまりいい顔をしなかった。ここまでやんわりとした拒絶をされる原因はなんなのだろうと、地味に傷ついた気持ちになる。
「それくらいさせろよ」
「……分かった」
悠介から傘を受け取り、通りを並んで歩き出した。
角を曲がってすぐ、というの本当だったようで、実際悠介が指さした角を曲がってすぐのところにそれらしきレンガ色の壁のマンションがあり、悠介がそこで立ち止まった。
「ここだよ。……だから近いっつったろ?」
「うん。けど、走ったらやっぱ濡れたろ?」
「ありがとな。わざわざ」
「いや、こっちこそ。傘、サンキュ」
哲平は悠介がくれた傘を軽く掲げて見せた。
「気を付けて帰れよ?」
「ああ」
そう返事をして踵を返した──が、二、三歩足を踏み出したところで悠介を振り返って声を掛けた。
「なぁ!」
少し雨脚を増した雨の音。悠介が少し聞こえづらそうな表情をした。
「また、たまには飯くらい行こうぜ」
頻繁に会うのが無理ならば、ほんのたまにでいい。
「また誘うから」
哲平が言うと、悠介が一瞬何かいいたげな表情を浮かべたが、少し間を開けてから仕方ないな、というように頷いた。
昔から悠介にはこういうところがある。
口では何だかんだと言いながらも、その優しさから結局相手を無下にできないようなところが。それは誰に対してもそうであったし、もちろん哲平に対しては特別に──。
その甘やかな優しさが嬉しくもあり、心地よかった。
「またな」
そう言って大きく手を振ると、悠介がそれを見て呆れたような顔をしながらも小さく手を振り返した。
ポツポツと傘に当たる雨粒。透明なビニール傘の表面を、その雨粒が滑るように落ちていく。
もう一度後ろを振り返ると、もうそこに悠介の姿はなかった。
何か特別なことを望んでいるわけじゃない。
ただ、以前のように悠介と笑い合いたい──それだけなのに。
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