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第3話 ③
仕事を終え店を出ると、スマホから短いメッセージを送って駅からほど近いいつもの待ち合わせのコーヒーショップに向かった。
恋人の小夏とは彼女が土日休みの事務職、自分が平日休みのサービス業ということで思うように休みが合わない。もちろんお互い休みを合わせることもあるが、毎回というわけにはいかず、平日の仕事終わりに食事に行くというデートも珍しい事ではない。
今夜も仕事帰りの小夏を待たせているため、哲平はその待ち合わせの場所までの道のりを急いだ。
待ち合わせのコーヒーショップの窓はガラス張りになっていて、特に夕刻を過ぎたころからは外から店内の様子が窺える。入口近くの小さなテーブル席で、本を読んでいる彼女の姿を見つけ、慌ててそこに駆け寄った。
「ごめん、小夏。待たせた?」
そう声を掛けると、小夏が読んでいた本を閉じて顔を上げた。
「ううん? ちょっと買い物とかしてたから、そんなでも」
哲平の顔を見て嬉しそうに頬を染める小夏の笑顔にほっとする。
「哲くん、走って来たの?」
「え?」
「額に汗」
そう言った小夏が小さく笑ってハンカチを差し出した。
「──ああ、うん。少しな」
無理をしているわけではない。ただ彼女をあまり待たせたくないという気持ちからなのだが、こういうことを彼女に見破られてしまうところが我ながらスマートではない。
「お腹すいちゃったなー、私」
「俺も。小夏、何食いたい?」
「駅ビルの中に新しいカフェできたの知ってる? メニュー豊富なんだって。そこ行きたいな」
彼女は自分より三つ歳下だが、その主張はいつもはっきりしている。食べたいもの、行きたいところ、したいこと、その欲求にはとても素直だ。
「いいよ。じゃ、出るか」
そう言うと、小夏が嬉しそうに席を立った。
駅ビルの中の新しいカフェは、店の雰囲気もよく、メニューも豊富だった。
ビルの高層階に位置するカフェからは、街の夜景を見渡すことができ、パスタやピザを中心に、アラカルトの種類も多い。中でも小夏の好きそうな甘めのカクテルが豊富で、彼女が興味を持った理由も頷けた。
メニューを見ながらキラキラと目を輝かせている小夏は、時折幼さの残る表情を覗かせる。
「どうしよう、迷うー! 哲くん、どれがいい?」
「はは。好きなの頼めよ。シェアすればいいし。もし食いきれなかったら俺が食うし」
あれこれ迷った挙句、何品か注文を終えると小夏は満足そうに先に運ばれてきたカクテルに手を伸ばした。
「お疲れさま」
「お疲れー」
コツ、と小さくグラスを鳴らし、乾杯をする。グラスの半分ほどまで一気にカクテルを飲んだ小夏が、その瞳をクルリと回転させて微笑んだ。
「んー! 幸せ」
「そりゃよかった」
「あ、ねぇ! 来月の、どこ行こうか?」
「ん?」
「ほら。私の誕生日にどっか出掛けようって、言ったの哲くんのほうじゃない」
そう小夏に言われて、少し前に彼女とそんな話をしていたことを思い出した。
普段、休みも合わず、ゆっくりとしたデートもままならない。せめて彼女の誕生日くらいは、と確かに哲平の方から言い出したことだ。
「それ、せっかくなら泊まりにするか?」
「え?」
「小夏が大丈夫なら」
「えっ、……いいの?」
小夏が目を丸くした。
彼女は男と付き合うという事自体、初めてだと最初に言った。哲平も異性と付き合った経験は多くはないが、自分が小夏にとって最初の基準になる男だと思うと、殊更大切にしてやりたいという気持ちも大きくなる。
「但し、ご両親のOK取ること。俺、初彼氏ってことだろ? できれば心象良くしときたいしな」
小夏との将来とか、そこまでのことを考えているわけではないが、彼女を大切に思っていることは伝えたいと思うし、両親にも娘が大切にされていると安心してもらいたい気持ちがある。
「嬉しい! お休みも私が合わせる。有休もあるし、平日の方が哲くんもお休み取りやすいでしょう?」
「……はは」
「やったー! 本当嬉しい」
小夏はこういうとき本当に嬉しそうな顔をする。
付き合ってくださいと言われ、それを了承したときの彼女の顔といったら今でも忘れられないほどだ。
自分はあまり異性に好意を持たれるほうではなかったし、見た目も平凡なら、何か突出した魅力があるとも思えない。
小夏にとって、一体自分の何が良かったのだろうか。
そんなふうに思うことはあるが、付き合い始めの頃から変わらない真っ直ぐな好意はやはり嬉しく幸せでもある。
食事を終えて店を出ると、時刻は午後十時を回ったところだった。
彼女の家は駅から徒歩で二十分ほど。彼女も実家暮らしだということで、基本あまり遅くならないうちに家に帰すのが常だ。
「送るよ。タクシー使う? 歩きで帰る?」
そう小夏に訊ねると、彼女が小さく唇を尖らせた。
「やっぱり……今夜は、お泊りしたらダメかな? 私、明日休みなんだけどなー」
「ダメ」
「えー? 何でー?」
「実家暮らしの女の子、そんな頻繁に外泊させられないだろ」
付き合って一年。それなりの付き合いはしてきているわけで、デートのあとホテルに泊まるなんてこともない訳ではないが、やはり節度というものがある。
「食事デートだけじゃ足りない」
小夏の唇が一層尖っていくが、そんな自分の感情に正直なところも彼女の魅力だ。
「哲くんと、もっとイチャイチャしたいのになぁー!」
「はは」
「はは、じゃないのー! 私、やっぱり一人暮らししようかなぁ?」
「家からの通勤、三十分かかんないのに? それこそ小夏の親がなんて言うか」
確かにどちらかが独り暮らしだったなら、こんな時、いろいろと都合良かったのかもしれないが。お互い実家からの通勤に不便はないし、あえて一人暮らしに踏み出すほどの大きなメリットも見つからない。
「いいじゃん。だから、来月ゆっくり旅行行くんだろ?」
「そうだけどー」
「泊まるとこも奮発するよ。リッチに部屋風呂とかついてるとこリクエストしてもいいから」
「……」
「今夜は送る。タクシーだとすぐだから、少し早いし歩いて帰ろう」
もう少し自分と一緒にいたいと望んでくれている小夏の気持ちを汲み、そう提案した。
少し不満げな表情を残しつつも、小夏が小さく息を吐いた。彼女は本気で哲平が困るようなことは言わない。
頭では分かっているが、少し我儘を言ってみたいのだろう。
普段、聞き分けのよい彼女の小さな甘えを受け止めてやるくらいの優しさは年上の男として持ち合わせているつもりだ。
「うん、分かった。じゃあ……腕組んで歩いてもいい?」
小夏が訊ねた。
「いくらでも」
そう返事をすると、小夏が嬉しそうに笑って哲平の腕に細い腕を絡ませた。
「ふふ。変わったね、哲くん」
「え?」
「前は、腕組むのだって恥ずかしがってたのに」
「うん」
もちろん、今でも照れくさいとは思う。二人の時なら別だが、人前でのスキンシップというものがどちらかといえば苦手なほうだ。
「そーいうとこも好きなんだけどね」
彼女のストレートな感情表現に、心をくすぐられる。誰かにこれほどまでに真っ直ぐな感情を向けられたことがないからか、ただ男としての経験値の低さか。
梅雨間近の湿った夜風を肌に感じながら、歩き慣れた夜道を彼女と並んで歩く。
腕に添えられた彼女の手が、重力に抗えずだんだんと下に落ちていく。
「小夏」
「ん?」
「それだと腕疲れるだろ」
そう言って小夏に掌を差し出すと、彼女がはにかみながらそれを握り返した。そっと掌を合わせ、自然と指を絡め合う。付き合い始めの頃は、こんな些細な触れ合いさえ気恥ずかしく、掌の汗が気になって仕方なかったものだが、いつのまにか自分の掌に彼女の掌が馴染んでいる。
心地いい。
触れ合う手の体温も、隣を歩く彼女の歩調も、風に揺れる髪も、気配も。
「哲くん、大好き」
彼女が呟いた。
「何、急に」
「急じゃないよ。いつも思ってるもん」
彼女が、ふふと笑った。この瞬間、柔らかにほころぶ彼女の笑顔が好きだ。
つられるように自分の口元まで緩むのを誤魔化すように彼女と反対の方向の景色に視線を移した。
「にやけるから、やめろって」
「にやけた顔見せてよ」
彼女がキュ、と繋いだ手に力を込め、哲平の顔を下から覗き込むのを慌ててかわした。
「やだよ」
「えー? 見たいのに」
「見なくていい。恥ずいから」
こんな時、夜道が暗くて良かったと心から思う。
思いがけない相手からの告白で始まった恋が、少しずつ育って膨らんで、花開く。彼女を愛しく想う気持ちが確かにここに存在している──。
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