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第4話 ①
哲平と成り行きで食事に出かけてから一週間。
それまでやたら頻繁だった哲平からの連絡がピタリと途絶えた。同棲している恋人がいるなど嘘をつき、そう仕向けたのは自分だが、それを心のどこかで寂しく思う気持ちもある。
あの時と変わらない。自分から遠ざけておいて、今更何を──。
パソコンの画面を見つめたまま、悠介は小さく息を吐いた。
その時、少し乱暴なノックとともに宴会の事務所の扉が開き後輩の鈴宮 が顔を覗かせた。
「岩瀬さーん。棚卸終わりました。データここでいいです?」
「ああ。お疲れ。鈴宮くん、今日はもう上がっていいから」
「本当ですか?」
「先週忙しかったから、残業超過してるだろ? 調整上が煩いから遠慮なく帰っていいよ」
ホテルの宴会という部署は基本不規則勤務だ。忙しいときは忙しく残業もかさむが、その逆も然り。残業が超過した分に関しては、暇な日に時間調整し、勤務時間を管理していかなくてはならない。
「やった! 夕方上がれるとかマジ嬉しいっす!」
後輩の鈴宮がガッツポーズをした。夜の宴会がある日は帰宅時間が、午後十時を過ぎることも少なくはない。こんな時間に帰宅できることは稀で後輩たちが喜ぶのも当然の事だ。
「倉庫で備品カウントしてる奴らにも終わったら上がれって言っといて」
「了解っす! それじゃ、お先です」
そう言うと嬉しそうに事務所のドアを閉めた鈴宮を見送った。
「俺も今日は早く帰れそうかな」
あとは後輩たちがカウントしたデータを纏め経理に提出して、終了。
管理職という立場になり、後輩たちの勤務時間についても気を遣うようになったが、自分自身も無駄な仕事はしない主義だ。
データを保存し、指で目頭をつまみながら目の疲れをほぐしていると、ふいにテーブルの上のスマホが音を立てて震えた。
電話の主は成島。確か明日まで出張で不在だと言っていた気がするが、一体何事かと思い電話に出る。
「もしもし」
『──あ、岩瀬? おまえ今日仕事遅いんだっけ?』
「や。暇だから、あと一時間もすれば帰るけど。……どうした? 成島、今日まで名古屋じゃなかったっけ?」
『仕事巻いて、七時過ぎにはそっち帰れそうだから、明日休みになったし居るなら寄ろうかと』
「いいよ。普通に居るし」
『じゃ、ついでに“とみた”で飯でも食うか? 久々にあそこの飯食いたい』
「分かった」
成島の言葉に、悠介は素直に返事をした。
仕事を終えた悠介のもとに、成島からの連絡が入ったのは午後六時半過ぎ。予定通り、七時過ぎにはこちらへ着く旨の連絡。
それからつい今しがた駅に着いたとスマホにメッセージが入ったところだ。
悠介は時間を確認しつつ、一緒に夕食を取る約束をしていた“とみた”へと成島が着く頃合いを見計らって向かう。つい一週間ほど前に来た時は雨が降っていたが、今夜は空に星が出ている。
先に店に着いたのは悠介の方だったが、ものの十分も経たないうちに成島が店にやってきた。
店員に声を掛けられ、待ち合わせだと告げている成島に向かって手を振ると、成島が悠介に気付きこちらにやって来た。
「お疲れ。お先にやってるけど」
そう言ってすでに口を付けたビールのジョッキを成島に掲げてみせると、成島が表情を緩ませた。
「ああ。気にすんなって」
「仕事、サクッと済んだんだ?」
「ああ。先方の段取りが良かったのか、いろいろスムーズに済んで一日早く切り上げて帰って来れた」
成島はイベント会社に勤めている。地方で大きな案件を抱えることもあり、数日から数週間の出張というのも珍しい事ではない。
「今回はデカイ仕事なんだろ? 順調にいってんの」
「順調だよ。……けど、ここまで規模デカイの任されるのは初めてだから、ちょっとビビってる」
普段から余り感情を派手に表に出すことのない成島のこうした本音を聞くことができるのはある意味貴重だ。
「何頼んだ?」
「や。まだビールだけ。成島来てからでいいかと思って」
「腹減った。何食おう。岩瀬、いつもの?」
「今日は、日替わりにしようかと」
「珍しいな。いつも好物譲んないのに」
さりげなく好物を避けたのは、記憶が真新し過ぎて、変に哲平の事を思い出したくなかったから。
そう意識している時点で、既に思い出しているという事実に気付かなければ良かったのだが──。
「ここ、久しぶりじゃね?」
成島がメニューを見ながら言った。
「俺、最近来てんだ。連れと」
「あ? じゃあ、飯違うとこのほうが良かったか?」
「や。いいよ。ここの飯、俺が知ってる中じゃ一番うまいと思うし。飽きないから」
「会社の連れ?」
成島が何気なく訊ねた言葉に、ほんの一瞬の罪悪感。
「昔の──友達」
嘘はついていない。ただそれは、昔想いがあった男という点においての罪悪感。
「ふぅん? 珍しいのな、おまえ昔の連れとはあんま連絡取りたがらなかったろ」
「……まぁ、そうなんだけど。成り行きで」
昔の友達──中学以前の友達といえば、そこに嫌でも哲平が含まれることになる。べつに昔の友達とどうこうということではなく、哲平に繋がる友人関係を意識的に避けていただけの事だ。
久しぶりに哲平に会って、表向きは以前と同じように上手くやれていると思っていた。
けれど、哲平のふとした仕草、表情。成長に伴ってもちろんその印象も随分変わってはいるが、ふとした瞬間に蘇るのだ、胸の奥のずっと深いところに無理矢理閉じ込めたはずの感情が。
姿は変わっても、人懐っこい笑顔や素直さはあの頃のまま。
忘れ掛けていた感情が、未だ胸の奥の方で燻る音がする。
「岩瀬?」
成島に声を掛けられて、はっとした。ざわざわと客の多い店内。威勢のいい店員の声があちこちで飛び交っている。
「どうかしたのか? ぼーっとして」
「いや。何でもない」
「疲れてんのか?」
「いや。昨夜、暇つぶしに借りたDVD観てたらつい夢中になって寝不足なだけ」
「なんだそれ。ガキかよ」
「はは」
「本当に何でもないんだな?」
成島が念を押すように訊ねたのに、「もちろん」と頷き返す。
すると成島がニヤと笑い、声を落として囁いた。
「なら。思いきり抱いても支障ないよな? 最近ゆっくり会ってなかったろ?」
成島の言葉に、悠介は顔色を変えた。
「──おい、ここ外」
そんな悠介を見て、成島が可笑しそうに笑った。
「バァカ。これだけ騒がしい店の中で他人に聞こえるかよ」
確かにそうだが、聞こえる聞こえないの問題ではないのだ。
成島は昔から堂々としていて、特定の友人や家族に自分の性癖をカミングアウトしているらしいが、悠介にそんな勇気はない。
家族に言う勇気はなく、大学進学と同時に家を出た。特に両親にとって普通の息子でありたいという思いが強かったし、そうするには適度な距離をおくのが一番だと思った。
友人と言っても、当時一番仲がいいのが哲平だった。むしろ他の誰に知られようと、哲平にだけは知られたくないという思いのほうが強かった。
それは、今でも変わっていない。
「成島みたいに強くないんだよ、俺は」
自分は自分だと、誰に恥じることもなく生きられるこの男とは。
「俺だって、べつに強くないよ」
成島が静かな口調で言った。
「おまえとは大事にしてるもんが違うだけ」
「……」
「つか、腹減った。すいませーん」
成島が一瞬変な感じになった空気を払拭するように近くにいた店員を呼び止め、悠介の分を含んだ定食とビールを注文をした。
「……悪い」
成島のこうした気遣いにはこれまで何度も助けられてきた。
「いいってことよ」
成島が大人だからと言って傷つかないわけじゃない。ただ傷つかないようにする術を彼なりに身に付けているだけだ。
それでも、成島の強さが悠介の目には眩しく映る。惹かれたのは、このゆるぎない強さだ。
* * *
「風呂サンキュ。お湯抜いといた」
そう成島に声を掛けられ悠介は顔を上げた。今朝、朝食後そのままになっていた食器の類をキッチンで片付けていた悠介は、水道の蛇口を閉め「ああ」と返事をした。
たまには今夜のように飲みに出たりもするが、基本的にはどちらかの部屋でのんびり過ごすというのが成島との過ごし方。あのあと食事を終え、いつものように悠介の部屋にやってきた。
世間から見ればただの友人同士にしか見えない自分たちだが、実際は恋人同士。人目を気にせず気楽に過ごせるという点では、部屋で過ごすという選択がお互いにとってベストである。
風呂上がりの成島がタオルで髪を拭きながらキッチンにやってきて、冷蔵庫から水を取り出す。
「グラスいる?」
「や。いい」
成島は残り少ないペットボトル入りの水を飲みながらリビングのソファに腰掛けた。
「……アイコンシェルジュ?」
そう呟きながら成島がテーブルの上の名刺を手に取ったのを見てはっとした。先日哲平に渡された名刺を、置きっぱなしにしたままだったのだ。
「なに、新しい眼鏡でも買ったのか?」
悠介も近視だが、普段はコンタクトをしている。眼鏡を掛けるのは家でコンタクトを外した時くらいのものだが、成島ももちろんそれを知っている。
「いや。そこ、友達が働いてんだ。この間会ったとき名刺押し付けられて」
なんて言い訳がましいかとも思ったが、嘘をついているわけではない。
「船口哲平……? なんかどっかで聞いた事あるような──」
成島が名刺を眺めながら眉を寄せたのを、悠介はほんの少しの動揺を悟られないように平静を保つことに精神経を集中させた。
以前──といっても随分昔の話だが、哲平のことを成島に話したことがある。
詳しくというほどではないが、自分がそうであること自覚した経緯を話すことがあったそのついでだ。
未だに哲平に会うと心が乱れることがあるが、だからといってこの先どうこうなるということもない。今の自分にとって成島が最善の相手だと思っているし、それが覆ることもないが、成島に余計な心配はかけたくないのが本音だ。
余計なことを思い出してくれるなと、心の中で祈る。
「ああ! これ、大通りんとこの眼鏡屋じゃん。あそこに知り合いいたのかよ?」
「俺も、最近知ったとこで」
「お前の知り合いっつったら、眼鏡安く買えたりすんのか? 俺、そろそろ買い替えたいんだわ」
「や。そこまで仲いいわけでもないし」
「え? 名刺くれたんだろ? 飯行くくらい仲良かったんじゃないのか?」
「──まぁ、昔はな」
仲が良かったのは昔の事だ。
今でも哲平の事が嫌いなわけではない。だからこそ、近づきたくない。嫌いでないということは、会えばそれだけ心が揺れる。
もう、乱されるのはごめんだ。どうしたって手の届かない、ただ眩しく見つめるだけの存在に。想いを伝えることも、友達になり切れもしない、あんな苦しい思いを繰り返したくはない。
「──ま、やめた」
成島がペットボトルの水を一気に飲み干して口元を拭った。
「え」
「なんか。岩瀬、気ぃ進まなそうだし」
こういう察しのいいところも成島のいいところだ。
高校の時は積極的に自分から人と関わるようなタイプではなかったが、周りの人間からは一目置かれていた。一見、人に興味がなさそうに見えるが、その分人との距離感だとかには敏感だったと記憶している。
踏み込まれたくないところには踏み込まない。そういう距離感を一定に保とうとするところなどは自分と似ていると思っていた。
「そんな顔するなよ」
成島が悠介の目の前に立って、両手で悠介の顔を包み込んだ。
そっと重ねられる唇。この男の触れ方は優しく繊細だ。
「成島。そんなキスじゃ物足んないよ」
今度は自分から唇を重ね、舌を差し入れ、成島の舌を捕まえて舐める。ぬるりとした感触に皮膚がぞわりと粟立った。
「ある程度酒飲んだ岩瀬はいいな」
キスの合間に成島が耳元で囁いた。
「普段より、エロくなる」
「何だ……それ」
「ほら。そういう声も」
「……」
ギュッと成島の身体を抱きしめると、成島が安心したように息を吐き、抱きしめ返した。その力強い窒息感が心地いい。
「成島に、抱きしめられんの好き」
「そりゃ、初耳だな」
「好きだよ」
成島がくれるのは、安心と安らぎ。それから、抱かれる幸福──。
自分がそうだと自覚してからも、男同士のそれには抵抗があった。興味はあれど、先を知るのは怖い。
初めての相手も、成島だった。それこそお互いの身体に興味があって、友達の延長の──興味からの、抜き合い。自分が男だということで、抱かれることに抵抗がなかったわけじゃない。
自分がどちら側なのか明確な意思もなく、成島と試行錯誤し、どちらも試した結果、こちら側のほうが自分は大きな快楽を得られるのだと知った。
「──っ、あ」
「岩瀬、声我慢すんな」
成島の腕は心地いい。
このときばかりは、自分を縛るすべてのものから解放される。
「あ、……あっ、っ、う」
「岩瀬の顔見てるだけでイケるかも」
成島の顔が興奮に紅潮するのを見るのが好きだ。
何もかも忘れて、ただ愛おしい恋人の事だけを考え、その身体を貪る。
ドロドロに溶けて、混ざって、どちらがどちらの身体か分からなくなるくらいに──。
「成島も……好きって言ってよ」
このまま繋ぎとめて置いて欲しい。
自分がどこかへ飛ばされないように。胸の奥のほうに巣食う感情をこのまま閉まっておけるように。
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