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第4話 ②

 十日ほど前にとうとう本州も梅雨入りを迎えた。  少し前にみた天気予報では今年は空梅雨が予想されるなどと言っていたが、梅雨入りしてからというもの、すでにひと月分の降水量を超えんばかりの勢いだ。 「よく降りますね、まだ梅雨入りしたばっかだっていうのに」 「そうだな」 「九州とか、酷い災害出てるみたいすよね」 「ああ」  宴会場で夜の部のスタンバイをしながら、後輩につられるように窓の外を見つめた。  昨今の異常気象。局地的に降る雨は、全国各地で大きな被害をもたらしている。 「そーいや、台風も来てるらしいな」 「十五号ですね。コースが本州横断コースっぽいですよ」 「マジか」  自然には抗えないが、なるべくなら被害は最小限にと思うのが、ごく普通の願いだ。  哲平からの連絡は、結局のところなくなってはいない。  時折、すでに自宅へ戻った悠介の父親の様子をメッセージで知らせてくるが、それが自分に連絡を取るための口実だということくらいは分かる。  哲平は、何をしたいのだろうか。  もう何年も疎遠になっていた自分に、今更何を求めているのだろう。 「……深い意味はないんだよな」  哲平の行動や言葉に、いちいち心揺れるのは悠介の事情。  悠介自身も、もし相手が哲平でなく──例えば、中学の頃の仲の良かった同級生などであれば、時折飲みに行ったり、遊んだりというごく普通の友人関係を、復活させることくらい訳はない。  ただの友人ならば、それができる。  それができないでいるのは、自分にとって哲平がいかに特別な存在かというのを思い知らされ、結局酷く打ちのめされる。 「岩瀬さん。ここお茶付けんの夕方でいいっすか?」  現在スタンバイをしている中宴会場は、今夜、企業の勉強会が入っている。 「や。セットは向こうでするってさ」 「じゃあ、ドリンクだけ持って来ときます」 「ああ、頼むわ」  悠介はそう返事をして、スタンバイを終えた会場の中を見渡した。    仕事を終えて職場を出るのは午後九時半過ぎ。案件により異なるため、その時間は日によって前後するが、平均すればそれくらいの時間だ。  今夜はまだ九時を回ったところ。普段より少し早いというだけでなぜか得をした気持ちになる。  昼過ぎから本降りになった雨は、今もまだ降り続いている。悠介は傘を広げてすぐ目の前の駅までの道のりを歩いて行く。通勤には普段は自転車を使っているが、今夜のような天候の悪い日は別だ。  スマホに記録されたバスの時間を確認するも、利用している路線のバスはほんの数分前に出てしまったところだ。  悠介は小さくため息をつき、暇つぶしに駅ビルの中を見て回りながら、ふと立ち寄った本屋で本を手に取った。中身をパラパラとめくり、少し時間を潰してから店を出た。次のバスの出発時間が近づき、最短ルートである駅の構内を抜け、バスターミナルの方へと急いだ。  途中の階段ですれ違ったカップルの後ろ姿にハッとして振り返ると、それはスーツ姿の哲平と彼より少し若い感じの可愛らしい女の子。向こうはこちらの存在に全く気付いてはいないようだった。  仲睦まじい様子で手を繋ぎ遠ざかって行く二人の姿を悠介は何とも言えない複雑な気持ちで見つめた。 「……そりゃ、そうか」  哲平は電車通勤で日常的にこの駅を利用している。これまで会わずに過ごしてきたことの方が不思議なくらいだ。  覚悟はしていたはずだった。いつかこんな日がやって来るのを。  哲平の横に並ぶ、華奢で可愛らしい女の子の姿。実際目にしてしまうのと想像ではその衝撃の差は歴然で胸の奥がズンと重くなる。  哲平は、紛れもなく“普通の男”だ。年頃を迎えた普通の男は、ごく普通に似合いの異性と恋に落ちる。 「……はは」  いつか、こんな日を迎えるのを避けたくて距離を置いたはずだった。なのに結局、目撃してしまうとは一体何の因果か。  彼女がいることは分かっていたのに、実際目にしてしまった二人の姿に落胆し、泣きそうになっている自分の心の弱さに辟易する。   結局、何も変わっていない。  哲平から距離を置いたところで、その想いが消えるわけじゃない。  成島の温もりに癒されたとして、心の奥で消化しきれていない想いを忘れてしまえるわけじゃない。 「いつまでこんな……」  小さく呟いた声が、震えた。  どうして忘れてしまえないのだろう? どうして哲平なのだろう?  今まで何度となく考えた。理屈じゃない──それが恋に落ちてしまうという事。  マンションに戻ってからも瞼の奥から、仲睦まじく寄り添う二人の後ろ姿が消えなかった。  電気を点けてリビングのテーブルの上に未だ置きっぱなしにしてあった哲平の名刺を、掌で握り潰してゴミ箱に放り込んだ。  自分は一生こんな想いを抱えたまま、生きて行かなくてはならないのだろうか。  成島を大事に思う気持ちに嘘はない。こんなふうに哲平と再会することがなければ、成島と穏やかな日々を過ごして行けたかもしれない。 「──っ」  ピリリ、とスマホが鳴って、慌てて瞳に滲んだ涙を拭った。  大きく息を吐き、誰からの着信かを確認すると、努めて平静を保ってその電話に出た。 「もしもし? 成島?」 『──珍しく、電話出んの早いな』  成島の落ち着いた低い声色は悠介をとても安心させる。 「そんなことないだろ。いつも待たせてるみたいに言うなよ」 『何だ。風邪でもひいたか? 声少し変だぜ?』  ほんの少しの声の違いさえ成島には分かってしまうのがなんだか悔しい。 「ああ。ちょっとな。今朝から鼻水出てて」 『ここんとこ雨続いて朝晩冷えるしな。気をつけろよ?』 「つか。何の用だよ」 『用がないなら電話すんな、って?』 「そうは言ってない」  いつも救われている。成島のこうした神掛かったタイミングの良さに。 「成島」 『あ?』 「ほっとするな。おまえの声」 『何か──あったのか?』 「ないよ、何も」  こうしてまた繰り返す。  胸の奥の気持ちに蓋をし、成島の気持ちに甘える。消そうとして、忘れようとして。結局どうすることもできないのなら、重い重い蓋をして閉じ込めてしまうしかない。  そうするほかに、やり方を知らないのだ──。 「なぁ。飯食った?」 『食ったに決まってんだろ。何時だと思ってんだ』 「そりゃ、そだな」  今はただ、この声を聞いていたい。  どうしたら、忘れられるのだろう?  いっそ、壊してしまえばよかったのだろうか。何もかも、あの頃に。  

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