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第4話 ③
余計なことを考えまいとすればするほど、それに捉われてしまうのはよくあることで。
こんな時仕事で気を紛らわそうとするも、そういう時に限ってさほど忙しくもない。隙間の目立つ予約票を眺めながら、世の中そう上手く事は運ばないと小さく息を吐く。
今日の昼は一件講習会が入っているのみ。閑散期の平日、こんな日もないわけではない。
宴会場で普段よく執り行われる食事会やパーティーの類は、ドリンクや食事の提供もあり、現場での仕事はかなり忙しくはあるのだが、講習会や会議などの案件はあらかじめスタンバイした会場を提供するのみの事が多い。長時間に及ぶ場合は途中で食事のサービスをすることもある。
「岩瀬さーん。金木犀 の間 、スタンバイ終わりました」
後輩の空井 がパントリーに顔を覗かせ、悠介は顔を上げた。
「ああ。あと二十分くらいで銀木犀 終わると思うから、それバラしたら皆連れて飯行って。それまで葵の間のスタンバイ手伝ってやって」
「了解ーっす」
元気よく返事をした後輩の後ろ姿を見送った。
予定時間より十分ほど遅れる形で、銀木犀の間の扉が開いた。
どうやら講習会が終了したようだ。会場からわらわらと人が出て来て、悠介は慌てて会場の出入り口付近へ向かう。
「あの、すいません。お手洗いって……」
「会場出て右手。真っ直ぐ歩いていただきますと突き当り左手にございます」
案内を終えて戻ると、後輩の空井もやってきて会場の忘れ物チェックに当たっている。
突然、会場の中でガタンと大きな音が聞こえ振り向くと、椅子から立ち上がったと思われる女性がその場でうずくまり、その傍らに駆け寄る若い男性の姿があった。
「大丈夫ですか……!」
うずくまる女性に手を貸し、そっと身体を支える若い男が顔を上げた時、悠介は思わず「え?」と声を上げた。
「哲平……」
「え、あ、悠介?」
「どうして……」
「そんな事より、どっか彼女休ませる場所ないかな? 貧血だって」
顔色の悪い女性を「すみません。ちょっと、我慢してくださいね」とそっと抱き上げた哲平が指示を仰ぐように悠介の顔を見つめる。
「じゃあ、とりあえず。会場出たとこの長椅子に。案内する」
そう言って悠介は、宴会場を出てすぐのところにある長椅子に哲平を誘導した。
女性の容態を気遣うようにそっと女性を長椅子に降ろし、自分が持っていたペットボトルのお茶を「栓開けてませんから」と差し出す哲平の姿を見守った。
「大丈夫ですか? お部屋ご用意いたしましょうか? 少し休んで行かれては?」
悠介が女性に訊ねると、女性は首を横に振った。
「大丈夫です。元々貧血気味で、よくあるんで……少しここで休ませてもらえれば」
遠慮しているのだろうが、元々そういう体質なのであればあまり大事 にしたくないという気持ちも分かる。
「分かりました。何かありましたら、お声掛けてください」
そう言って彼女から離れると、傍にいた哲平も立ち上がった。
「俺も、行きますね。無理しないでゆっくり休んでください。それじゃ……」
「ご迷惑おかけしました」
「いえ」
深々と頭を下げる女性に、哲平が優しく微笑んだ。
「それじゃ、失礼します」
女性に軽く頭を下げて、その場を立ち去った哲平の後を悠介は慌てて追い掛けた。
「哲平!」
呼び掛けると哲平が階段の手前で振り返った。
「ありがとな」
「いや。悠介にお礼言われることじゃねぇし」
突然のハプニングに狼狽えることもなく、素早く機転を利かせた哲平の姿が少し眩しく映った。小さい頃からこういうところがあるやつだった。常に人を良く見ていて、咄嗟の出来事にも対応できる。
「びっくりした。こんなところで哲平に会うと思ってなかったし」
「……ああ。講習会、“GSサウンド”ってうちの店で取り扱ってる補聴器メーカーのなんだ。メーカーさんが案内くれたから、勉強のために出とこうと思って」
専門の販売店も多いが、確かに眼鏡屋でも補聴器を取り扱っている店が多い。
「俺もちょいびっくりした。──けど、悠介ここで働いてたんだったって思い出して」
自分に気付いた哲平がほんの一瞬驚きはしたが、どこか落ち着き払っていたのはそのためか。
「今日の講習会、会場このホテルって聞いてたからさ。ホントはどっかで悠介に会わねーかな、なんて思ってたんだけど」
そう言ってニッと笑った見慣れない眼鏡の奥から覗く哲平の目は、やはり昔と変わらない。
「しっかり勉強できたかよ?」
「まぁな。俺、補聴器苦手なんだけど、立場が立場だしそうも言ってられないし。やるしかねぇもんな」
その少しはにかんだような笑顔が、幼いころの笑顔と重なった。懐かしさが込み上げ、悠介は思わず哲平に手を伸ばし、小さい頃哲平によくしてたようにポンポンと頭を撫でた。
──が、触れてしまってから、しまったと思い、悠介は慌ててその手を引っ込めた。
哲平がそんな自分を見て小さく笑う。
「悪い。もうガキじゃないのにな……」
「や。なんか、懐かしかった。そういえばよく悠介に頭撫でてもらってたよな」
自分の行動の照れくささを誤魔化すように、意味もなく頭を掻く。こんなところで、たった一つしか歳の変わらない自分に頭を撫でられた哲平のほうの羞恥を察する余裕すらない。
「あと頼むわ。俺、もう店戻らなきゃだし」
哲平が先程の女性を気にしながらも、自身の腕時計で時刻を確認しながら言った。
改めて、大人になったと思う。日に焼けた肌、短く借り上げられた髪。背筋を伸ばした凛とした立ち姿に濃いグレーのスーツと空色のシャツがよく馴染み、様になっている。
「ああ」
「また──連絡するな」
白い歯を見せて笑った哲平に、ノーと言えないのは、やはりこの笑顔をまた見たいと思ってしまったから。
頭で考えていることと、行動が全くもってちぐはくだ。
「ああ。またな」
これ以上、近づきたくない、近づかないでくれと思っているのに、偶然にでもこうして度々出会ってしまう偶然の残酷さを心のどこかで呪いながら、同時にほんの少しでも会えた喜びを感じてしまう。
ロビーへと繋がる階段を駆け下りていく哲平の後ろ姿を見送り、悠介は踵を返した。
会場に戻ると、講習会の為に並べられてたテーブルや椅子は後輩たちの手によって既に片付けが進んでいた。
「空井! 外のソファにいた女性知らないか?」
「ああ。なんか体調悪くされてた方ですよね? お手洗いに、って杉田 さんが付き添ってくれてます。さっきより顔色も良さそうでしたよ」
「あ。そうなんだ」
またどこかで倒れたりしたらと思うと気が気じゃなかったが、歩ける程度には回復してきたのかと悠介はほっと胸を撫で下ろす。
会場の外で立っていると、杉田に付き添われた女性がこちらに戻ってくるのが見えた。
空井の言ったように、倒れた直後に比べたら顔色もいくらか良く、歩く足取りもしっかりしているようだった。
「岩瀬さん、ここって──」
「片付いたら飯行っていいからな」
「じゃ、お先です」
そう返事をして宴会場をあとにする後輩たちを見送りながら、杉田の付き添いの元、お手洗いから戻って来た女性に声を掛けた。
「体調、いかがですか?」
「ご心配おかけしました。少し休んだのでもう平気です。本当にお世話になりました」
深々と頭を下げた女性を悠介は慌てて手で制した。
「いえ。こちらは何も……大丈夫でしたら良かったです」
彼女が微笑みながら、ソファの上に置いてあった紙袋に手を伸ばした。
「……そういえば!」
女性が思い出したように、紙袋の中から大きな封筒を取り出した。確か先程の講習会で、参加者に配布されていたものだ。
「さっき、私を運んでくださった男性。資料を忘れて行かれて……」
女性がおずおずと封筒を悠介に差し出した。さっき見送った哲平は確かに封筒を手にしていなかった。このどさくさに紛れ、慌てて帰った際に忘れて行ったのだろう。
「そうでしたか。では、こちらでお預かりします」
「ありがとうございます」
女性が荷物を持って立ち上がった。
「それでは、失礼します。ありがとうございました」
「いえ。こちらこそありがとうございました。お気をつけて」
その場に残っていた杉田と共に、女性をロビーまで見送ってから手にした封筒を見つめた。
「それ、フロントに届けます? 届けるなら私が──」
悠介の手にした封筒を見て杉田が訊ねた。
「いや、これはいいよ。これ忘れてったやつ、俺の知り合いなんだ。あとで連絡入れとく」
ここでフロントに預けてしまえば、そこで話は終わる。もし、必要な資料なら哲平が問い合わせてくるだろうし、そうでなければただの忘れ物として一定期間保管後、破棄されるだけだ。
結局、狡いのだ。
こちらから哲平に連絡する、尤もな理由を逃したくないと思った自分は。
哲平に近づくまいと思いながらも、こうして哲平に近づける小さな理由を必死で拾い集めているのだから──。
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