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第5話 ①

「マジ助かったわ! わざわざありがとな、悠介」  そう言って哲平は悠介が差し出した封筒を受け取った。  つい一昨日の講習会の後、貰った資料を封筒ごと忘れてきたことに哲平が気付いたのは、店に戻ってしばらく経ってからのこと。  失くしたからといって、どうこうという事はないのだが、講習会のレポートをエリア長に提出をしなければならない哲平にとって、あの資料を忘れて来たのは正直かなりの痛手だった。  あの日の午後、悠介から店の方に連絡があり「もし大事な資料なら、俺が預かってるから」と言われ、哲平はほっと胸を撫で下ろしたのだ。 「いや、別にいいよ。これくらい」  悠介のほうから連絡をくれたのは初めてだったし、営業時間終了後とはいえ、悠介が直接店に届けに来てくれたのも正直意外な事だった。  仕事帰りなのか、たまたま休みだったのか、ティーシャツにカーゴパンツというラフな服装。珍しく眼鏡を掛けているのが新鮮だ。一昨日ホテルで見た凛々しい黒服姿とは随分印象が違う。 「ほんと、ありがとな」 「ああ」  そう返事をしながら、悠介が物珍しそうに店内を眺めた。店内に陳列されている眼鏡を手に取り、まじまじと眺める。時折、手に取った眼鏡を掛けたり、ふんふんと鼻を鳴らし楽しげだ。 「初めて入ったな、ここ」 「悠介のマンションから結構近いのにな」 「近くても用がないと来ないしな」 「確かに。でも悠介眼鏡掛けてんじゃん。あっ! せっかくだからクリーニングしてやるよ。結構綺麗になんだぜ?」  そう言って哲平は悠介に近づき、掛けている眼鏡を半ば無理矢理奪い取った。 「おま……強引だなぁ」  文句こそ言われたが、嫌がっているふうではない悠介の態度に心のどこかでほっとする。 「これ。何年くらい使ってんの?」  哲平は悠介の眼鏡を眺めながら訊ねた。 「あー? どうだろ、七、八年?」 「見えてんの? レンズすげー傷ついてっけど」 「いいんだよ。多少見えにくいけど、コンタクト外した時しか掛けねぇし」 「雑だなー」  どちらかというと何事にもきちんとしている印象の悠介だが、関心のないことに関してはとても大雑把なのも昔からだ。 「免許の更新とかいつ? 悠介、誕生日八月だったろ?」 「は? 急になんだよ?」   そう訝し気な顔をした悠介に、哲平は眼鏡のブリッジを押さえながら小さく笑い返した。 「や。そうやって視力測定促すの、眼鏡屋のやり口」  実際、眼鏡を買う気がない客に、とっかかりとして視力検査に促すときによく使う手だ。 「はは。手の内明かしてどうすんだよ」 「別にいいだろ、客じゃないんだから。──あ、でも、気になんなら検査してやろうか? サービスでやってるだけだし」  そう言うと、悠介が少し考えるふうに天井を仰いでから「んじゃ、頼むわ」と頷いた。  正直、面倒くさそうに断られることを想像していた。これまでのやり取りで、悠介は、積極的に自分と関わろうとはしていない気がしていたからだ。  哲平は慌てて、悠介が今使っている眼鏡の度数を確認し、その眼鏡を洗浄機に漬け込んだ。 「悠介、こっち」  哲平が店の奥にある検眼台に案内すると、悠介が大人しくそこに腰掛けた。  入口側の照明をギリギリまで落とし、奥の検眼台付近の電気をつけた。 「つか、いいのかよ。営業時間外にこんなことしてて」 「どうってことないよ。これくらい」  実際店には自分と悠介だけ。フリーランサーの後輩は、店が暇だったこともあり、悠介が来る前には帰らせている。  哲平は検眼機のオートレフ機を動かしながら言った。 「まず、そこ覗いて。遠くに気球見えんだろ? それ見てて」 「分かった。つーか、これ何?」 「これで、あらかたの度数分かるんだ」 「へぇー。ホントに眼鏡屋やってんだな」 「やってんの、これでも」  悠介がさも感心したように言った言葉に苦笑いをする。いつまで経っても、悠介の中で自分はあの頃の子供のままに映っているようだ。 「まぁ、たいして変わってないな」  視力検査の結果、悠介の度数自体は変わりがなかった。 「もし見えにくいっつーなら一段階上げてもいいけど、ラクに使いたいってんならこのままでも問題はないよ」  今の度数のままでも免許の更新には十分な視力が出ているし、問題はない。 「──ただ。レンズ傷だらけだし、ホントは新しいの買った方が、って思うけど」  眼鏡屋としては尤もな意見だが、友人としてはそこまで強要すべきことではないのは哲平ももちろん分かっている。   検眼台の照明を落として、加工台のほうに戻ると、洗浄機に漬けっぱなしだった悠介の眼鏡を取り出して丁寧に拭き上げた。 「ほら。綺麗にしといたから」 「ああ。サンキュ」  悠介が綺麗になった眼鏡を掛け、辺りを見渡した。 「おお! マジ視界変わる」 「気のせいだよ。いくらクリーニングしても傷は消えないから」  哲平が言うと、悠介が小さく笑った。 「分かってるよ。冗談だっつうの」  少し照れくさそうに視線を逸らせた悠介の横顔が、薄暗い店内の陰に溶け、美しく見えた。  悠介の傍にいたいと思う。どんな形ででもいい、これからも関わっていけたら──そんなふうに思うのは思春期の頃から引き摺ったままの友情に上乗せされた甘えか、執着か。  不思議だと思う。  他の事だったら、仕方ないと諦められたことが、悠介に掛かるとそれが出来なくなる。 「──なぁ、悠介」 「んー?」 「俺、寂しかったよ」  そう呟いた瞬間、悠介が静かにこちらを見た。 「悠介が、何でか分かんないけど俺を避けるようになって──」  そんな悠介の目を真っ直ぐに見つめ返す。 「兄貴みたいで大好きだった悠介と、バカみたいにいつでも一緒になんて俺だって思ってたわけじゃないよ。……けど、ずっと続くと思ってた。悠介とは何があっても友達でいれるって」  今の自分たちも、たぶん傍から見れば“友達”というカテゴリに入るのだろう。けれど、自分が望んでいたのはこんな薄っぺらな繋がりではなく、もっと強いものだ。 「取り戻せないのかな」 「……」 「俺、悠介に、何しちまったのかな」  分からない、何も。  悠介が自分から離れた理由も。こうしてできてしまった見えない溝の深さも。 「悠介」  そっと手を伸ばして、悠介の頭に触れた。  あの頃は見上げるだけで届かなかった悠介の頭は、今はほんの少し目線がずれる程度。それだけ成長したということ。多分、身体も心も。 「俺、いつまでも子供じゃないよ。何かしちまったなら謝りたいし──よく分かんないけど、悠介がそうしなきゃならない理由があるなら受け入れられるくらいには大人になったつもりだよ」  悠介を困らせたいわけじゃない。  けれど、少しでもあの頃のように戻りたい。近づけば、その分悠介が離れて行く。一向に縮まらない距離がもどかしくもあるが、無理強いしたいわけでも追い詰めたいわけでもない。  どうしたら、いいのか。  自分がどうしたら、悠介は自分を避けることをしなくなるのか。  嫌いなら、それでもいい。けれど、悠介からそんな感情が少しも伝わってこないことにただ戸惑いが肥大していく。  「だから、別に避けてなんかいないだろ。今日だってこうして会いに──」  そう言った悠介の言葉に敢えてかぶせるように哲平は言葉を続けた。 「それは。そうしなければならない理由ができたからだろ? 悠介優しいから、俺が困ってんじゃないかって必要に迫られて連絡しただけだろ? 俺に会いたかったわけじゃない」  一気に言うと、悠介が哲平の顔を見て傷ついたような顔をした。 「なんで、そんな顔すんだよ? 俺、悠介にそんな顔しかさせらんないのかよ」  悔しさに、唇を噛み締めた。  昔は笑ってくれた。自分のくだらない話を、口では文句を言いながらもいつも楽しそうに聞いてくれた。  いつからか、悠介が本当に楽しそうに笑った顔を見なくなった。 「理由があるなら──」 「ないよ」  悠介が吐き捨てるように言った。 「嘘だ」 「嘘じゃない。もうこの話止めようぜ」  悠介が勝手に話を切り上げた。 「悠介!」  哲平が悠介の手首を掴むと、悠介がこちらを睨みながらその手を振りほどいた。 「もう止めにしようって言ったろ? 帰る」  そう言った悠介が、スタスタと歩いて店の出入り口のドアに手を掛けた。 「……眼鏡と、検査。ありがとな」  そう言って店を出て行った。 「……」  こんな時でさえ、お礼を言う悠介がまたどこまでも悠介らしい。  昔からそうだった。取っ組み合いの喧嘩をしたり、罵り合ったり──それでも別れ際に、必ず怪我の心配をしたり、酷い言葉を投げつけた自分より遥かに傷ついた顔をしたり。 「……なんでだよ」  どうしてこうなってしまうのだろう?  何が悠介をそうさせているのだろう?  考えれば考えるほど分からないことばかりが増えて行く。  いっそ顔を合わせないままのほうが良かったのだろうか。  理由は分からなくても、悠介を何らかの形で傷つけているのだとしたら、こんなふうに関りを持たないままの方が──。  

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