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第6話 ①
数日前に梅雨明けしたばかりの七月上旬。日中の気温は日に日に厚さを増し、たった今帰宅したばかりの部屋にも熱がこもっている。
あの日──店に届け物をした日を最後に哲平には会っていない。あれからずっと、哲平からの連絡もない。
これでよかったのだ、そう思うのに心は重くなるばかり。自分は一体何をしたいのだろうか。
「岩瀬。これ、メールボックスの」
「ああ。サンキュ」
成島が差し出したメールボックスの中身を受け取って、すぐさまエアコンの電源を入れた。
「暑っちぃな、マジで」
久しぶりに仕事が昼過ぎに終わり、休日だった成島と買い物に出掛け、夕食を済ませ帰って来たところだ。基本、土日休みの成島とは休みが合うことはない。──が、こうして週に何度か会えているのは、時間を見つけては部屋に通ってくれている成島のおかげだ。
「成島。眼鏡掛けたまんまだぞ」
普段運転の時にしか眼鏡を掛けない成島が、車を降りた後も眼鏡をしている違和感にそう指摘をすると、成島が「あ」と言ってそれを外した。
「つか、それ新しい?」
「ああ。見えにくくなってたから最近買った、そこの眼鏡屋で」
そう言った成島が、バッグの中から“アイコンシェルジュ”と書かれた小さな紙袋と名刺をテーブルの上に置いた。
その紙袋は間違いなく哲平の店のもの。名刺は哲平本人のもの。
「──へぇ、そうなんだ」
動揺を悟られないよう努めて冷静に相槌を打つと、成島がこちらを意味ありげに見つめた。
「岩瀬の友達、っての。この船口ってやつだろ?」
「……まぁな」
「すぐ分かった。こいつ、おまえの実家の隣の奴だろ? すっかり大人っぽくなってて一瞬分かんなかったけど、面影残ってたな」
成島と哲平には面識がないわけではなかった。直接言葉を交わしたりということはなかったと記憶しているが、高校の頃、成島が悠介の家に遊びに来ていた時に、当時違う高校に通っていた哲平と何度か近所で顔を合わせたことがある。
「前、店に行こうって言ったとき、岩瀬が気乗りしない訳が分かった」
「……」
「気乗りしないはずだよな。意識的に避けて来た幼馴染みと会うなんてこと」
意識的に、というところを強調されたことに、成島がある程度の事を察しているのだと知った。
「あいつなんだろ? おまえがずっと好きだった奴って。あいつの傍にいんのが辛くなって、わざわざ実家出たんだろ?」
誤魔化しても無駄だと思った。
「……ああ、そうだよ」
「素直に認めんだな。そこは」
「誤魔化しても意味がないと思ったからだよ。成島は、そういう誤魔化しが利くようなやつじゃないだろ」
成島はそういうことには敏感だ。
この男が、それだけ自分を見てくれているという事。
「会ったのは、偶然。親父の件で実家帰ってたときに」
悠介は小さく息を吐いて、言葉を続けた。
「家隣なんだし、顔合わせりゃ少しくらい話すだろ? で、たまにあいつから連絡来るようになって、一度だけ飯行って……それだけだよ」
事実、それだけなのだ。
哲平とどうこうなどと考えているわけではないし、哲平の方もそのうち飽きるだろうと思っている。久しぶりに会った幼馴染みに、ちょっとした懐かしさが込み上げているだけであって、少しすればまた自然と距離ができる。あんなふうに突き放した後なら尚更。
「それだけ、にしちゃ随分気になってんだな、あいつのこと」
成島が悠介の心の奥を見透かすように言った。
「結局、忘れてなんかないんだろ? そうやって今も意識的に避けなきゃなんないくらいあいつに想い残してんじゃないのかよ」
成島の言葉に、悠介は言い返す言葉も見つからない。
その通りだ。無理にでも避けて、関りを持たないようにしなければ心揺さぶられてしまうのだ、未だに。
「──だとしても。何も変わらないよ」
何も変わらない。変える気もない。
自分の想いを打ち明けるつもりはない。そうだろう? 打ち明けたところで“普通”の男がそれにどんな反応を返すかなど、あらかた予想は付く。
「……そうだな。おまえのことだから言う気はないんだろうな」
「当たり前だよ」
この想いを口に出せるくらいなら、初めから哲平から逃げるように家を出たりなどしていない。
いつからか、傍にいて哲平の姿を見ているのが辛くなった。
何の曇りもなく、ただ幼馴染みとして自分を慕ってくれている哲平に、いつしか邪な感情を抱くようになった。そんな自分が許せなかった。
どちらかが女だったなら、事は簡単だった。女になりたいなどと思ったことは一度もないが、どちらかがそうだったなら、もしかしたらこの想いが報われたかもしれない──。
考えたって無駄な事だ。自分は男で、哲平も男。それは変えることはできないし、変わることもない。
「俺らも、変わんなくていいんだよな?」
成島がそう訊ねた。
「うん。成島が、俺でもいいって思ってくれんなら」
この言葉に偽りはない。
自分に世間一般の“普通”の恋はできない。今の自分を成島が受け入れてくれるのならば、このままこの男の傍にいたいと思う。
悠介の答えに成島が安堵の表情を浮かべた。
「考えもんだな。変に勘が働く、ってのも」
「ん?」
成島がテーブルの上に置かれた哲平の店の紙袋を手に取り、その中に哲平の名刺を入れて、グシャとまるで雑巾を絞るように握りつぶした。
「あの時のお前の様子が何か引っ掛かって、眼鏡口実に見に行った。どんな奴かって」
「そうだったんだ」
「意外に、嫉妬深いみたいだな、俺」
そう言った成島の手から悠介はすでにゴミと化した紙袋を引き取り、ゴミ箱に放り込んだ。
「つい最近まで忘れてた──おまえに忘れらんない奴がいること。それでもいいって、おまえと付き合ってたのにな」
忘れていたのは、悠介の方も同じことだった。
家を出てから哲平と顔を合わせることはほとんどなかったし、成島といることが自然で何よりも心地よいと感じるようになっていた。
だからこそ、戸惑いも大きかった。ほんの数回偶然にも会う機会があったくらいで、こんなにも簡単に気持ちが揺らぐなど──。
「嫉妬なんて、成島らしくなくて笑えるな」
時折垣間見える、成島の人間臭さ。冷静で感情の動きか読み取りにくいこの男の、こういうところに心揺さぶられる。
「人をロボットか何かだとでも思ってんのか?」
「いや。嬉しいよ、そのレアな感じ」
そう言って、目の前の成島の手のひらで押してソファに押し倒した。ソファに倒れた成島が悠介を見上げ、そっと悠介の手を引いた。
「つか。成島はこんな俺でもいいの?」
悠介が訊ねると、成島がふ、と笑った。
「……いいのか、って何だよそれ」
「昔の事いつまでも引き摺ってるような面倒臭い男、嫌じゃねぇのかなって」
「岩瀬は狡いな」
「え?」
「自分で決めろよ。俺と居んのを俺のせいにすんなってこと」
「……」
確かに狡い、自分は。
成島に許されれば、それを言い訳にしてしまうことをこの男はちゃんと分かっているのだ。
「俺は、成島といたいよ」
目の前のこの男を大切にしたい。
どんなに哲平のことを意識してしまおうと、所詮叶わぬ想いならば捨ててしまうしかない。
いつか、忘れられる。今はまだ無理でも、時が経てばきっと。
「岩瀬」
成島が悠介の手を引き、ソファに横たわったままの成島の上に倒れ込むと、そのまま悠介の身体をギュッと包み込む。
「成島。苦しい」
「苦しいとか、色気ないこと言うなよ。ここは、お互い口に出せん気持ちを伝え合うトコだろ?」
口に出せない気持ち──か。
悠介がすべてを気持ちを成島に打ち明けられずにいるように、成島も自分に言えない気持ちを抱えているということなのだろう。
いくら恋人同士だとはいえ、お互いのすべてを知っているというわけではない。ある程度の秘密はお互いを思うからこその思いやりだ。
「そうだな。そうしようか……」
悠介が成島に唇を寄せると、成島がそれを優しく受け入れる。
確かに言葉ですべてを伝えるのは難しい。だからこそ、この触れ合いで以て伝われ──と思った。決して哲平の代わりなどではなく、成島に対する確かな想いがあるということ。
次第に深く重なり合う唇。加減を変え、角度を変え、何度も何度も。
「随分、情熱的なキスだな」
唇が離れた一瞬の隙に成島が言った。
「伝え合うんだろ? 思いきり気持ち込めてんじゃん」
その一瞬の隙を塞ぐように、どちらからともなく再び吸い寄せられるように唇を重ねる。
「……ん、っ」
お互いの服を剥ぎ取り、愛撫もそこそこに性急に身体を繋げた。
「……きつ、っ」
「そんな……いきなり入ってくるやつあるかよ。ヘタクソか」
成島は普段時間を掛けて悠介をほぐし、逆に悠介が焦れるくらい丁寧に愛撫をする。
「……煽ったの、どっちだよ」
「珍しいな。そんな余裕ないの」
淡泊な顔に似合わず情熱的なセックスをする男ではあるが、こんなふうに余裕を欠いた姿を見るのは初めての事だ。
「余裕、あるわけないだろ」
その原因が分からないほど悠介も鈍くはない。
「バカだな」
「面倒くさい想い拗らせてるおまえに言われたかない」
「……そうだな」
バカなのは確かに自分自身だ。成島に不安な想いをさせ、その不安を埋めてやれもしないのに「バカだな」なんて言葉で誤魔化そうとして。
「ごめんな、バカで……」
そう呟くと同時に、思い浮かんだことがあった。
「あのさ、成島。提案があるんだけど……聞く?」
「こんな切羽詰まったセックスの最中にか?」
不満げな成島の言葉に小さく笑いながらも、悠介は成島の首に腕をまわしたまま「だからだよ」と囁いた。
「まぁ、いい。聞いてやる」
成島が息を吐き、悠介の身体に体重を預けた。
「成島、ここに越してこないか?」
悠介の言葉に驚いた成島が再び身体を起こす。
「前からちょっと考えてはいたんだ。俺、仕事の時間不規則だからおまえがこっち通ってくれんの今じゃ当たり前みたいになってるけど。……よくよく考えたらそれって結構な負担じゃねぇかな、って」
悠介が言うと、成島が少し考えるように言葉を発した。
「──いや、負担に思ったことはないけどさ」
「けど?」
「驚いた。岩瀬は……一緒に住むとか考えるタイプじゃないと思ってた」
「何で」
成島の言葉に、今度は悠介が驚いた。実際、すぐに──と考えていたわけではないが、いつかはと考えていた。悠介なりに成島とのことを真剣に考えているつもりだったのだが、成島は違っていたのだろうか。
「おまえ、基本いろいろ自由にさせてくれるけど、一定のパーソナルスペースは踏み込ませない奴かと」
「……はは、何言ってんだよ。確かに、そういうとこあるけど、成島は別だよ」
成島は、ズカズカと人の心に土足で踏み込んでくるような男ではない。
「──で、どうなんだよ」
そう訊ねると、成島が「考えとく」と言って悠介の額に唇を押し付けた。
普段より時間をかけてセックスをして、一緒にシャワーを浴び、ベッドに入った。
男二人で眠るには窮屈なセミダブルのベッド。悠介より少し早くベッドに入った成島は、もうすでに小さな寝息を立てている。
「……もう少し喜んでくれるかと思ったんだけどな」
小さく呟いて、隣で眠る成島の髪に触れた。
何か誤解させてしまったのだろうか。哲平の事を忘れるために、成島を利用しようとしたわけじゃない。
ただ、成島を不安にさせないために、自分にできること、してやれることの精一杯の提案だったはずなのに。
「見透かされてんのかな、結局……」
成島は気づいているのかもしれない。成島のために、と一緒に住むのを提案した事に嘘はない。けれど、そこにほんの少しでも“逃げ”はなかったか?
結局、傷つけただけだったのだろうか。大事にしたいのに、悠介にはそのやり方が分からない。
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