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第6話 ②

 仕事を終えて自宅マンションに戻ったのは午後十一時近過ぎ。  通常夜の宴会は遅くとも午後七時には始まり、九時頃にはお開きを迎えるのだが、今夜は入っていた披露宴が長引き、翌日の会場のスタンバイも済ませなければならなかったため、普段よりだいぶ遅い帰宅となった。 「疲れた……」  そう呟きながらも風呂場に向かい湯を張るのは、一度座ってしまうと動き出せなくなってしまいそうだからだ。湯張りボタンを押し、リビングに戻るとテーブルの上に置いたままのスマホが音もなく震えているのに気づき、相手も確かめずに電話に出た。こんな時間に電話を掛けてくる人物などおおよそ見当がつく。 「もしもし?」 『あー、岩瀬くん? 俺だけど、分かる?』 「……あ、れ? マスター?」  悠介が電話の向こうの意外な声に驚いたのは、てっきり成島からの電話だと思っていたからだ。 『そうそう!』 「……え、どうしたんですか?」 『急なんだけどさ。岩瀬くん、来週の金曜の夜って空いてたりしない?』 「どうかしたんですか?」 『金曜の夜、イベント入ってんだけどさ。バイトの島くんと鈴木くんがどうしても抜けらんない用があるとかで、人が足んなくて……岩瀬くんもし空いてたらって思ってさ』  電話の相手は悠介たちが行きつけのカジュアルバー“COLORS”のマスター。以前、悠介たちが客として飲んでいた時、急な団体客の対応に追われていたマスターを同業のよしみで手助けしたことがきっかけで、たまに手伝いを頼まれるようになった。もちろん、どうしてもという緊急の場合のことがほとんどだ。 「金曜ですか……休みなんで大丈夫だと思いますけど」 『本当に⁉』  その声の弾み具合から相当あてに困っていたのだろうことが分かる。 「いいですよ」  どのみち来週は週末まで成島が出張で不在だ。どうせ一人で過ごすのなら、空いた時間に馴染みの店の手伝いをすることくらいわけはない。 『バイト代はずむからね!』 「はは。期待してます」 『じゃあ、金曜の六時くらいには入れるかな?』 「分かりました」  悠介はそう返事をして電話を切った。  約束の金曜日、悠介は時間通り“COLORS”に向かった。  駅からほど近い小さな雑居ビルの二階にその店はある。重厚感のある木製のドアを開けると、すぐのところにバーカウンター。そのフロアから数段下がったところに、テーブルやソファ席が何席かある最大五十人ほどのキャパのこじんまりとした店だ。  すでに今夜のイベント参加者らしき客にマスターがカクテルを振舞っている。 「こんばんは」 「あー! 岩瀬くん、本当にありがとね」 「いえ。どうせ暇を持て余してましたから」 「今日、成島くんは?」 「今週いっぱい名古屋で」 「そうなんだ」  マスターは悠介と成島の関係を知っている。というのもこの“COLORS”は表向きは普通のカジュアルバーだが、裏の面も併せ持っている。いわゆる、マスターもゲイで、この店はその手の連中には少しばかり有名な店だった。  時折行われる「イベント」というのも、いわゆるその手の連中に出会いの場を提供するという趣旨のもの。 ただでさえ狭い同性愛者(ゲイ)の人脈。同種の人間に出会えるというだけでも、このイベントに参加する価値はある。  実際、ネットやSNSなどの普及で“出会い”という点だけで見れば一昔前よりは同種の人間に出会える確率は高くなった。けれども、それが信頼できる出会いとは限らないのも現実。ネットで一夜限りの出会いを求めた結果、相手に暴行されたり犯罪に巻き込まれたなどという被害も少なくはない。  そういった意味では、ある程度「顔」の見える出会いの場を提供できる“COLORS”でのイベントには安心感がある。  悠介自身もここで成島と再会を果たし、現在(いま)に至るという経緯がある。 「俺、着替えてきますね」 「制服、裏に用意してあるから」 「ありがとうございます」  悠介はマスターにそう答え、従業員用の休憩室に入った。  着替えを終えて店に戻ると、カウンターに客が増えていた。下のフロアにも、続々と人が集まってきている。 「今夜は参加者多そうですね」 「まぁ、金曜の夜だからね」  イベントと言っても、特に毎回テーマが決まっているわけでもなく、気の合いそうな者同士で集まって飲むというだけなのだが、毎回参加者は多い。それだけ、そういう人種に需要があるということだろう。普段と違うのは、あらかじめ予約された参加者のみの貸し切りとなっている点で、一般客に気遣う必要がないことだ。  「岩瀬くん、ちょっと!」  悠介がフロアにいる参加者にドリンクを振舞って戻って来るや否や、カウンターの中でシェイカーを振っているマスターに声を掛けられた。 「はい」 「いま、入口のとこで深谷くんと話してる男、知ってる?」  そう言われてマスターの目線を追うように入口付近に視線をやると、そこに立つ見知った顔の男の姿に驚いた。 「なんかね……岩瀬くんいるか、って。どうやらイベント参加者じゃないらしいんだけど、岩瀬くんがこの店に入るとこ見たとかで。知り合いじゃないなら、深谷くんに追い返させるけど」 「いや、大丈夫です。知り合いです……ちょっと話してきていいですか?」 「もちろん」  悠介はマスターに小さく頭を下げ、入口へ向かい、深谷に目配せをして大きく溜め息をつきながらその男の前に立った。 「あ、悠介」 「つか。何やってんだよ、哲平」 「いや。さっき駅前で悠介見かけて……追い掛けたらこの店入んの見えて」  どうやら休日だったらしく、哲平はいつものスーツ姿ではなくラフな私服姿だった。 「店の前、見なかったのかよ? 「貸し切り」って書いてあったはずだけど?」 「……や、分かってんだけど」  哲平に会うのは、一カ月半ぶり。そんな事が一瞬で分かってしまうほど、哲平と最後に会った夜の事を覚えている。  カウンター付近で談笑しているイベント参加者が、何事かとこちらに視線を向けているのに気づいた。野次馬的な興味から、というのもあるが、それだけではないというのを悠介は敏感に感じ取った。  哲平にそういった視線を向ける参加者がいるのに気づいたのも、自分が彼らと同種だからだ。 「いいから。出るぞ」  悠介は哲平の腕を掴んで慌てて店の外に出た。 「──ったく。見かけたからって追いかけて来るとか」  そう悠介が言うと、哲平が申し訳なさそうな顔をした。少し項垂れたような姿勢のせいで、目線がほぼ同じ高さになる。 「悪かったよ。……この間店で変な感じで別れたろ? 俺が悪かったんなら謝っとかないとって思って」 「別に何でもないって。それより、早く帰れよ。俺もすぐ店戻んなきゃだし」  そう答えると、哲平が不思議そうな顔をした。 「悠介こそ、ここで何してんだよ? 入口のとこでイベントがどうとかって……悠介も参加してんのか?」 「──いや、俺は手伝い。ここのバーのマスターと知り合いで、今夜人手が足んないっていうからヘルプに」 「この店、よく来んの?」 「ああ。たまにな」  表向きはお洒落なカジュアルバーだ。時折タウン誌なんかに掲載されることもあり、若者にも人気がある。  「つぅか。哲平は来んなよ? 特に一人では。おまえみたいな奴、危ないから」  悠介の言葉に哲平が心底驚いた顔をした。 「は? 危ないって? すげぇ、良さげなバーだったけど?」  哲平の言葉は尤もだ。若者に人気の店であるという点では確かにいいバーだが、危険というのは、その種の男たちも普段からこの店を出入りしていることだ。  哲平のように警戒心が少なくて人当たりも良く、見た目も好青年といった感じの男は、その種の男たちにとってもやはり魅力的に映る。先程カウンターの男たちがそういった目で哲平を見ていたように、一人でいれば同種と勘違いされることもありえなくはない。 「とにかく一人では来るな」 「分かったよ。けど、変に距離作んなよ。そういうの、寂しいだろ」 「……」  寂しいという哲平の言葉に、深い意味はない。  昔一緒に遊んでいた近所の兄替わりの自分にちょっとした懐かしさが湧きあがっているだけの事だ。すぐに飽きる。ほんの数カ月もすれば、きっと。 「似合うな。悠介そういう恰好も」 「は」 「ホテルの制服も恰好良かったけど、こっちもいい」  哲平の言葉に、悠介は自分が着ている黒のウィングカラーシャツにワイン色のロングエプロンをまじまじと見つめた。 「つか、悠介は何着てもカッコいいんだよなー」  カッコいいなどという、哲平からの思いがけない褒め言葉に思わず頬が緩みそうになる。 「何言ってんだよ、おまえ」 「カッコいいよ、悠介は」  目を細めて微笑んだ哲平に性懲りもなく胸がざわつく。  こういうのが辛いのだ。好きな相手の言葉に心の中で一喜一憂して──。けれど、それが何の意味も持たないことを知るのが。   ずっと好きだった。  はっきりとその感情を自覚したのはもう少し成長したあとだが、たぶん子供の頃からずっとだ。その笑顔も、悪気のない真っ直ぐな性格も。  そう言えたなら、俺たちはどうなっていたのだろう。何度も何度も考えた。  けれどそれが妄想に過ぎないことは自分自身が一番よく分かっている。哲平はあくまでも“普通”の男であって、今ではそれに釣り合う彼女もいて。普通の男が辿るであろう、ごく真っ当な道を歩いている。  言ったところで何かが好転するなどと思っていない。むしろ悪いほうに転がるだけだ。  思い通りにならないことばかり。どうしてこんな性癖(ふう)にしか生まれて来られなかったのだろう。  「そーいえばさ」  哲平が何かを思い出したように言った。 「悠介が高校のときよく一緒にいた奴って、今でも付き合いある?」 「……え」 「この間、そいつらしい奴が店に来て」  哲平の言葉に、すぐに成島の事を思い出した。 「どっかで見たことあんなーって思ってたんだけど、さすがにすぐには分かんなくって、あとから気が付いてさ。何だっけ、えーと……なる……」 「成島、な」 「あ! そうそう、そいつ。仲いいのか?」 「──まぁな。今でもよく会ってるよ」  嘘はついていないが、さすがに恋人だとは言えなかった。  望みなど微塵もないと分かっていても、哲平に嫌悪されることだけは避けたいなどというこの期に及んだ護身。結局、成島に不誠実な自分が嫌になる。 「印象、変わったよなー」 「ん?」 「その成島ってやつ。高校の時は、もっと神経質な感じでさー、喋った事ないのに何か敵意みたいなの感じたんだけど。すっげー感じよくなってて」 「……そうか?」  そう答えつつも、昔に比べると成島の印象が変わったことには悠介も同感だった。誰も寄せ付けないような冷めた印象だった男が、クールな印象はそのままに、どこか懐の温かな男に変わっていた。 「眼鏡、何かあったらいつでも店来てって伝えといてくれよ」 「はは。……なんだ、営業かよ?」 「アフターフォローってやつ」 「さすが店長」 「茶化すなよ」  気づけばまた自然に話せるようになっていた。何かあっても、こうして少し話せば何事もなかったかのように元通りに話せるようになるのが、幼い頃から培った哲平との特別な距離感。 「俺、もう行くわ。バイト中、邪魔して悪かったな」 「……ああ、それは大丈夫」 「また、たまには飯でも行こうぜ」 「ああ。そうだな」  哲平がこうして会いに来てくれた事、また飯でもと誘ってくれることが、どうしようもなく嬉しいと感じてしまうことに再び成島への罪悪感が湧き上がる。  けれど、どうにもならないことにいちいち心揺さぶられるのにはもうほとほと疲れた。 「哲平」  呼び掛けると、哲平が振り返った。 「気を付けて帰れよ」 「おう!」  そう返事をした嬉しそうな哲平の笑顔を目に焼き付けて、悠介は再び“COLORS”のドアを開けた。  

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