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第6話 ③

 それからしばらくして哲平から連絡があったのは、七月も下旬に差し掛かったある蒸し暑い夜の事だった。  ちょうど仕事を終えたばかりで、職場の駐輪場で自転車に跨ったまま電話に出る。 「もしもし?」 『おー、珍しく掴まった。悠介、仕事もう終わった?』 「ああ。いま帰るとこ」 『飯は?』 「まだだよ」 『なら──どっかで飲むか、飯食わねぇ?』  そう言われて「まぁ、いいけど」と了承の返事をしたのは、変に避けてもまた不自然に思われるだけだと思ったからだ。  成島は今夜も出張で不在。罪悪感を感じつつも、食事くらいならと敢えて深く考えないようにした。 『マジで? じゃあ、この間のバーか、前行った定食屋どっちがいい?』 「“とみた”」   即答したのは、“COLORS”にはなるべく哲平を近づけたくなかったからだ。 『んじゃ、店で待ち合わせでいいか? 俺、八時には着けるけど』 「おー。俺も今から向かうから同じくらいには」 『そんじゃ、あとでな』 「ああ」  そう返事をすると哲平の電話はあっさりと切れた。  切れたばかりのスマホの画面を見ると、成島からの着信履歴が一件。さすがに仕事は終わった頃合いだろうと、掛け直してみるもタイミングが悪かったのか繋がらない。  ここのところ、成島は忙しそうにしている。一泊、二泊程度の短い出張も頻繁にあり、悠介が言い出した同棲の話も結局うやむやになったままだ。 「……哲平と飯食ってる場合じゃないのにな」  成島に特別変わった様子があるわけではないが、自分と一緒に住むということをどういうふうに捉えているのかはやはり気になる。 「重かったか……」  成島がこの先自分とどういうふうになりたいと考えていたのか、具体的に訊ねたことはなかった。  ごく普通の男女のカップルが自然とそうなるように──とはいかないのはもちろん分かっている。異性同士の恋愛でもそのへんは難しいのだ。男同士では尚更だ。  悠介自身も、うやむやにしていたことをいつかはっきりさせなければいけない時がやってくる。  あと数年もすれば、両親は自分に問うだろう。適齢期に差し掛かり、恋人の一人も紹介したことのない悠介に「いい女性(ひと)はいないのか?」「結婚はしないのか?」と。  本当に厳しい思いをするのは、きっとこれからだ。    約束の時間に少し遅れて店に着くと、すでに哲平が店にいた。  入口付近で店内を見渡していると「悠介、こっち」と立ち上がった哲平が嬉しそうに手招きをした。 「ごめん、遅れた」 「いいよ。俺も、さっき来たとこ」  答えた哲平のジョッキがすでに空に近いのは、気を使っているのか、単に一気飲みをしたからなのか。 「ビール以外、何か頼んだ?」 「や、これだけ。悠介も飲むだろ?」  そう言うと哲平が傍を通りかかった店員を呼び止めた。 「生と……俺、天麩羅定食。悠介は?」 「じゃあ、俺は日替わり貰おうかな」  店員が注文をさっと伝票に書き留めて、去って行った。 「俺、悠介に教えて貰ってから、ここたまに来てんだ」 「へぇ?」 「会社帰りに寄るの、ちょうど良くて。一度彼女とも来たけど、彼女も美味しいって言ってた」 「そうなんだ」  彼女──か。そんな些細な言葉に胸がチクと痛むのは、何とも今更な感情。 「彼女、いくつ?」  そう訊ねたのにはさほど意味はない。哲平の彼女がいくつだろうと、どんな子だろうと、それを聞いたところで何が変わるわけでもない。ただ会話を続けるためだ。 「俺の三つ下」 「二十三か、若いな」 「悠介の彼女は?」 「同い年」  正確には成島は“彼女”ではないが。そんなこともまた哲平には関係のない事。 「へぇー? 意外。年上かと思った」 「何で?」 「や。なんとなく」  たわいのない会話を交わし、酒を飲み、飯を食べる。職場に人間ともよくしている事。なのに些細なことに胸の奥が小さく波立つ。 「あの駅の近くのバーも、この間行ったよ。何かめっちゃいろんな客に話しかけられたけど」  店でのことを楽し気に話す哲平の顔を見て、悠介は思わず脱力した。 「……おまえ、一人で行ったんだろ?」 「そうだけど。ちょっと飲みたい気分でさ、もしかしたら悠介いるかなーとか思って」 「俺、一人では行くなっつったよな?」 「何でだよ。店にいた人みんな気さくな感じでいい人だったぜ?」  いい人──それは、そうだろう。あの店に一人で入って来た男は常にそういう男たちのターゲットになる。会話を弾ませ、心を解きほぐして、口説き落とそうとしているのだから当然のことだ。 「アホ。あの店の客たちがおまえに感じいいのは当たり前だよ」  悠介の言葉に、哲平が怪訝な顔をした。 「意味わかんね」 「あの店、表向き普通のバーに見えるけど、裏ではゲイの溜まり場んなってるから」 「は?」  どちらかといえば察しの悪い哲平が、さすがに眉を動かした。 「あそこ、オーナーもソッチの人だし。おまえ、単に狙われてただけだよ。無事帰れて良かったな」 「──はぁあ⁉」  どうやらいろいろと把握したような哲平が目を丸くして、口をぽかんと開けている。当然だ、自分が同性にそういう目で見られ、口説かれ掛けていたという事実はショックに違いない。 「一人で行くなっつったのは、そういう店だからだよ。女でも連れてれば一般客と思われるし、男同士でも相手がいれば声を掛けられることはないしな」  哲平が目の前のビールを一気に飲み干し、大きく溜め息をついた。 「言えよ、そういうのは先に!」 「言ったろ」 「詳細を、って意味だよ」  そう言った哲平が「マジかー」と呟きながら両手で顔を覆っている。  嫌悪なのか、羞恥なのか。どちらかは分からないが、まぁごく真っ当な反応だと思う。結局、そうなのだ。同性同士の恋愛に対する、一般人の反応など大概がこんなもの。 「いや。びっくりした……偏見とかないつもりだけど、こんな身近なとこにそういうのあるって思わなかったし」  身近なところに、あるんだよ。いるんだよ。  そう喉から出かかった言葉はやはり声にはならなかった。  いま目の前にいる幼馴染みが、まさに「そう」なのだとは哲平は夢にも思わないのだろう。 「マジか……。つか、みんな距離近けぇなーとは思ったんだよ」  いまだ信じられないという顔で放心している哲平の、感じたままの素直な反応を彼らしいと思った。  偏見がない、というのは本当なのだろう。哲平は、誰かを差別したりすることを嫌う真っ直ぐな男だ。誰とでも分け隔てなく接する姿をずっと小さなころから悠介はこの目で見て来ている。 「でも、悠介らしいな。そういう誰とでも分け隔てねぇの」  それは、哲平の純粋なそれとは少し意味合いが違う。なぜなら、自分自身が分け隔てられる側にいるからだ。 「悠介、時間何時ごろまでいいんだ?」 「ん?」 「彼女さん、遅くなるのあんまりいい顔しないって前……」 「ああ」  そんな些細な言葉を覚えていたのか。 「今夜は少し遅くても平気。彼女、出張中だから」  そう悠介が答えると、哲平がそうか、と嬉しそうに頷いた。 「悠介、結構飲むんだな」  すでに何杯目か分からなくなったジョッキを空けると、目の前の哲平が感心したように目を見張った。  実際、酒は強いほうではない──が、こうして目の前に哲平がいると逸る胸を誤魔化すように普段よりピッチが速くなる。好きな男を目の前に、平静を保ち切れるほど自分は大人でないということだ。 「俺はあんま強くなくてさ」  そう言った哲平のジョッキは三杯目の中程から、さほど進んでいない。  本当に、あまり強くはないのだろう。顔はすでにほんのり赤みを帯びているという状況をとうに通り越している。 「顔にすぐ出んの。首とかも、赤くなるし格好悪りぃ……」  そう言って頬杖をついた表情も、眼鏡の奥の目も精悍さを欠いている。 「別に普通だろ、顔赤くなんのなんて」 「悠介、顔色変わんねーじゃん」 「そんなの体質だろ。俺だって強かない」  そう答えつつも、次第に目元がしょぼつくのは、自分も相当酒が回ってきている証拠だ。 「そろそろ帰るか。哲平明日仕事だろ?」  結局二時間ほどたわいのない話をしながら飲み、現在午後十時半。タイミングとしてはいい頃合いだ。 「そうだな。悠介もあんま遅くなんないほうがいいもんな」  そう言ってテーブルの上の伝票を取り、先に立ちがった哲平を追うように立ち上がると、一瞬頭がグラ、と揺れた。 「悠介、大丈夫か?」 「ああ……平気。ちょい躓いただけ」  と平静を装うも、立ち上がっただけで視界が揺らぐのに堪らず目を閉じた。 「なんだ、悠介、顔に出ないだけか」 「言ったろ、強くないって。顔に出ねぇのも困りもんなんだぜ? 平気に見られて止めどなく飲まされたり……」  最近でこそなくなったが、ホテルの飲食部門というのは意外にも上下の規律が厳しく、若い頃は上司に無理矢理飲まされた苦い経験もある。それで鍛えられた部分も多分にあるが、そういう試練を上手くかわす術も身に付けた。 「ほら、こっち」  わざわざ向かいの席からこちらにやって来て自分の後ろに回った哲平が、悠介の腕を支えた。そのまま哲平が手際よく会計を済ませ、今度は腕を引かれるように店を出た。  ふらふらとした足取りのまま、財布から金を取り出すと、哲平に「今日はいい」と制された。 「また今度飯行ったときは悠介に奢ってもらうし」  、という言葉に金を財布に戻した自分に、小さく息を吐く。成島に悪いと思いつつも、またという言葉の誘惑にまんまと乗せられてしまう弱い自分に嫌気がさす。  「そこまで送る」  という哲平の言葉に悠介は素直に従った。思いの外足元がおぼつかないのを自覚しているからというのもあるが、断ったところで哲平が引くとは思えなかったからだ。  歩き出してすぐ、哲平が悠介の腕を支えた。シャツ越しに伝わる哲平の手の温度。掴まれた腕がじわりじわりと熱を持つ。 「おまえ、平気なの」  そう訊ねると、哲平がクシャと笑った。 「顔には出てんだろうけど、ヤバくなんない手前でセーブしてっから」 「何それ、生意気」  何か話していないと、哲平の手の温もりを妙に意識してしまいそうだった。 「そりゃそうだよ。俺、こっからまだ電車乗って帰んだぜ? 潰れてらんねぇもん」 「そっか。そうだったな」  はは、と笑った瞬間足がもつれ、哲平が慌てて悠介の身体を支えた。先程より、さらに縮まる身体の距離。ドクドクと心臓が無駄にその存在を主張するのは、アルコールのせいだけではない。 「相当足に来てんじゃん」 「ちょっと飲みすぎたかなぁ……」 「支えにくい。肩貸せ、悠介」  そう言った哲平が腕を引いて悠介の肩を担いだ。 「あと少しだからな。ちゃんと歩けよ?」 「……ああ」  久しぶりだった。哲平をこんなにも近くに感じたのは。胸の中に閉まったはずの想いが疼く。  こうして触れられて分かる。  好きで好きで好きで、触れたくて触れたくて触れたくて──そんな願望と理性の狭間で感情がのたうち回っている。  この感情を少しでも漏らしたら、終わる。  報われなくていい。だからせめて、哲平の中の自分だけは汚れずにいたい──。 「ここだったよな? 部屋どこ? ついでだし部屋の前まで送る」 「いや、平気だって」 「何言ってんだよ。そんな足ふらついてんのに」 「……」  ここで押し問答を繰り返して無駄な時間を過ごすことを思えば、素直に言うことを聞いてしまったほうがマシな気がした。 「そだな。ここまで来させてんだし、一緒か」 「だよ」  哲平に肩を担がれたまま、エレベーターに乗り込んだ。三階のボタンを押し、エレベーターが到着して扉が開くのとほぼ同時に、そこから見える自室の前に佇む人影を捉えた。  こちらの気配に気づいたその人影が、悠介の顔を見、その横で肩を担ぐ哲平を凝視してその表情を凍らせた。  「……成、島」  悠介の口から漏れた言葉に反応した哲平がその方向に視線を移す。 「──あ」  成島に気付いた哲平が、ペコリと頭を下げるのと同時に、表情を変えずこちらにやってきた成島が、無言で悠介の反対側の肩を担いだ。 「先日はどうも。……覚えてますか、アイコンシェルジュの船口、」 「ああ。どうも」  哲平が最後まで言い終わらないうちに、成島が悠介の身体を半ば強引に哲平から引き剥がした。 「何してんの、おまえ」  成島のその言葉は哲平ではなく自分に向けられたもの。声にこそ抑揚はないが、その声色にそこはかとない怒りが滲んでいる。 「……ちょっと飲み過ぎて、足元ふらついてたから送ってくれただけだって」  何を言っても成島の耳には言い訳のようにしか聞こえないのだろうか。成島はピクリと眉を動かしただけで、その目は静かな怒りを含んだまま自分を見つめている。 「ここは、“ありがとう”と彼に礼を言うべきか? それともおまえを責めていいのか?」 「成島」 「さすがに無神経じゃないのか?」  成島の言葉に、 「ちょ、……何すか?」  一人状況が掴めない哲平だけが、悠介と成島を交互に見つめ、立ち尽くしている。  成島は構わず言葉を続けた。 「俺は、ここで懐のでかい男のフリをすればいいのか? 無理しておまえの“友達”演じなきゃなんないのか⁉」 「ちょ、……どうしたんすか?」  険悪な空気を感じ取った哲平が訳も分からず間に入ろうとするのを 「あんたは黙ってろよ」  成島が冷静な言葉で一喝した。さすがの哲平もその成島の迫力に圧されて押し黙った。 「……成島、帰り明日じゃなかったのかよ」 「帰ってきちゃ不都合だったか? この男とこのあとどうするつもりだった?」  成島の怒りは尤もだ。  自分の恋人が、他の男と部屋に帰ってきたところを目の前で見ているのだ。これがただの男友達ならいい。成島は哲平が悠介にとって特別な存在であることを知っている。 「落ち着けよ、成島。どうもしないよ。するわけない、ただ飯行っただけ……」 「飯……ね。たかが飯だよな。けど、相手が悪いだろ」  成島の言うとおりだ。 「俺が気にしないとでも思ったか? 自分の恋人が──」  成島が一瞬言葉を言い淀んだが、悠介の目を真っ直ぐに見つめ、敢えて哲平に聞こえるよう言った。 「岩瀬おまえが、この男に会うことを気にしないとでも……?」  成島の言葉を聞いた哲平の訝しげな視線が、自分に突き刺さるのを肌で感じた。  「……え」  哲平が何かを察し、その思考を整理するかのように視線を彷徨わせた。 「それって、どういう……」  確信はあるが、敢えて確かめるように哲平が悠介と成島を交互に見つめながら訊ねた。悠介が何か答えるより前に 「どういうって、そういう意味だよ」  成島が答えた。 「──悠介の恋人、って」  いつか、こんな日がやって来ることをずっと恐れていた。  哲平に自分の正体がバレること。それを何よりもずっと恐れていた。 「悠介、何か言えよ」 「……」  もう、終わりだ。成島の手前、これ以上誤魔化すことはできない。 「──ああ、そうだよ。哲平」  急速に頭の芯が冷えて、酔いが覚めて行く。 「俺の恋人は、この成島」  そう言葉にしてしまってからは、簡単だった。自分でも驚くほど滑らかに言葉が口をついて出た。 「俺は、ゲイで。男の成島と付き合ってる。彼女がいるかって聞かれて、適当にそれらしいこと言ったのはおまえに妙なショック与えないためだよ。……気持ち悪いか? それともガッカリした? おまえの大好きな“悠介兄ちゃん”がこんなんで」  言葉だけは嘘みたいに次から次へ出て来るのに、どうしても哲平の顔を見ることができない。  哲平はいまどんな顔をしているだろう。  何よりも恐れていた事。それは、哲平が事実を知って、自分をどう思うかということだ。 「恋人と一緒に住んでるって言ったのは、嘘。おまえにいろいろバレたくなかったから、適当なこと言って遠ざけた。そう言っとけば、頻繁に誘われたりすることないかもって思ったのに、哲平空気読めねぇんだもん、まいったわ……」  話す声が震える。哲平にバレて、何もかもお終いだという絶望感に声が震える。 「つーわけだから。もう、おまえとは会わない。これきりだ」  哲平は何も答えなかった。  あまりのショックに言葉が出ないのか、嫌悪感でもう自分とは話したくもないのか。  もう自棄だった。ここまで話せば、あとは何を話しても一緒だと思った。  いっそ初めからこうして何もかも吐き出してしまえば、顔も見たくないと嫌悪されたほうがラクだったのかもしれない。 「行こう、成島」  そう言って、結局、顔を見ることが出来ないまま成島の肩を借り、哲平に背を向けた。いまだその場から動くことができず立ち尽くしている哲平に、最後に一言声を掛けた。 「哲平も、そんなとこ突っ立てないで早く帰れよ。電車なくなるぞ」  やはり、哲平の返事はなかった。──が、その代わりに足音が聞こえ、ホールにエレベーターの扉が閉まる音が響く。  その瞬間、堪えていた涙が静かに頬を伝った。その涙に成島が気づいてなければいいと思いながら、悠介は成島にそっとその身体を預けたまま部屋のドアに手を掛けた。

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