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第7話 ③
仕事を終えた哲平は悠介の職場まで向かった。
マンションを避けたのは、帰宅時間が不規則な悠介の在宅を確認することが困難だったことと、もし部屋にいたとして居留守を使われたら結局会うことはできないと思ったからだ。
ホテルのエントランスを抜け、フロントで悠介のことを訊ね、その返事を待つ。
「生憎、岩瀬は本日は風邪でお休みを頂いております」
「風邪?」
「ええ。宴会部の人間に確認しましたところ、そのように……」
「ありがとうございました。お手数お掛けしました」
そう告げて哲平は慌ててホテルを後にした。
「風邪ならさすがに部屋にいるよな」
玄関前で停まっていたタクシーに飛び乗り、悠介のマンションへと向かった。
一瞬、成島の存在が頭を過ったが、いたらいたで構わない。伝えることだけは伝えておきたいと思った。
悠介の部屋の前まで来ると、哲平はハァと小さく息を吐き出してから、ドアホンを押した。
しばらくの無音のあと
《……はい》
と悠介の声。モニターが付いていないドアホンで良かった。モニターが付いていたら自分の顔を見た悠介は、きっと居留守を使うことだろう。
「悠介、俺。……哲平だけど」
《──何しに来た? これきりだって言ったはずだけど》
ドアホン越しの悠介の声は低く冷たい。
「そっちは、そうでも俺は──」
ブツ、と音がして中の音が途切れる。
「ちょ、悠介……」
再びドアホンを鳴らし、それがガチャリと切られるというのを何度か繰り返した後、根負けした悠介が静かに玄関のドアを開けた。
「──大概にしろよ。近所迷惑だろうが」
「うん。分かってんだけど……」
迷惑そうに俺を睨んだ悠介の目が少し緩んだのをいいことに、俺は強引に悠介の部屋に入り込んだ。
「風邪……ひいてんだって?」
熱があるのだろうか、悠介の目元が赤く、表情がどこかやつれている。
「何でそれ」
「さっき、職場まで行ったんだよ。……そしたら休んでるって聞いてこっちに。悠介、電話も出ねぇし、メッセージもシカトするし、いつ部屋にいるかも分かんねぇし、どうにかして会うためにはそうするしかなかったんだよ」
そう言ってから、ふと思い出したように哲平は手に提げていたビニール袋を悠介に差し出した。
「何だよ?」
「一応、薬とか、その他諸々……」
万が一、何も無くて悠介が困っていたら、と思いここに来る途中で買って来たものだ。
「俺、まだ熱あんだよ。用は何だ? さっさと帰って欲しいんだけど」
「ああ。ごめん。体調悪いとこ押し掛けたのは謝る──けど、これきりってどういう事だよ?」
そう訊ねると、悠介が大きく息を吐いた。
「これきりは、これきりだよ。言葉通りの意味だ」
そう言った瞬間、悠介の身体がふらりと揺れ、哲平が慌ててその身体を支えようと手を伸ばすと、悠介がその手を払いのけた。
「触んな」
「けど、そんな身体じゃ」
「おまえが帰ってくれさえすれば、すぐにでもベッドに戻るよ」
払いのけられたときにほんの一瞬触れた手はかなり熱かった。身体がふらつくくらいなのだから、余程熱も高いのだろう。
「──分かった。話はまた今度でもいい。取り敢えず寝てもらう」
哲平はそういうと、強引に悠介の両腕を掴み「……ちょっ、離せ…っ」と抵抗する悠介を半ば引き摺るように強引に部屋に上がり込んだ。思った通り、触れた悠介の身体が熱い。
「ちゃんと水分取ってんのか? 飯は?」
「離せよ」
「こんなときに無駄な体力使うな。寝室どこ?」
訊かずとも、一人暮らしのマンションの間取りなど知れている。リビングを抜けた奥の部屋に目星をつけ、悠介を引っ張って行くとそこにあったベッドに悠介を座らせた。
「強引なことして悪い。……けど、身体しんどいときに強がんなよ」
そう言ってベッドの傍らにしゃがみ込んで、悠介を見上げると、悠介がようやく諦めたように身体の力を抜いた。
「飯は? 少しは食えた?」
そう訊ねると悠介が黙った。言葉の代わりに悠介の腹がキュル、と小さな音を立てる。身体のほうは本人より余程正直らしい。
「まだか」
「──寝てたんだよ、今まで」
「取り敢えず手軽に……と思ってさ。レトルトで悪りぃけど、お粥買って来たから少し食うか?」
今度も哲平は悠介の返事を待たずに立ち上がった。
「心配しなくても、それだけしたら帰るから」
こうでもしなければ会うことは叶わぬと、強引に押し掛けてみたものの、さすがに目に見えて具合の悪そうな悠介に「話」どころではない。大事な話だからこそ、こんな時ではだめなのだ。
哲平は部屋から出ると、キッチンへ向かってその辺にあった器にレトルトのお粥を入れて電子レンジに突っ込んだ。
お粥が温まるのを待つ間、何気なくキッチンを眺める。
キッチン周りはそれなりに整頓されていて、自炊などもするのだろう、ある程度の調味料がカウンターの上に揃っている。食器棚には男物の二人分の茶碗セット。あの成島という男が恋人だというのは、きっと本当なのだろうな、と思うのと同時に小さく痛む胸。この胸の痛みはいまだ消えない独占欲か。
カウンター式のキッチンからリビングが見渡せて、そのリビングにはシンプルなソファとローテーブル、テレビ台くらいで余分なものはない。実家にいた頃の悠介の部屋も余分なものはなくこんな感じだったな、と懐かしい気持ちになった。
「悠介、とりあえず食って薬飲め」
温めたお粥をベッド脇に置くと、悠介が黙ったままそれに手を伸ばした。
「熱いから。お盆そのまま持ってけよ」
「……」
悠介が言われた通り盆ごとそれを自分の膝の上に乗せ、軽く手を合わせてからレンゲで粥を混ぜる。
少しずつ粥を口に運ぶ悠介の姿を眺めながら、このまま「これきり」悠介との関係が途絶えてしまうのはやはり嫌だと思った。
「なぁ、悠介」
そう呼び掛けると悠介がこちらを見た。
「これきり、なんて言うなよ。俺、昔から悠介の事大好きだったんだ。俺にとってはさ──最高にカッコイイ兄貴みたいなもんで」
そう言葉を続けようとするのを「哲平」と悠介が遮った。
「……ん?」
「気持ちはありがたいけど。おまえのそういうの、俺にはキツイんだよ」
そう言った悠介が真っ直ぐこちらを見た。
「おまえ何も分かってないんだよ。俺って人間が、どんな人間か。俺はお前が思ってるようないい兄貴なんかじゃない……」
悠介が置いたレンゲが、器の中でコトと小さな音を立てた。
悠介がこちらを見ながらゆらりとベッドから立ち上がり、哲平の肩に手を乗せた。
「──何? あ、薬飲まないとだよな。俺持って来……」
そう言って立ち上がろうとした哲平の肩を悠介が押さえ付け、バランスを崩した哲平は背中から床に転がり背中を打ち付けた。
「……っ痛ってぇ」
起き上がろうとしたところを、上から悠介に押さえつけられた。自分に馬乗になった悠介にさらに両腕を床に押し付けられ身動きが取れない。
「悠、介……?」
悠介を見上げると、自分を見つめるその表情はどこか苦し気だ。
「キツイっつったろ?」
「何が」
「そうやって、勝手に俺を買い被ってんのも。何の曇りもない真っ直ぐな目で俺を見て来るおまえの視線も。ノコノコ会いに来てんじゃねぇ……」
そう言って悠介の身体が前に傾き、その顔が近づく。今にも泣き出しそうなその苦し気な表情のまま、悠介の顔がさらに近づき、互いの息が掛かるほどの距離になる。
「分かってないようだからちゃんと教えてやる。俺は男を好きになんだよ……それがどういう事か理解しろ」
悠介が言い終えたと同時に、悠介の唇が自分の唇に触れた。
「……!」
反射的に哲平は顔を背け、力任せに悠介を突き飛ばすと慌てて起き上がった。
「何してん……」
余裕のない自分に対し、悠介はむくりと起き上がるとゆっくりとした動作で再びベッドに腰を下ろした。
「理解したかよ?」
「は?」
「気持ち悪いって思ったろ? 俺は、おまえに対してそういうことできるような、したいと思うような人間なんだよ」
悠介がそっと自分の口の端を指でなぞった。
自分から仕掛けておいて、酷く傷ついた顔をしている悠介にすぐに掛ける言葉が見つからず哲平は口をつぐんだ。
「できるとか、したい、ってのは……俺だから?」
そう訊ねたのは、自分が悠介だったならと立場を置き替えて考えてあることに気付いたからだ。
自分と悠介には恋愛対象が違うという大きな相違点こそあれど、哲平が女性全てにそういった感情を持つかと言えば答えはノーだ。女性は女性でも、それが誰でもいいというわけではないように、悠介もまたそうなのではという考えが過った。
悠介は哲平の言葉を否定もしなければ肯定もしなかった。
「──だから、俺から離れたのか?」
ずっと引っ掛かっていた。悠介の秘密を知った今なら、その気持ちのすべてを理解することは不可能でも、抱える感情に寄り添う事ができる。
「……なぁ、悠介。答えてよ」
「……」
「俺に、知られたくなかった?」
「……」
「俺、やっぱ悠介に何か無神経な事してたのか? ごめんな、知らなかったとはいえさ」
優しい悠介のことだ。言わなかっただけで、自分が何か気に障るようなことをしてしまっていたのかもしれない。
「……がう」
悠介が消え入りそうな声で答えた。
「え?」
「おまえが悪いんじゃない……俺の」
そこまで口にしておいて、悠介の言葉尻にはやはり迷いが見えた。
「悠介」
そう声を掛けると悠介が一瞬顔を上げて哲平を見つめたかと思うと、再び目を伏せた。俯いた悠介の長い睫毛が揺れるのを見て、何ともいえない感情が湧き上がる。
大して体格差があるわけでもないのに、目の前にいる悠介はとても小さく儚げに映った。 年上の、まるで兄貴のように慕ってきた幼馴染みの悠介なのに──その悠介を守ってやりたいだとか、そんな不思議な感情が。
「悠介……」
そっと腕を伸ばして、悠介の肩に触れた。一瞬ビクと動いたその肩先は異常なほど力が入っていて、哲平はその堅さを解すようにそっと肩を撫でる。
「……そうやって気安く触れんな……」
「嫌なら払いのけていい」
払いのけられたら、また触れる。まるで悠介が臆病な猫のように見えた。傷つくことを怖がって、自分に触れないよう、近づかないよう近づく者を威嚇して遠ざけようとしている捨て猫のような。
「俺がどんな人間か──」
「大袈裟。ゲイだから何だっての。悠介は悠介だろ?」
そう言った瞬間、こちらを真っ直ぐ見つめた悠介の目にうっすらと涙が溢れた。
「──哲平は、何も分かってないんだよ」
「だから、何がだよ」
「……俺がっ、どんな目でおまえを見てたか! 弟みたいに思ってたおまえに、どんな感情持ってたか! 知りもしないで、そんな事……!!」
悠介の目に溜まっていた涙が、静かに零れる。
「……好きだったんだよ。今でも好きなんだよ……! だから、離れた。少しでもおまえと距離ができれば、こんな感情忘れてしまえるって──」
衝撃的であるはずの悠介の言葉を、不思議とどこか冷静に受け止めている自分がいた。悠介が自分を避けていたのは、自分を嫌いになったのではないという事実にどこかほっとしていたのだ。
「それ、本当?」
悠介が自分を──。
今まで想像したこともなかった。考えが及びもしなかった。
「ああ……そうだよ」
「いつから?」
「ずっと前」
悠介が自分を避け始めたあの頃がその始まりなのだとしたら、悠に十年は越えている。
「小学生のころから一緒にいる弟同然のおまえに、そういう感情持つ自分が嫌で──。それ悟られないように表面上は普通に“兄貴”してても、それが段々苦痛になってって」
悠介の言葉に、愕然とした。
好きだと言われたことより、あの頃の悠介がそんなことを考えていたという事実に大きなショックを受けている自分がいる。
「こんなこと一生言うつもりなかったんだよ……おまえと会わなくなって、忘れられてると思ってた。けど、会っちまったらおまえ何にも変わってなくて。あの頃みたいに、人懐っこいのそのままに、真っ直ぐで眩しくって……」
悠介がそこで大きく息を吐いた。
「結局、終わってねぇの。──けど、おまえは普通の男だし、それが現実だって分かってるし。だから、もうおしまいってこと」
そう言った悠介がベッドから立ち上がり、部屋のドアを開けた。
その行動が無言で哲平を外に促しているのが分かる。
「お終い……って。もう会えねぇって事?」
「そうだよ。言ったろ? まだ俺の中では終われてないんだよ。そんな相手とこれまで通りってほどメンタル強くないんだよ」
「……ちょっ、悠介!」
悠介の言い分を理解できないほど自分は子供でもない。けれど、そこで素直に納得して引き下がることができるほど大人でもない。
悠介に反論するために何を言ったらいいのか、何を言うべきなのか分からなかった。
「そういうことなんで。そろそろ引き取ってくれよ」
悠介が静かな言葉で、もう一度哲平を部屋の外に促した。
「……俺、何したら良かったんだ?」
悠介のために、自分がしてやれたことは一体なんだったのだろう。
ここで嫌だと駄々をこねれば、ひょっとしたら優しい悠介は折れてくれるのかもしれない。けれど、それは今も自分を好きだという今後も悠介を苦しめることになる。
「俺、どうすりゃ……」
そう問いかけると、
「もう、会わない。それが、俺の望み」
悠介がこちらを真っ直ぐに見つめ、ただ静かに微笑んだ。
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