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第8話 ①

「とりあえず、着るもん、ここ置いたから」  悠介は手にした簡単な着替えを洗濯機の上に置きながら、風呂場の扉越しに哲平に声を掛けた。リビングに戻り軽い傷の手当てができる救急セットをチェストの引き出しから取り出した。   あんなところで哲平に助けられるとは──。  驚いたのはもちろんだが、自分のために身体を張ってくれた勇敢な哲平の姿に胸が一杯になったのも事実で。哲平に自分がゲイであることを知られて以降、頑なに哲平を避けてきたはずなのに、気づけば部屋に連れ帰って来ていた。  ソファの上には、哲平が脱いだスーツ。あれだけの乱闘のあと、そのスーツは土埃にまみれところどころ擦り切れ、酷く破れている箇所もある。脱衣所に脱いであったシャツに関しては、あちこちに血が付着していた。  遠慮する哲平を無理矢理部屋に連れて来て、風呂場に押し込んだのはせめてもの詫び。あんな恰好のまま、家に帰すわけにはいかないと思ったからだ。 「本当、どうしようもないバカ……」  酷い態度で傷つけてきたのはこちらのほうなのに、こんな自分を身を挺して守ろうとするなどと──。  そういう正義感の強いところがまた、哲平らしいと言えば哲平らしい。 「悠介。風呂サンキュ」  振り返ると、いつの間にか風呂から上がった哲平が上半身裸のままバスタオルを首に掛けリビングに立っていた。 「ああ。スーツ、持ち帰れるよう一応紙袋入れといたけど……」 「はは。もう着られそうにはないけどな」 「──ごめんな。巻き込んで」 「謝るなよ。当然だろ? 俺が悠介助けたいって思うの。悠介だって逆の立場なら──」 「ああ……うん」  逆の立場なら、やはり哲平と同じように何としてでも守ろうと自然に体が動いただろう。 「とりあえず、そこ座れよ。傷手当するし」  悠介の言葉に、哲平が素直にソファに座った。湯上りの上気した肌。あの頃よりずっと大人びて男らしくなった上体に思わず目を奪われる。その視線に気づいたのか、哲平がはっとこちらを見た。 「あ。ごめん。……こういうカッコもマズイんだっけ?」  遠慮がちに訊ねたのは、たぶん自分を気遣ってのこと。哲平は哲平なりに、自分を理解しようとしてくれているのだろう。 「いや。一応怪我の程度見たいからそのままでいい。一番酷いのは──ここか」  そう答えて、悠介は救急セットを手に取りソファの傍らにしゃがみこむと、切れて赤く腫れた哲平の口元に消毒液を滲みこませたコットンをあてた。 「痛っ……」  消毒液の刺激に哲平が大袈裟に顔をしかめる。 「沁みるか?」 「かなり」 「口元かなり腫れてんな。あと、頬も。こんなんじゃ、仕事になんないだろ?」 「俺は平気だよ。マスクとかで隠せるし。そういう悠介のほうこそマズイだろ? ホテルマンがそんな顔腫らしてたら」  お互いの顔を見合わせ、小さく笑った。顔の怪我に関してはどちらも似たような傷の程度。数日は腫れるだろうが、この程度で済んだのが幸いだ。 「眼鏡も、だいぶ曲がってんな」 「そうだな。けど、曲がったくらいならすぐ直るしな。眼鏡屋だから腐るほど眼鏡持ってるから困んねぇし」  そう言って哲平が眼鏡を外し、損傷の状態を確かめるように見てから再びそれを掛け直した。 「身体は? 痛むか?」 「ああ。正直、あちこち痛い」  見た目には分からないが、あちこち蹴る殴るされていた哲平の身体が痛まないわけはない。  血の滲む目元と口元の傷に絆創膏を貼ってやると、哲平がこちらに向かって手を出した。 「あ?」 「交代」 「──俺は」 「いいから、座れって」  そう言うと哲平はポンとソファを叩き悠介を隣に座るよう促した。悠介がそれに大人しく従うと、さっき自分がしたようにコットンに消毒液を滲みこませ、同じように悠介の傷口にあてた。 「──っ」  悠介が顔をしかめると、哲平がそんな悠介を見て楽しそうに笑った。 「はは。痛いだろ? けっこう沁みんのな。最近、こんな怪我したことねぇから忘れてたけど」 「だな」 「綺麗な顔台無しだな」  そう言った哲平の指先が、ふいに止まった。哲平の触れている手が熱いのは、たぶん湯上りだから。けれど、見つめられたその目があまりに真っ直ぐ過ぎて、その熱を変に勘違いしそうになる。 「……おまえ、そういうの彼女とかにも言ってんの?」 「え?」 「綺麗、とか」 「え、……あ、いや」  訊いてしまってから少しへこんだ。哲平のことだから、思ったことを素直に相手に伝えているだろう。そんな哲平から真っ直ぐに愛情を受けている彼女に、この期に及んで嫉妬するとか本当どうかしている。  それもこれも哲平が悪いのだ。あんなふうに身体を張って自分を守ったり、自分を好きだという男を目の前にこんな表情を見せる哲平が──。 「いいな。おまえらしい」  そう言って笑った顔は引き攣っていなかっただろうか。  自然に笑えていただろうか。  会えば会うほど、顔を見れば見るほど好きだと自覚する。この行き場のない想いは、一体いつ昇華されるのだろう。   「気を付けて帰れよ」 「ああ。大丈夫」 「そんな顔して、また変なのに絡まれないようにな」 「絡まれたのは俺じゃなくて悠介だろ」  傷の手当てを終えるとすぐに帰ると言った哲平に、悠介は鞄を差し出した。あっさり帰してやればいいのに、無駄に言葉を繋いで、少しでも哲平がここにいてくれる時間を引き延ばそうとしている自分の浅ましさに自分でもほとほと呆れている。 「はは。そうだった」  突き放しても突き放しても、こうして真っ直ぐ自分と向き合おうとしてくれる哲平に、心のどこかで期待してしまう。  哲平なら──偏見などないと言ってくれた哲平なら、自分を受け入れてくれるかもしれないなどと、一瞬でも考えてしまう何とも浅はかな自分。 「顔の怪我は大したことなさそうだけど、もし身体どこか変だったら連絡しろよ? 俺が巻き込んだんだし、治療費くらいは──」  そう言うと、哲平が玄関先で靴を履きながら振り返った。悠介の貸したポロシャツにカーゴパンツという出で立ち。自分と哲平では、哲平の方が少し背が高い程度でサイズ感もさほど変わらない為、不自然ではなかったが、スーツに合わせていた哲平自身の皮靴だけが少し浮いていた。 「なら」  哲平が悠介を真っ直ぐ見つめた。 「ん?」 「俺に何かしてくれるんだったら、また会ってくれるだけでいい」 「……え?」 「別に今日のこと恩に着せたりするつもりないけど、やっぱ俺悠介とこのまま──なんての俺は嫌だよ」  哲平が少し困ったように小さく笑った。こういう時の顔は本当に子供のころのままだ。 「我儘なの分かってんだけどさ。俺、悠介が“そう”だからって嫌いになれねぇし、やっぱこんなふうに顔見て話したり飯食ったりしたいって……どうしても思っちゃうんだよ」  本当我儘だ。昔のまま。自分がこうしたいと思うことははっきりとそう伝えて来る。  我儘だったとしてもそれを嫌だと思わないのは、やはり自分が哲平に甘いからなのだと思う。  ゲイであることを知られて、気持ちまで露呈して。それでもまた自分と会いたいという哲平をこれ以上どう拒絶できるというのだろうか。 「──じゃあ、哲平も少しは覚悟しろよ」 「え?」 「おまえのこと好きだって言ってる“ゲイの男”と会う、って意味を」  そう言うと哲平が一瞬戸惑いの表情を見せた──が、すぐに何事もなかったかのように普段通りに戻ったあたりは大人になったということか。 「俺は言ったからな。俺がおまえにどういう感情持ってるかってことも、おまえといてどんなこと考えてるかってことも全部。うっかり俺に何かされても、文句は言うな。全部おまえの不注意ってことだから」  自分でも無茶苦茶なことを言っている自覚はある。  けれど、悠介の気持ちを知ったうえで、会いたいと言ってくる哲平が悪いのだ、と自分自身の浅ましさの中に言い訳を作った。 「──分かったよ」  戸惑いながらも覚悟を決めたように頷いた哲平に呆れながらも、心のどこかで嬉しさが湧き上がる。  本当に、バカだ。そこまで言われて、哲平はどうして自分に会いたいなどと言うのだろう。  

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