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第8話 ②
目まぐるしい日々の忙しさに月日の感覚を狂わされる繁忙期を過ぎ、ようやく仕事も落ち着きを見せた八月下旬。うだるような暑さは続いているが、全盛期を越えたとはいえ騒がしい蝉の声はやはり耳障りだ。
久しぶりに成島から連絡があったのは、二日前のこと。
マンションの前で哲平と鉢合わせしたあの日から、成島は悠介のもとに来ることはなくなった。
長い間、ほぼ成島の名前で埋め尽くされていた携帯の着信履歴は、いつの間にか職場の同僚の名前で埋まり、そこに時折哲平の名前が混じるようになった。
しばらく距離を置きたい、と言ったのは成島の方だった。
実際、成島にそうさせるようなことをしてしまったのは悠介自身だし、それを受け入れた。お互いこの先どうしたいのか、どうするべきなのか、考えるために自分たちに必要な時間だったのだと思う。
久しぶりに仕事を早く終えた午後七時。
悠介は部屋で成島の帰りを待った。外で会うことも考えたが、さすがに人目もある。じっくりお互いの気持ちを話し合うには悠介の部屋が最適だと、成島自身が望んだことだ。
成島は会わない間に何を考え、どんな答えを出したのだろう。
約束の時間に少し遅れるという連絡の後、成島が部屋にやって来たのは午後八時。
「久しぶり」
そう言ってぎこちない笑顔を見せた成島は、しばらく見ない間に少し痩せたか……という印象を受けた。
「何だ。髪切ったのか?」
「──え、ああ。うん」
少し伸びて来ていた髪を切ったのは一週間ほど前のこと。成島はこうした些細な変化さえ見逃したりしない。そんな成島が、哲平に再会してからの自分をすぐ傍で見ていることが、どれほどの事だったか想像するだけで胸が痛む。
この察しのいい男が気づいていないわけがないのだ。悠介の中で抑え込んでも抑えきれなかった気持ちに。
いつまでも宙ぶらりんのままではいられない。
その曖昧さは結局お互いを傷つける。
「そんなとこ立ってないで座れよ」
悠介が促すと、成島がスーツのジャケットを脱ぎ、ソファに座った。今までなら、こんなふうにわざわざ促さなくとも成島はごく自然にそこに座っていた。
成島がこの部屋を訪れなくなって一カ月。置いてあるインテリアも家電も、一カ月前と何一つ変わっていないのに、二人の間に流れる空気だけがどこか冷たい違和感を生む。
「どうしてた?」
悠介が訊ねると、成島が「いつも通りだよ」と悠介から少し視線を逸らせたまま曖昧に微笑んだ。いつも通り、自分のペースを崩すことなく仕事をこなし、淡々と生活をする成島の姿を思い浮かべる。
「岩瀬は?」
「こっちもだよ。夏休みは忙しいから、一カ月バタバタしながら過ぎてった」
答えながらキッチンで冷たいお茶をグラスに注いで、それを成島の目の前に置くと、成島がやっとこちらを見た。その瞬間、驚いたように目を見張る。
「……どうしたんだ、その顔」
「大した事ない。またちょっと……な」
パッと見にはほぼ分からない程度に治ってきているあの夜の傷だが、やはり成島には分かってしまう。そっとこちらに伸びた成島の手が、口元の痕に触れた。
懐かしい体温。その温かさに、胸が締め付けられる。
成島と会わないでいる間、考えた。
これまでの事、これからの事。成島とのありとあらゆることを。
高校の頃知り合って、社会に出てから偶然再会して付き合うようになって──。成島というこの目の前の男がどんな男であるか、知るたびに惹かれて好きになったはずなのに。
そうして積み上げて来た想いを、一瞬で崩してしまう哲平の存在に驚愕し、これ以上近づくまいと必死に遠ざけるも、それが何の意味もないことを知って愕然とした。
どんなに成島を好きでも、大切にしたいという気持ちがあったとしても、悠介は哲平により惹かれてしまう。まるで人が重力に抗えないように、悠介の心はその強力な引力に引き寄せられてしまうというのを、哲平に再会してから思い知った。
「成島。──俺たちさ」
言いかけた悠介の言葉を、成島がすっとソファから立ち上がり遮った。
「岩瀬。冷静になれよ」
「……」
「おまえが何言おうとしてんのかくらい察しは付く。──けどな、よく考えろ」
そう言って成島は悠介を見下ろした。
「考えたさ。どうすりゃいいのか、何度も」
「おまえは間違った選択をしようとしている」
成島は洞察力に優れている。付き合いも長い分、悠介の考えが手に取るように分かるのだろう。
「間違っててもいいんだよ! 間違ってても‼ ……どうしようもないんだ。このまま成島の優しさに甘え続けても、俺は結局おまえを傷つける事しかできない」
そう言った悠介の声が、音のない部屋にやけに大きく響いて聞こえた。
自分を好きだと言ってくれる成島ならば、この先一緒にいても自分を大事にしてくれるだろう。
けれど、心は違う男に捉われたまま。何年経っても褪せないこの想いは、いつの日か成島の心をズタズタに引き裂いてしまうかもしれない。
怖いのだ。これ以上成島を傷つけることが。自分に心がない相手を思い続ける辛さは、悠介自身が一番よく分かっている。
「それでもいいんだって、俺が言ってもか?」
「……」
「あの男を想い続けて何になる? あの男がいつかおまえを受け入れてくれるとでも?」
「そんなこと、思ってない!」
悠介だって分かっている。拒絶されなかったからといって、決して受け入れられたわけではない。哲平とどうこうなどと、この先万が一にもあり得はしないことくらい。
「──けど、消せないんだよ」
ずっと忘れようとしていた。報われないと分かっている想いを抱えて生きる事から逃げようとしていた。
成島に惹かれたその気持ちは決して嘘ではない。今でも大切に思っている。だからこそ、これ以上傷つけるような真似だけは──。
「岩瀬」
成島が真っ直ぐこちらを見据える。
「おまえにとって俺は一体何だった? そんなふうに簡単に手放せる程度の存在だったか?」
「──違っ」
「よく考えろよ。あいつといても結局苦しいだけだろう? 俺といても、そりゃあ辛いことはあるかもしれない。……けど、少なくともおまえの気持ちを汲んでやれんのは俺の方だ」
「──分かってるよっ」
自分でも分かっている。成島の言葉はいちいち真っ当だ。
どちらに転んでも男同士、世間から眉を顰められる関係であることには変わりはない。この先、これまでと同じように成島と関係を続けて行っても、きっと何度も越えなければいけない壁が立ちはだかる。きっと、成島ならどうにかしてそれを乗り越えようとしてくれるだろう。
そんな成島に、いつまでも哲平への想いを引き摺った自分は相応しいとは思えない。
「それでも、俺はこれ以上おまえを縛れない……縛りたくないんだ」
成島ほどの男なら、他にいくらでも相手がいる。
成島に相応しい相手が大勢いるのだとしたなら、その先にある成島の幸せを奪っている自分が許せないのだ。
「少し、急ぎ過ぎたな」
成島がぽつりと言った。
「このままでいいとは思ってない。けど、焦って答え出すこともない」
「──な」
「何故、って?」
成島が悠介の目の前に立ち、こちらに腕を伸ばし、悠介の胸を指で突く。
「理屈じゃないんだよ。おまえのココに忘れられない奴がいるように」
そう言った成島の指が、今度は成島自身の胸を差した。
「俺の、ココにも岩瀬がいるからな」
真っ直ぐな成島の言葉に目頭が熱くなる。
分かり過ぎるほど分かる。心に棲みついて離れない絶対的なその存在に対する痛みは──。
「成島。それでも俺は、おまえとこのままじゃいられない──」
そう言った瞬間の成島の表情に胸が痛んだ。
想いというものは、どうしてこんなにもままならないのだろう。
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