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第8話 ④
それからまるで今までの抑圧を一気に解き放ったかのように、時間が空けば哲平と約束を取り付けて会うことを続けている。
何度か食事に行ったり、飲みに行ったりを繰り返す中、今まで哲平が悠介の誘いを断ったことはない。仕事の都合で遅くなるとか、そういった変則的なことはあったが、恋人との約束が重なったということもない。
目の前で自分の仕事の話や、友人の話、たわいもない世間話をしながら屈託なく笑う哲平を見ているとまるで哲平が自分のものになったような錯覚を起こしそうになるほどだ。
「おまえさ、最近俺ばっかといて彼女怒ったりしないの?」
さすがにいろいろと心配になり、目の前の鉄板で焼けているもんじゃヘラでつつきながら訊ねると、哲平がほろ酔いで赤くなった頬を緩ませる。──が、こんな顔をその恋人にも見せているのだろうかと思うと相変わらず胸は痛む。
「怒ったりしないよ。向こうは向こうで女友達と忙しいみたいだし」
「おまえら、ちゃんと会ってんの?」
「会ってるよ。先週だって会ってるし、ちゃんと大事に……」
そう答えた哲平の声に僅かな不機嫌さが混じっているのが少し気に掛かった。
普段より酒の量が少しばかり多いのか、赤くなった目元を瞬かせ哲平がさらにビールを煽る。
「大事に、してんだ?」
「そりゃ、そうだよ」
「結婚とかも考えてんのか?」
悠介が訊ねると、哲平がまるで思ってもみなかったような驚いた顔をした。
「何驚いてんだよ。少しは考えたりしないのか?」
二十六という年齢に、結婚はまだ現実的なものではないのか。
晩婚化が進む昨今、男にとってはそういうものなのかもしれないが、相手の女性は少なからず意識しているのではないか。
「考えたことなかったな……向こうも俺よりずっと若いし」
「ずっとって、たかが三つ下だろ? 女の子の方は考えるもんじゃないの?」
「……」
「彼女からそういうアピールとかないのかよ?」
「──いや。小夏、そういうのあんまり」
自然と哲平の口から漏れた彼女の名前に自分が鋭く反応してしまったことを誤魔化すように、鉄板の上のもんじゃをヘラでこねる。哲平には恋人がいるのだと頭では分かっていてもやはり胸は痛む。
いっそ、哲平がさっさとその恋人と結婚でもして完全に手の届かない存在になってしまえばいいのにと、焦げ目を無理矢理口に入れ、滲んだ涙をその熱さのせいにした。
「……実は俺さ」
「ん?」
「恋愛って、あんまよく分かんないんだ」
「は?」
「あ。いや、分かんないっつうか。小夏もそうなんだけど、向こうから付き合ってって言われたり、お互いなんとなく……とかで付き合い始めてってのがほとんどで。自分からこう、相手を好きで好きで……って恋愛したことないんだよな」
「は? 何それ。モテてるアピールか?」
悠介が少し嫌味を込めて言うと、哲平がバツの悪そうな顔をした。
「そういうんじゃないけど……今まで付き合った子も小夏も、好きって気持ちはもちろんあるんだけど、俗にいう燃えるような……とかさ、焦がれて焦がれてみたいな思いしたことなくて。これが“好き”って感情でいいのかな、とか時々考えたりするんだよ」
そう呟くように言った哲平が、何かを思い出したかのようにハッと顔を上げて悠介を見た。「──あ、悪い。悠介にこんな話」
本当、その通りだ。その哲平に長年想いを寄せている自分に対して、こんな話をしてくるなどと。
言葉に嘘はないのだろうが、その正直過ぎるところが哲平の無自覚な残酷さだ。
「ごめん。ほんと」
「いや。気にするなって」
そんな話を聞かされて、その恋人との間にわずかでも付け入る隙があるのかもしれないなどと、一瞬でも考える自分の浅ましさに打ちのめされる。
こうして哲平の傍にいられることを望んでいたはずだった。
傍にいても、その心はやはり悠介の元にはない。離れていようが、傍にいようが、結局報われない想いに苦しむことになるのは変わらないのだ。
「彼女、どんな子?」
「え?」
「写真くらいあるんだろー? 見せろよ」
いっそ、もっと打ちのめされたほうがラクなのか。見たくもない哲平の彼女の写真を見たいと言って、二人の間に自分の入る余地などないことを思い知ればいいのか。
「いいけど」
そう答えた哲平がスーツのポケットからスマホを取り出して、気恥ずかしそうにそれをこちらに差し出した。アルバムに収められた数々の写真の中から、お気に入りの写真を選んだのだろう。哲平に向けられたであろう彼女の笑顔は、とても魅力的だった。
哲平に恋をしている。その表情が彼女の想いを物語っている。
「可愛い子だな」
「──うん」
羨ましくて仕方がなかった。
女に生まれたという最大の武器を手に、哲平の恋愛対象となれている彼女が。
女になりたいなどと、思ったことは一度もない。ただ、男しか、哲平しか好きになれない自分。
「哲平、眠そう」
「──ああ、そう?」
「うん。目が」
「最近、忙しかったからかな」
「帰るか」
そう言った瞬間、哲平がこちらを見、眉を下げ小さく笑った。
「ん。そだな……帰るか今日は」
そんな残念そうな顔をするな──、そんな顔されたら期待してしまう。
ただ幼馴染みとして、哲平が自分と一緒にいたいのだと分かっていても。
普通の友達同士ならば、哲平が気持ちを知る前だったならば「泊まってくか?」なんて軽く聞けたのかもしれない。
冗談めかしてだとしても、そんなふうに訊けないのは、この期に及んでそれを言われた哲平が戸惑った顔をするのを想像するのが怖いからだ。
食事をしたり、飲みに行ったり。ごくごく普通の同性の友人同士のような付き合いをするようになって早ひと月。吹く風はいつの間にか冷たさを含むようになり、乾いた空気は秋の訪れを実感する。
「なんか、悪いな」
マンションの近所にある居酒屋で軽く飲んだあと、足元のおぼつかない哲平を部屋に入れた。
「いーけど。すでに出来上がってんだから酒は出さないぞ。酔いが落ち着くまで置いてやるだけだからな」
「うん。分かってる」
仕事で煮詰まることがあるらしく、居酒屋で飲んでいる間も話を聞いてやっていた。よほど参っているのかなかなか腰を上げたがらない哲平を宥めて帰そうとしたのだが、一人で帰るのが心もとない酔い方をしている哲平が心配で仕方なく部屋に連れて来た。
ソファに身体を預ける哲平の前に水を差し出したのだが、一向に受け取られる気配がないのでそれを目の前のテーブルに置いた。
「……やっぱ、悠介はいいな」
「んー?」
「昔っから遠慮なく甘えられるっつーかさ」
「何それ」
「俺、実際は“兄貴”だけどさ、悠介の前じゃ“弟”してれるっていうか」
愛想もよく人懐っこいのは昔からだが、誰にでも甘えるようなやつじゃないのは知っている。哲平の言葉に深い意味があるわけじゃないが、遠慮なく甘えられるなどと言われれば当然悪い気はしない。
──が、都合のいいときだけ弟ぶるとか無自覚なのが、質が悪い。
「何が、弟だよ」
小さな拳を作って哲平の頭を小突くと、哲平が「痛てぇ」と顔をしかめた。
「それよか、頭ワシャワシャってしてくれよ。悠介にそれされんの、好きだった」
「アホ。ガキじゃあるまいし」
「何で、いいじゃん」
「するかよ」
子供の頃ならまだしも、こんな大きな哲平相手にそんなこと。
そもそも哲平は分かっているのだろうか。自分を好きだと言っている男と部屋に二人きりだということ。
「なぁ、悠介」
「ん?」
「俺──」
何かを言いかけた哲平が、口をつぐんだ。
「やっぱ、いいや」
「は? 何だよ。気になるだろ」
「ごめん。何でもない」
ここ最近頻繁に会うようになって、哲平がふいに何かを言いかけては口をつぐむという事が度々ある。
何を言おうとしているのか、何を言葉にすることを迷っているのか。
「……眠くなってきたし、俺やっぱ帰ろうかな」
そう言って身体を起こし、テーブルのグラスに手を伸ばした哲平の手を遮るように咄嗟に自分の手を重ねた。
「眠いなら、ここで寝てけば? おまえ、明日休みって言ってたよな」
哲平がこちらを見たまま固まった。酔っているなりに悠介の発した言葉の意味を考えあぐねてるのか。こんな少し間抜けな顔さえ、好きだと思う。
「あ、ビビってんの? 俺に食われんじゃないかって」
「……いや、そういうんじゃ」
「俺言ったもんな? 何されてもおまえのせいだから、って」
「それは──覚えてる」
分かっている。哲平が自分と友人以上の付き合いを望んでいないことくらい。
「哲平は、何で俺と会いたいの? 可愛い彼女もいて、他に友達だっている。飯行くのも、飲みに行くのも俺でなくてもいいだろ」
哲平の大事なものはたくさんある。その大事なものの中に仮に自分がいるのだとしても、そのひとつが欠けたくらい何だというのだろう。
「……分かんないんだよ」
「は?」
「昔からずっと、悠介のことは何か気に掛かってて、自分の中でもういいやってどうしてもできなくて……。この間悠介に好きだって言われたときもそりゃ驚いたけど普通に嬉しかったし、嫌いになるなんてできないし。自分でもよく分かんねぇの……」
哲平が、同性愛に偏見があるようなやつだったなら事はもっと簡単に済んだのかもしれない。気味悪がられて、避けられて、多分それで終わり。二度と会うこともないだろう。
「じゃあ、分かんないなりに真剣に考えてみろよ」
「え?」
これは賭けだ。
「俺さ、やっぱりおまえのこと好きなんだよ。……だから中途半端は耐えられない」
悠介は、ここ最近の付き合いで思ったことを正直に口にした。
「俺は哲平と友達ごっこしたいわけじゃなくて、できるなら好きになってもらって恋人になりたい。おまえは、友達として会ってるからラクでいいんだろうけど、俺はそうじゃない。おまえが目の前で彼女の話したら胸が痛むし、嫉妬もする。アホ話で笑うのもいいけど、おまえが今日みたいに落ち込んでたら優しく甘やかして慰めてやりたい。けど、それはやっぱり友達としてじゃないんだ。俺は男だけど、男に欲情するからおまえに触りたいし、できればもっと先のことだって──」
このまま友達のフリをして過ごせるのならそれはそれでいいのかも、などと考えたこともあった。
だがそれは一瞬のことで、哲平の傍に寄り添う彼女の存在を見て見ぬふりをすることもできない。哲平と一緒にいたいからと何かに目を瞑っても、結局どこかにその皺寄せが来る。器用になんて立ちまわることはできない。すべて自分のものにならないのなら、いっそ何も手に入らない方がましだ。
「だから選べよ。彼女か、俺か」
「……」
「おまえが彼女選ぶなら、今度こそそれでおしまい」
哲平の驚いた顔に追い打ちを掛けるように言葉を被せる。
「嫌だとか言うなよ? 俺だってこれ以上無駄に苦しむのはごめんだ」
好きだからこそ、選ばれないのなら切り捨てられたほうがいい。
「──俺、やっぱ悠介苦しめてただけなんだな」
哲平が小さな声で言った。
「昔も、今も──何にも成長してねぇ」
ソファに座ったまま小さく項垂れた哲平の肩に悠介はそっと手を添えた。
「別に、お前が悪いんじゃないよ。どっちかっていうと俺だろ?」
どうして普通の男に生まれて来れなかったのだろう。
普通の男だったなら、あの頃哲平を避けることもなかった。こうして再会してからも、ごく普通に友達として傍にいてやれたのに。
「哲平。こっち向け」
そう声を掛けると哲平がゆっくりと顔を上げた。
眉を少し下げ、俺の顔を見て申し訳なさげに微笑む。
「バカだな……なんつう顔してんの」
哲平が悪いのではない。苦しめているのはこちらも同じだ。
腕を伸ばし、哲平の頭にそっと掌をのせた。自分とは違う真っ黒な張りのある短い髪。小さい頃、この髪の触り心地が気持ちよくて、ことあるごとに哲平を褒めて頭を撫でてやった。
「変わんないな、この髪」
少しでも触れてしまったら、欲が出る。
この衝動を抑え込むのは正直とても厄介だ。
相手に触れたいと思うのは特別な好意。たぶん触れられたいと思うのも。
「哲平」
少しの間、髪を指先で弄んだあと、その指を滑らせ耳に触れる。哲平が一瞬くすぐったそうに肩をすくめたが、その手を振り払われなかったことに安堵して、指先を更に滑らせて親指の腹で哲平の唇をなぞった。
「……悠」
「触られんの、嫌か?」
「──い、やじゃ、ないけど……何か変な感じ」
哲平が少し顔をしかめたが、酷い嫌悪感を露にしているというふうではない。
「テスト、しようか」
この時点で拒絶されてしまうのなら、多分哲平とのこの先はない。
どんなに想っても、もし……まぁ、そんな確率は極めて低いと分かっているが、哲平が自分を選び受け入れようと努力してくれたとしても。ここが越えられなければ、悠介が望む関係には到底なりえない。
以前、感情に任せて一瞬唇を重ねたことがあるが、あの時は思いきり突き飛ばされた。普通の男ならば、ごく当然の反応だ。
「もし、嫌なら思いっきり殴れ」
悠介は口ではそう精一杯の恰好をつけつつ、それが現実にならないことを心の中で願いながら哲平の乾いた唇にそっと自らの唇を重ねた。
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