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第9話 ①

   久しぶりの休日に、特に予定もなく部屋のベッドに寝転がりながら哲平は息を吐いた。  開けた窓から入り込んだ風がそっとカーテンを揺らすのをぼんやりと眺めた。  あの日、悠介にそっと重ねられた唇は、かすかな背徳感と湿り気を伴って哲平の心に波紋を残した。  以前、勢いというか半ば自棄のように重ねられた時とは明らかに違う。あの時は驚いて思わず突き飛ばしてしまったが、今回はそれをしなかった。  何をされても──と釘を刺されていたということももちろんあるが、哲平の中で自分に出来うることの可能性を確かめてみたいという思いもあった。  結果、自分自身にとって本来あるまじき行為に不思議と嫌悪感は湧かず、数日経った今も、思い出す度に妙に生々しい熱がぶり返している。 「……」  唇の感触に男も女もなかった。  悠介の湿った唇はしっとりと吸い付くように哲平の唇にそっと重なった。以前された時は、すぐに離されたが今回は違った。  押し当てられたままの唇。そっと目を閉じて受け入れた。ただ重ねられただけ、悠介はそれ以上の事はしてこなかった。  どれくらいそうしていただろう。一瞬と言えば一瞬のようにも思え、長い時間といえばそのようにも感じた。唇が離れるのと同時にゆっくりと目を開けると、悠介と目が合った。真っ直ぐで熱を帯びた視線に、こちらが照れくささに耐えられなくなって目を伏せた。  ──あんな顔。  嫌ではなかった。むしろ胸がざわめいたほどだ。あのままもう少し悠介が踏み込んだ行動をとっていたならば、自分はそれを拒絶できただろうか。 「……どうなってんの俺」  嫌じゃない、とか。  頭でしか──あくまで想像でしかなかった同性同士の恋愛関係というものが、妙に現実味を帯びて感じられる。  悠介は、あの成島という男と付き合っている。恋人ということは、当然のことながら肉体的な関係もあるのだろう。  成島は、悠介のあの表情の先を知っている。その事実にどうしようもないもやもやとした気持ちが自分の胸に湧きあがり渦巻いている。この感情は、嫉妬──? 「小夏がいんのに……」  考えても考えても、結局思考は同じようなところを彷徨うばかり。  もし──自分が悠介を好きなのだとしたら。どこか悠介に執着してきた過去も、しばらく顔を見なければやはり会いたいと思うことも、重ねられた唇が嫌じゃなかったことも、なんとなく説明がつくような気がしてしまう。  頭で考えたところで、答えが出るわけじゃない。  けれど、考えずにはいられなかった。それは、考えようとしなくとも、思考がそれに捉われてしまうからだ。  たかが唇と唇が触れるだけの行為。だが、触れるということは頭で必死に考えるより、よりダイレクトに伝わるものがある。  「触れたい」という気持ちは特別な行為。相手に触れられたからといって、こちらが触れたいと思うとは限らない。あの時、俺は確かに悠介に触れられて、その熱に応えたいと──。  その時、ベッドの上に無造作に置かれたスマホが音を立て、哲平は反射的にそれを手に取った。 『あ、もしもし哲くん?』 「──あ、小夏か」  外していた眼鏡を掛け、ゆっくりと起き上がる。 『もー、何そのがっかりした声』  電話の向こうの小夏が、少し拗ねたような声で言った。  一瞬、悠介かと思ったなどと言えるわけもなく「ごめんごめん」と平静を装った。  相変わらず耳障りのいい少し鼻にかかったような甘く響く声。この声を聞くとほっとしたのに、今はなぜか鼓動が速くなる。心のどこかに、小夏に対する後ろめたさを抱えているからか。  小夏を好きでなくなったわけではない。  ただそれ以上に心をざわめかせられる存在に今更ながら気付いてしまった。  けれど、それが本当に恋だの愛だのという色恋のそれなのか、と問われれば、そうだと言い切れるほど確かなものではないし、そうではないと完全に否定してしまうには、頭の中から悠介の存在を追い出せないくらいには、それに近い感情も持ち合わせている。 『──ねぇ、哲くん、聞いてる?』  恋人の話にさえ、上の空である今の自分。 「ああ。ごめん、聞いてる。大丈夫、日曜だろ? 午後家まで迎えに行く」  なのに、恋人との約束を当たり前のように受け入れる。  彼女を悲しませたいわけではない。大事にしたい。そう思う気持ちは変わらないのに、心はいつの間にか他に捉われている。    *  *  *     約束の日曜、久しぶりに小夏と会った。以前小夏が行きたがっていた新しいカフェでのランチデートのためだ。  以前は週に一度程度の頻度で仕事帰りに待ち合わせをしていたが、お互い時期的に忙しかったのももちろんあるが、その回数が減ったのは哲平自身が悠介に対する気持ちを量りかねていたから。  ──心がうつろう。恋人以外の人間に。 「哲くんも、ずっと仕事忙しかった?」  運ばれてきたばかりのアイスティーをストローでかき混ぜながら小夏が訊ねた。 「ああ。特に先週末はセールだったから」 「小夏は?」 「私も。棚卸と本社の監査が重なってバタバタだったの」  そう言って小夏がその忙しさを思い出したかのように眉を寄せたが、すぐに瞳をくるりとさせて微笑んだ。 「なんか久しぶりだね。日曜のデート」 「ああ、確かに。ごめんな、週末あんま休めなくて」  サービス業という職業柄、週末に休みを取ることが難しいが、それに対して小夏が何か不満を漏らしたことはない。 「ふふ。いいの! 仕事帰りのデートも嬉しいし。こうしてたまにゆっくり会えるもの」 「今日は、ゆっくりできるよ」 「やった!」  彼女はくるくると表情が変わる。初めて彼女に好感を持ったのは、このよく動く表情だった。 「最近は、悠介さんだっけ? 会ったりしてるの?」 「ああ、うん。たまに飯行ったりしてる」 「そうだったんだ。この頃、悠介さんの話出ないからどうしたのかなーってちょっと気になってたの。会ってるんだねー」 「うん」  確かに悠介の話題を意識的に避けているところはある。悠介に気持ちを打ち明けられて、意識するようになってからというもの、小夏にそれを話すことに後ろめたさのようなものを感じるようになった。 「いつになったら、紹介してくれるのー? 私も会ってみたいのに」 「はは。そんな気になる?」 「そりゃあ。哲くんにとって特別仲が良かった幼馴染みでしょう? 私も大事な友達には哲くんのこと紹介したいって思うし、哲くんにもそう思って欲しいもの」  事実、小夏の親友とは何度か飲みの席を共にしたことがある。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、小夏の友人らしい朗らかな友達だった。  ほんの少し前までは、哲平自身も彼女と同じ考えだった。いつか彼女を紹介したい。そう思っていた。幼なじみとして久しぶりの再会を果たしたばかりの頃は。  「自慢したいしー、されたいじゃない?」 「自慢?」 「私の彼氏はこんな素敵なのよーって」 「俺なんか自慢できるとこなんてないけどな」  小夏の言葉に照れくささを隠しきれず微笑むと、小夏が心外だとでもいうようにこちらを甘く睨んだ。 「もー! どうしてそんなに自己評価が低いのー」 「低くないだろ」 「哲くん、いい男なのに」  臆することなく真っ直ぐな目で自分を見つめる小夏に、気恥ずかしさすら感じるが、その真っ直ぐな言葉に彼女の想いの深さを感じる。  大事にしなくては罰が当たる。  小夏はとてもいい子だ。それを痛いほど分かっているのに、揺らぐ気持ちを抑えきれない自分は罪深い。  持て余す曖昧な気持ちを、どう整理すればいいのだろうか。  このまま小夏と付き合って、いずれ時が過ぎ、なるべくようになって──そんな未来が想像できないわけではない。  けれど、そんな未来を考えるのと同時に悠介の事を考える。  自分が悠介に対して持っているこの感情は、一時的な感傷か、それとも──?   

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