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第9話 ③
久しぶりに客切れの早かった平日。
平日は週末に比べ購入客は少なくなるが、意外にも修理客が増える。
職場でぶつけた、学校で運動をしていて眼鏡が曲がったなどと、眼鏡を持ち込む客が意外にも多いのだ。
今日は夕方過ぎてもそういった来客がなく、閉店時間より少し早めに店を閉めた。
「船口さん、ほんと先に上がっちゃっていいんすかー?」
「ああ。いいから、暇なときくらい早く帰れ。俺もすぐ終わりにする」
そう言って岡本を先に帰してから、帰り支度をしているところにスマホが鳴った。
立て続けに、メッセージを受信して、それを開いて哲平は「え……」と声を漏らした。
【そろそろ仕事終わる頃? 暇なら飯でも行かねぇ?】
【哲くん。お疲れ様。お仕事のあと暇だったら会えないかなぁ?】
ほぼ同時に受信したメッセージは、悠介からのものと小夏からのもの。
どちらも、誘いのメッセージだったが、哲平はしばし頭を抱えてしまった。
「何これ。マジ……」
こういう場合、どちらを優先させるのが普通なのだろうか。
誘いの時間はほぼ同時。ここは当然彼女である小夏を優先すべきか。
──選べよ。彼女か、俺か。
悠介の声が頭の中に響く。
心の中で自分に問いかけた。いま、自分が会いたいと思うのは──。
「哲平。こっち!」
何度か訪れたことのある哲平の職場からほど近い居酒屋。店内はかなり混み合っていてテーブル席が空いていなかったのか、カウンター席に座った悠介が哲平を見つけるなり手を上げて手招きした。
「ごめん。待たせたか?」
「俺もさっき来たとこ」
その言葉は本当なのだろう。悠介の飲んでいるビールがほんの少し減っていた。
「哲平もビールでいいか?」
「あ、うん」
カウンターの奥の店員にビールを注文する悠介の横顔を見て、普段通りの様にどこかほっとした。
結局、あのあとすぐに折り返しの電話を入れ哲平が会う約束を取り付けたのは悠介の方だった。
悠介に会うのは、あのキスをされた日以来。
意識していないといえば嘘になる。少し気まずいような気持ちを抱えながらもこうして悠介に会いに来てしまったことに、自分の気持ちの熱量を自覚しないではいられない 。
──恋人よりも会いたいって、どうなってんだよ。
小夏にももちろん連絡を入れたが、普段なら直接折り返しの電話を掛けるところを、予定があると断りのメッセージで済ませてしまったのは胸に広がる罪悪感。
声を聞いてしまったら、この胸につかえるような罪悪感がさらに大きくなったことだろう。
「お疲れ」
目の前に置かれたビールのジョッキに悠介が自分のジョッキを重ねた。
コツンと重なるグラス、偶然触れた肘を意識する。
「何? 具合でも悪いのか?」
「え?」
「哲平にしちゃ、やけに大人しくね?」
「そ、そうかな」
「いつもうるせぇくらいなのに」
そう言ってニヤと笑った悠介の唇に視線を奪われ、はっとして視線を逸らした先で悠介と目が合った。
「哲平?」
「──あ、いや。ごめん、何でもない」
気づかれただろうか。
変だ。悠介は普段通りなのに、どうしてかいつもの自分でいられなくなっている。
「そういえば。この間、店に成島さん来た」
そう切り出したのは、酒も随分進んだ頃だった。
あの男からしたら告げ口のようでいい気はないだろうが、隠しておくのもそれはそれで不自然な気がしたからだ。
「……成島が?」
「ああ。うん。眼鏡の調整に」
そう答えると、悠介が何かを探るような視線をこちらに向けた。
「──それだけ?」
「ああ。それだけだよ」
本当は、それだけではなかった。あれは明らかな牽制だ。
分かっていながら話題にしたのは、悠介の反応が気になったからだ。
変な間が空いて、哲平は意味もなく枝豆の皮を指で弄びながら悠介の様子を窺った。
事実、分からないことが多過ぎる。
悠介はあの男とまだ付き合っているのか、それとも──。
「本当は、何か言われたんじゃないのか?」
「え?」
「成島の事だ。その眼鏡を口実にしたんだとしても、意味もなくおまえのとこ行ったりしないと思う」
成島の事なら何でも分かっているというこの悠介の口調が哲平の胸をチクリと刺す。
「なんとなく予想つくけど。──俺、あいつに別れるって言ったんだよ。けど、向こうはまだ納得してないっぽくて」
「別れる……つもりなのか?」
そう訊ねながら、どこかほっとしている自分に少し戸惑った。
あの男と別れるということは、悠介があの男のものじゃなくなる──? そんなことを一瞬考えほっとした自分に驚いた。
「そりゃあね」
ざわざわとした居酒屋の喧騒の中、悠介が少し声を落として続けた。
「言ったろ? 俺、おまえのこと真面目に口説きに掛かってんだよ。好きな奴本気で落とそうって時に、恋人キープしたままとかナイだろ?」
「……」
悠介の本気。確かに、こうして頻繁に連絡を入れて来ることにも表れている気がする。
「──なんだよ、それ。ついこの間まで俺の事徹底的に避けてたくせに」
と拗ねてわざと嫌味を言ってやると
「おまえには、知られたくなかったのは本当だもん」
悠介が気まずそうに少し唇を尖らせた。
「哲平が、そんな態度するから調子乗ってんだよ」
「え?」
「俺が、そうだって知っても避けないし。この間なんてキ……」
「わぁあ! その先言うなって!」
その先何を言おうとしているか想像がついたため、哲平は悠介の口を慌てて手のひらで塞いだ。
悠介が哲平を見てニヤと一瞬笑ったかと思うと、わざと舌を出して哲平の手のひらを舐める。
「ちょ、お! 何して……」
慌てて手をどけたが、唾液によって湿った手のひらを本人の目の前で拭うのも何だか失礼な気がして、それを誤魔化すように所在なげに頭を掻くと、悠介がそれを見て思いきり吹き出した。
「おまえ──」
「は? 何だよ」
「そういうとこ。はっきり拒否しないとつけ込まれるぞ、俺に」
「はぁ?」
「嫌なら、切ればいいのに」
──まただ。急に近づいてきたかと思えば、こうして突き放してくる。
「……なんでそうなるんだよ」
「そういう事なんだよ。俺は、おまえと友達ごっこしたいわけじゃない」
結局、同じところに行きつく。悠介か小夏、どちらか選べということか。
「哲平が拒否しないなら、俺はとことんつけ込むよ」
「……」
「気持ち知られたら、終わりだって思ってた。──まぁ、普通はここまでで終わるんだよ。けど、予想と違ったからなぁ」
と、何かを思い出したように悠介が小さく笑った。
「哲平、俺の事好きだろ? まぁ、俺の欲しい“好き”とは違うのかもだけど、そういう好きだって上手く利用すりゃ、どうにかなんのかもって」
「利用、って……言い方」
哲平が呆れた表情を返すと、悠介が眉を上げた。
「はは。どう言おうと、同じだろ? 欲しくても絶対無理だって手も伸ばさず諦めてたもんに一瞬でも可能性見えてみろよ? そりゃあ──」
「可能性、って。俺、べつに……」
「そんなつもりないって?」
返事の代わりに眼鏡のブリッジを押さえた。
「言わなかったか? そんなつもりもないなら、もう会わないって。こうやって会ってるってことは、おまえにだって少なからずつもりはあるって解釈してるけど」
「そ、それは……」
こんなふうだっただろうか、俺の知っている悠介は。
幼い頃から自分よりずっと大人だと思っていた。
仲の良かった子供の頃、哲平のどんな我儘もきいてくれていた悠介は、こんなふうに自分の要求を強く主張するような男だっただろうか。
「つもりがないなんて言わせないからな」
それだけ悠介が本気だということなのだろうか。
悠介の気持ちが嬉しくないわけじゃない。嬉しいのだ。難しいことを抜きにして考えれば。今夜だって、恋人の小夏の誘いより悠介と会う事を選んだ。
「──分かってるよ」
分かっている。
今夜、悠介に会いたくてここに来た。ただ単に顔を見たかったというのもあるし、自分の悠介への気持ちがどの類の好意なのか、悠介にもう一度会えば何かが分かるのではと考えた。
哲平は、半分ほど減っていたビールの残りを一気に喉に流し込んで口元を拭う。
降ろした腕が偶然隣に座る悠介の肘に触れた。さりげなく引っ込めることもできたのに、哲平はあえてそれをしなかった。
今までなら、こんなふうに肘が触れたからと言って落ち着かない気持ちになることはなかった。
ドクドクと鼓動が速くなるのは、流し込んだビールのせいか、はたまた──。
触れ合ったまま肘を悠介の方も引っ込めることはしなかった。
ドキドキしている。何でもないことのはずなのに。何でもないことだったのに。
──なんだよ、これ。
自分でも考えの及ばなかった感情の変化に戸惑う。
「そろそろ出るか」
残りのビールを飲み干して、先に伝票に手を伸ばしたのは悠介だった。
チラ、と盗み見た腕時計の時刻はまだ九時を少し回ったところ。もう帰る時間かと、哲平は小さく息を吐いた。
「今日は、俺が」
悠介の手にした伝票をひょいと取り上げてレジに向かうと、悠介が後ろから哲平の肩を掴んだ。
「や。いつも奢られっぱなしだし。たまには俺も奢れる男になりたいじゃん」
「──あっそ。そういう事なら、奢られてやる」
こうしてよく会うようになってからというもの、基本的には割り勘だが、時々兄貴ぶった悠介が奢ってくれることもある。小さい頃は、悠介が年齢より随分と大人だったためそれこそ兄と弟という感じであったが、成長した今は少しでも対等でありたい。
店を出ると、外は小雨がパラついていた。まだ降り出したばかりなのだろう、アスファルトにポツポツと黒い染みが出来ている程度だ。
「うわ、雨か……」
「哲平、傘ある?」
「いや。ないな」
「んじゃ、走るか。うちまでならたいした距離じゃないし。行くぞ、哲平」
「──え、あ。うん」
全くゲンキンだ。しぼみかけていた気持ちがたったそれだけの言葉で一瞬に回復する。店を出たらそこでさよならだと思っていた。けれどそうじゃなかった──たったそれだけの事が。
「哲平、遅っ。早くしろよ」
そう言った悠介が振り返った。懐かしい笑顔だった。
ただ自分が何者だとかそんな小難しいことを考えもしなかった無邪気だったあの頃の。
信号が赤に変わって、先を行っていた悠介が通りの店の軒先に入ったのを見て、哲平もそれに続いた。
降り出した雨はいつの間にか大粒の雨に変わっていて、隣に立つ悠介の髪からその雫が滴る。前髪についた雨露が悠介の目に掛かりそうになり、咄嗟に手を伸ばしてその露を指で掬うと、悠介と目が合った。
「あ……悪い」
伸ばした手に引っ込みがつかなくなった。
「いや。サンキュ」
不自然な動きのまま哲平は慌ててその手を引っ込めた。
湧き上がった衝動に戸惑った。いま、ほんの一瞬ではあったが自らの意思で悠介に触れたいと──。
信号が再び青に変わったのに気づいた悠介が「行こう」と哲平を促した。
「……」
哲平はそれに頷き返し、また前を走っていく悠介に続いた。
いつの間にか道路にできた水溜まりが走るたびに足元を跳ねていく。少しずつ早くなる鼓動は走っているからなのか、それとも──。
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