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第9話 ④
悠介の部屋に来るのは何度目だろう。
玄関先でスーツのジャケットを脱ぎ、ジャケットについた雨粒を手で払っていると、先に部屋にあがっていた悠介がタオルを持って戻って来た。
「何してんの。上がれば。結構濡れただろ、そのままじゃ風邪ひく」
「……あ、うん」
「着替え用意してやるから。中で着替えな」
なぜか部屋に足を踏み入れることに緊張している自分に戸惑った。
何か、変だ。特に変わったことをしているわけではない。むしろ普通過ぎるほど普通なのに、悠介と会ってから、戸惑う事ばかりだ。
「俺、身体冷えたから軽くシャワー浴びるけど、適当にしてていいから」
そう言うと悠介は、用意してくれた着替えを哲平に押し付けて風呂場へと消えて行った。
身体が冷えているというのは本当なのだろう。
本格的に秋めいてきた十月。スーツを着ていた自分とは違い、薄手のシャツ一枚のところへ雨に降られ、全身びしょ濡れという状況はさすがに寒い。
哲平は水滴のついた眼鏡を拭いてから悠介が貸してくれた服に袖を通し、濡れたスーツの上下を軽くタオルで拭いてからハンガーに掛けた。
ふぅと息を吐きリビングのソファに座ると、ふいに嗅ぎ慣れない柔軟剤の匂いに気付く。
悠介の──フレグランス効果の高い柔軟剤なのだろう。少し特徴的な香りではあるが、悠介に似合っている気がする。
──まただ。
いままでこんなことを気にしたことがあっただろうか。
落ち着かない気持ちを持て余して立ち上がると、窓辺に近づいた。雨はすっかり本降りになっていて、窓を閉めていても激しい雨音が聞こえてくる。
そもそも今夜、雨の予報など出ていなかった。その場しのぎの雨宿りのつもりでいたのに、このままでは帰るタイミングを逃してしまいそうだ。
かといって、あまり長い時間この部屋にいるのも、それはそれで気が重い。
居酒屋を出て、そのまま帰るのではなく当たり前のように部屋に誘われて嬉しかったはずなのに。悠介と一緒に居られる時間が増えて嬉しかったはずなのに。気が重いとか──。
「……なんか、変だな俺」
そう声に出して呟くと、いつの間にかシャワーを終え戻って来ていた悠介が「何が?」と訊ねた。
「や。何でもない」
振り返ると、悠介がこちらにやってきて窓の外を見た。外は真っ暗で何も見えないが、窓に打ち付ける雨音からどの程度の雨が降っているかが分かる。
「結構降って来てんな」
「──ああ」
隣に立った悠介からシャンプーの香り。ガシガシとバスタオルで髪を拭く悠介の動きに合わせて、香りが揺れる。少し上気した頬と濡れ髪をなぜか意識する。
「これ、止むのかな……」
誤魔化すように悠介から離れソファに座ると、悠介も後を追うようにカーテンを閉めこちらにやってきた。
「予報じゃ降るなんて言ってなかったし、にわか雨だろ。──あ、何か飲むか?」
「あ。じゃあ、冷たいもの……」
「冷蔵庫。勝手に開けていいから。ついでに俺のも」
頼むな、とでもいうようにこちらを指さすと悠介は再び風呂場のほうへ消えて行った。すぐにドライヤーの音がして、何のために悠介が消えたのか理解した哲平は言われた通りに冷蔵庫にあったお茶を二人分用意した。
リビングのテーブルにグラスを置いて、ソファに深く沈み込むように座った。
「……」
落ち着かない。
来慣れない部屋だというのももちろんあるが、悠介と居てこれほど落ち着かない気持ちになったことはなかった。
ドライヤーの音が止んですぐ悠介がリビングに戻って来て、テーブルの上のお茶に気付くと「サンキュ」と言ってそれを一気に飲み干した。口元を拭いグラスを置いた悠介が哲平を見下ろして表情を崩した。
「なーに、借りて来た猫みたいんなってんの」
「別に、そんなんじゃねぇし」
「嘘つけ。おまえ、今日会ってからずっと変」
悠介にも気づかれていた。自分が今日、普段と違うという事を。
「なに変に意識してんだよ。そんな態度とってると、マジ知らないぞ?」
悠介が哲平の前に立って少しからかうような口調で言った。それから上体を屈め、哲平の顔をまじまじと見つめる。
「──え、」
「意識されてるってことはさ。少しくらい望みあんのかなーって思ったりすんじゃん、こっちは」
「……や、だから。意識とか、違…くて」
「何が違うんだよ」
本当に何が違うのだろう。こうして見つめられて、傍に寄られて、ふわりと香るシャンプーの香りにどこかくらくらとしているのに。
「そ、そろそろ帰んねぇと……」
「外、まだ土砂降りだけど? 帰るにしてももう少し小降りになってからのほうがいいんじゃね?」
「……え、っと」
「何うだうだ考えてんのか知らないけど、想像はつく。いろいろはっきりするように、この間のテストの続きでもしとく?」
「え?」
哲平の単調な返事に、悠介がふっと吹き出しながら言った。
「哲平、さっきから“え?”ばっか」
そう言った悠介が哲平の隣に座り、そっと哲平の手を取った。拒否することもできたのに、哲平はされるがまま抵抗はしなかった。風呂上がりの悠介の手はとても温かく、しっとりとしている。やわやわと手の甲を撫でられていると何とも不思議な気持ちになる。
こうして悠介に触れられることが嫌ではない。小夏の手よりずっと大きくて骨張っていて、自分と同じ男の手だということが分かるのに。
「こういうの、別に嫌じゃないんだろ?」
「──マッサージみてぇ」
仮にこれを悠介でない他の男にされたのだとしたら、嫌とはいかないまでもあまりいい気持ちはしないだろうという想像はつく。
「はは。マッサージって言えば哲平に触り放題か」
触れられている手が、少しずつ熱を持つ。
「……つか、何で俺なんかに」
「哲平だって、好きな子触りたいだろ。それと一緒」
小夏に触れたいという気持ち。そういう気持ちはもちろん分かる。
可愛くて愛しくて、思わず手を伸ばして触れてみたくなる。そんな感情が確かに──。
「哲平はやっぱ女の子が好きか」
「……あ?」
「いま、彼女のこと考えたろ」
「……うん」
悠介は、まるで何もかも見透かしているようだった。
性的対象は女の子であったし、自分から触れたいとかそういう感情が湧くのも当然女の子だった。今までそれが当たり前で、そうであることに何の疑問も抱いた事がなかった。
けれど、今は──?
「悠介に触れられんのは嫌じゃないよ。──あんな事されても、嫌だとは思わなかった」
哲平がそう言うと、悠介が片方の口の端を上げ少し意地悪な表情を浮かべた。
「あんな事って?」
「……言わせんなよ。分かってるくせに」
「分かってるけど、あえて意識させてやってんの。俺がおまえに何したかってこと」
その行為は決して友達同士でするようなことではない。まして同性の友人同士では。
だからこそ意味を持つ。すなわち、友人同士の範囲を超えた特別な行為であるということ。
「哲平は、何を知りたい?」
「──え」
「あんな事したあとで、何の目的もなく俺に会いに来た?」
──ただ、悠介に会いたかっただけだ。恋人の小夏に会うより、悠介に会いたかった。
そこで自問自答する。本当にそれだけか?
あの日からずっと悠介にされたキスの感触を何度も思い出している。思い出して羞恥に苛まれ、それでも嫌じゃない、むしろ──。この整理しきれないもやもやとした感情の正体をつきとめに来たんじゃなかったか。
「悠介は──俺と付き合いたいとか思うのか?」
そう訊ねると、悠介がそれを肯定するでもなく否定するでもない曖昧な返事を返した。
「──っていうか、カタチはどうでもいいんだよ」
「どういう意味?」
「俺みたいなのが世間的にアレなのは分かってるからさ。端から見て“友達”にしか見えなくたっていいんだよ、べつに」
悠介が哲平の指先を弄びながら答えた。
「ただ、おまえに俺の事好きになってもらいたい。二人の時は、普通に恋人同士がするみたいなことおまえとしたい。もちろんセックスも含めて」
悠介に触れられた指先が、次第に熱を持つ。顔を上げると、そこで悠介と目が合った。
「──悠介のこと、好きだよ」
哲平はそこで敢えて言葉を切った。
「けど、それは幼馴染みとしての好きであって、その先に関してはいまは想像でしか考えが及ばないんだよ」
「だろうな」
悠介が分かるよ、というふうに小さく頷いた。
「悠介の気持ちは素直に嬉しいと思う。こうやって触られんのも嫌じゃない………」
そこまで言って次の言葉を言い淀んだのは、こんなまとまらない気持ちを悠介に吐露したところで、変に期待を持たせたり、逆に傷つけたりしないかと考えたからだ。
「嫌じゃない──けど。その先が、ってことか」
悠介が真っ直ぐ哲平を見つめ訊ねた。
その先が想像できないわけではない。けれど、想像することと実際はたぶん違う。もし、悠介の望むことを受け入れられなかった時、いま以上に悠介を傷つけたりしないだろうか。それが、怖い。
「そりゃ、そうか。哲平普通に女の子好きなんだもんな。いろいろ抵抗あるに決まってる」
「……」
「けど、根本的なもんは変わんないよ。男と女だって男同士だって、一番大事なモンは気持ち。好きだからこそああしたい、こうしたいって欲が出る。それは同じだ」
──好きだから。
そういった意味ではすでに気持ちはある。悠介のために自分が出来うること、その最大限の可能性を探りたいと思っているこの気持ちこそがすでに。
「俺──悠介のために何ができるのかな? 俺が悠介にしてやれることって何だ?」
哲平の言葉に、悠介が手の動きを止めた。
「……試してみるか? 想像の先」
そう言った悠介の声が少し震えているように聞こえた。
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