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第10話 ③

   それから何日か経ったある夜。  仕事から帰宅した悠介を玄関先で待っていたのは、成島だった。 「久しぶり」 「……久しぶり」  成島自身も仕事帰りなのであろう。見慣れたスーツ姿の手には、ビジネスバッグの他に小さな紙袋があった。 「これ、土産。しばらく静岡行ってたんだ」  差し出された紙袋を突き返すのも悪い気がして、悠介は「ありがと」とそれを受け取った。恋人でなくなったとしても成島は悠介の友人であることに変わりはない。 「今日は、どうしたんだ?」 「顔を見に来たんだよ。最近会ってなかったからな、元気にしてるかと思って」 「……そうか」  そこで会話が途切れてしまった。  以前なら、会えない間のことをお互いに話して、会話が途切れてしまうなんてことは考えられなかったことだ。  成島がただ黙って悠介を見つめる。何か言いたそうにしているのは分かるが、どうしていいか分からない。 「なに?」 「いや。ツレに土産買って会いに来たっつーのに、部屋にも入れてもらえないのかと思ってな」 「……友達として来てんのか?」  そう訊ねると、成島が意味ありげな笑みを浮かべながら「さぁ」と首を傾げた。 「俺たちはもう少し話し合う必要があると思わないか?」 「……」 「一方的に別れたいって言われて、ああそうですかって俺が納得するとでも?」 「確かに、それは悪いと思っている。けど、説明したろ? 俺はもうおまえとは……」  そう言った時、ちょうどこの階につくエレベーターがあり、隣の部屋に住む若い女が友達と連れ立って「こんばんは」と悠介に挨拶をしてそこを通り過ぎた。 「ほら。変に思われるだろ、こんなとこで」  成島が彼女たちを目で追いながら言った。  確かにこんなところで立ち話をするには、話題が話題だけに、と思い悠介は小さく息を吐いてから成島を部屋に入れるほかなかった。  部屋に入ると成島はスーツのジャケットを脱ぎ、懐かしそうに以前の指定席であったソファに座った。 「変わってないな」 「たった数カ月で、部屋変わんないだろ」  事実、成島と付き合っていた頃と部屋の様子は何一つ変わってはいない。悠介は冷蔵庫から冷えたお茶を取り出してグラスに注ぎ成島の前に置いた。 「──で? あの船口ってやつとはどうなってんの?」  成島が冷えたお茶を一口飲んでから訊ねた。 「別に……どうもなってないよ」  確かに変わったことはある。  けれど、自分たちの置かれている関係がどう変わったかと言われれば明確にこうだと自信を持って言えることが何一つない。 「あの男は何だって? おまえを受け入れてくれたのか? 好きだといってくれたのか?」 「──いや」  悠介が静かに答えると、成島が「やっぱりな」とでもいいたげな表情を浮かべた。 「それが答えなんじゃないのか? 所詮、無理なんだよ」 「……」 「受け入れられるわけないんだ。あんな男に、俺らのこと理解できるはずがないんだ」 「……やめろよ」  哲平を悪く言うな。  哲平は精一杯向き合おうとしてくれた。彼にできる限りの方法で。 「もし、あいつが岩瀬を受け入れてくれたとして。おまえは平気なのか?」 「何が?」 「あの男の、本来あるべきだった未来を奪って」  頭では分かっていたことだった。  だが、他人の口から発せられる言葉の威力に、悠介は今更のように打ちのめされる。  「あいつが手に入れるはずだった普通の幸せを、岩瀬は奪えんのか?」  ──普通の幸せ。  それが何を意味するかはもちろん悠介も分かっている。哲平に将来訪れるはずのごく普通の幸せ。ごく普通に家族に祝福されながら女性と結婚し、やがて子供を持ち育てていくというごく真っ当なものだ。 「──っ」 「俺なら、何も失うものはない。俺がゲイだってことは家族も知ってる。……だから、結婚も望まれることはない、子供もいらない。死ぬまでおまえといられるし、おまえだけいればいい」 「成島……」  頭では分かっている。  そういったこと全てを分かったうえで、未来をも見据えて成島と付き合っていたはずだった。成島となら、少なくともお互いを理解できているぶんの障害は少ない、そう思っていた。  いまでも、条件的な意味合いでいえば成島の方がベストなパートナーといえるかもしれない。 「おまえは、あの男の将来を奪うことできんのか?」  それでも。  動き出してしまった。溢れだしてしまった想いを、また元のように押し込めて蓋をして、何事もなかったようには生きられない。 「分かってるんだ。──それでも俺は」  言いかけた言葉は、ふいに伸びて来た成島の手によってその続きを塞がれた。 「……っ、ふ」  そのまま力尽くで床に押し倒され、慌てて身体を起こそうとすれば、それを上から抑えつけられる。  体格的に大きな差があるわけではないが、成島の方ほうが力が強い。悠介の本気の抵抗も、ほんの数分で適わなくなった。 「成島、何してんだ。どけって」  腕を動かそうとしたが、ほんの一瞬浮き上がっただけですぐに元通り押さえつけられてしまう。 「久しぶりにシようや。俺、ご無沙汰で溜まってんの」 「何言ってんだって! しねぇよ。俺らもう──」 「そんなの俺は納得してない!」  いつも冷静な成島が珍しく語尾を強めた。 「俺は、おまえがずっと好きだったんだよ‼ 高校の時からずっとだ! 卒業して自然と会わなくなって……でも忘れられなかった。再会できた時は、もう運命かと思ったよ──お互い連絡取り合ってたわけでもないのにまた偶然会えるなんて」  成島の言葉に、自分自身も似たようなことを感じていたことを思い出した。 「再会して、なんとなく会うようになって、自然と付き合うようになって──このままおまえと上手くやっていけるんだって思ってた」  悠介もほんの数カ月前までは思っていた。  このまま成島と居心地のいい関係を続けて行くのだと思っていた。 「──俺も、思ってたよ。そう」 「だったら! このままで良かっただろう? あの男のこと諦めていたんじゃないのか⁉ それがどうして今になって……」  成島の言うとおりだ。  哲平のことは諦めていた。というより考えないようにしていた。自分の記憶からも抹消しようとすらしていた。  けれど、再び出会ってしまったのだ。  久しぶりに会った哲平は、あの頃よりもっと魅力的に見えた。どこか幼かった面影を残しつつ、精悍な大人の男へと変貌を遂げていた。  たった一目会っただけで、言葉を交わしただけで、必死になって抑え込んでいたあの頃の想いがまるごと外に引きずり出されてしまったようだった。  「成島、ごめん……」  勝手なことを言っているのは分かっている。 「おまえに酷い事してるってのちゃんと分かってる──それでも、抑えがきかないんだ。こんな気持ちのまま付き合い続けるなんてできない」  悠介の言葉に、成島がまるでいら立ちをぶつけるようにバンと床を叩いた。 「……なんで」  そう呟いた成島が、床に押し倒されたままの悠介の胸倉をつかみ、ふるふると腕を震わせる。しばらくそうしていた成島が何かに気付いたように顔色を変えた。 「──岩瀬、おまえ」  成島の視線の先が、彼が掴んだまま伸びたのティーシャツの先の悠介の首元に注がれていると気づいた。その意味にはっとしたのと、成島がシャツを力任せに引っ張ったのはほぼ同時だった。 「なんだよ、これ……」  成島が静かに訊ねた。 「この痕、誰につけられた?」  悠介の身体にはまだ数日前に、哲平が残した痕が残っていた。  当然、鮮やかさは失われ、くすんで今にも消えてしまいそうな痕ではあったが、勘のいい成島がそれを見逃すはずもない。 「まさか、あいつとヤったのか?」  なんと答えればいいのか分からなかった。  そういう事実は確かにあったが、自分と哲平の関係はあの夜からどう変わったのか。 「嘘だろ」 「……」 「──あいつに、どんなふうに抱かれた? なぁ、岩瀬。どんなふうに抱かれたんだよ‼」  成島の目は激しい怒りで満ちている。  成島が大きく腕を振り上げ、ダン! と力任せに拳で床を叩き悠介に跨り一層強く悠介を押さえつける。  こんなふうに激しい感情をむき出しにした彼の姿を見たのは初めてだった。   成島が悠介に跨ったまま、悠介のティーシャツを脱がしに掛かる。悠介が必死に抵抗し、それが叶わないと悟ると、シャツを捲り上げていきなり哲平が残した痕の上に噛みついた。 「──っ、成島っ、やめ……!」 「抵抗できないだろ? 無理矢理とか趣味じゃないんだけど、いま頭湧いてるから止めんの無理だわ」  成島が哲平の痕をまるで上書きするかのように、執拗にそこを吸う。 「……やめろ、って‼」  乱暴に扱われ、これまで成島がどれだけ自分を優しく抱いていたかを知った。成島の手が悠介のスエットに掛かり、あっという間に下半身をまさぐられる。 「……ぐっ」 「大丈夫だよ。ちゃんとヨくしてやるから。おまえ、淫乱だからこういうプレイも意外に好きだろ?」 「成島っ……! やめ、っ、あ!」 「ノンケの男はどうだった? おまえを満足させられたか?」  成島の手が悠介のものを執拗に刺激するせいで、物理的な刺激に否応なしに熱が高まってくる。  こんなの、成島の抱き方じゃない。成島は、いつだって優しくて──。  ああ、そうか。  成島をこんなふうにしてしまったのは自分なのか。そう思いはしたが、ここで屈してしまったら負けだと、もう一度抵抗を試みる。  何度も抱かれた、この男に。いつだって彼は優しく悠介の身体をとろけさせた。  なのに、いまは触れられたくない。いまだ身体中に残っている哲平に触れられた感触を、成島に上書きされたくない。 「……マジ、やめ、成島!」  精一杯の力で抵抗した。足をばたつかせ、成島の背中を膝で狙うと一瞬成島に隙が出た。自由になった片手で成島の髪を掴み、もう片方の手で思いきり顔を殴りつけた。  こんなふうに本気で人を殴ったのは初めてだった。 「──っ、この……っ!」  成島が悠介に拳を振り上げたその時、部屋のインターホンが鳴った。  二人同士にはっと一瞬動きを止めた。そのあとまた続けてインターホンが鳴る。 「悠介──?」  ドアの向こうから聞こえたのは哲平の声。その瞬間、悠介は大きく息を吸い込んだ。 「哲平‼ 助け──」  叫ぼうとした言葉の後半は、成島の手によってそれを阻まれほとんど声にならなかった。それでも、哲平が異変に気付いてくれるように、悠介は押さえつけられたままの状態で敢えて音を立てて暴れた。  ガタン、と偶然足が当たってテーブルが動いた。悠介はさらに足を延ばしてテーブルを思い切り蹴ると、テーブルの上のグラスが床に転がり落ち割れた。 「悠介⁉」  鍵を掛けてなかったのが幸いだった。音に気付いた哲平が勢いよくドアを開けた。 「悠介、入るぞ?」  そう言ってリビングに入って来た哲平は、成島に押さえつけられた状態の悠介の姿を見てみるみる顔色を変えた。  床に押し倒されたまま、シャツを捲られ、履いていたスエットも腰の辺りまで摺り落ちている。  テーブルは不自然な位置にあり、床に割れたグラスが転がっている。悠介がどんな状況に置かれていたかは、言わずとも明白だった。 「何してんだよ、あんた‼」  慌ててこちらにやってきた哲平が、成島に掴みかかった。 「何、って邪魔すんなよ。そういうプレイだろ?」 「嘘をつくな! 悠介嫌がってんじゃねぇか! こんなの……同意な訳ねぇ‼」  そう言った哲平が成島を思い切り殴りつけると、悠介を抱き起こし、その背後に庇った。  哲平のその男らしい行動に、胸がぎゅうとなった。哲平の大きな背中に庇われ、痛む胸を押さえ息を吐く。  似たようなことが前にもあった。あの時も偶然ではあるが哲平は悠介のピンチに駆けつけてくれた。  いつだって神がかったタイミングで駆けつけてくれる──まるでヒーローのように。 「何してんだよ、マジで! 出てけよ!」  哲平が成島を怒鳴ると、成島が哲平に殴られた顔を押さえながら答えた。 「はぁ? 出てくのはおまえだろ? 俺はこいつの恋人。おまえはただの友達だろ?」  成島の言葉に、哲平が言葉に詰まった。──が、それはほんの一瞬の事で、すぐにこちらを振り返り悠介の腕を取って言った。 「友達じゃねぇよ!」  哲平が言うと、成島が馬鹿にするような侮蔑の表情を浮かべた。 「は? 一回ヤったくらいでもう恋人気どりか? こいつ、おまえじゃなくなって誰とでもヤれんだぞ?」 「何言ってんだ、あんた。悠介はそんなやつじゃねぇ。──付き合い長いんだろ? そんなのあんたのほうがよく知ってんだろう?」  哲平は誰のどんな言葉よりも、自分を一番に信じてくれる。  ある種、盲目的に。自分がどんな人間だとしても、哲平は自分を信じると言ってくれるだろう。そんな真っ直ぐなところが堪らない。 「悠介のこと、悪く言うのは許さない」 「友達じゃないなら、何なんだよ。どうせ、興味本位で岩瀬とヤっただけだろ? こいつのことどうこうする気もないくせに」  成島の言葉に、悠介は自分の手が震えるのを感じた。  そうだ。所詮、一度身体を繋げただけ。  結局のところ何も変わっていないということをまた思い知る。 「悠介のことは、考えてるよ──」  哲平が静かに言った。 「このまま曖昧にする気はない。ちゃんと、する」 「ちゃんと、って? 何をどうすんだ? 関係を公表でもすんのか? そうでなくても、人に後ろ指さされるような関係だぞ。おまえは自分がそうなるのに耐えられんのか?」 「……」 「遊びでコッチ側に来るのは簡単なんだよ。俺はノンケの男が遊びで男に手ぇ出して、最後はしれっと元の世界に戻ってくの何度も見てんだよ!」  成島の言葉は、間違いではない。  事実そういう男たちがいるのも、悠介だって知らないわけじゃない。  だけど、哲平はそういう事をする人間ではない。 「あんたが、そういうの心配する気持ちは何となくわかるよ」  哲平が静かに口を開いた。 「──けど、遊びなんかじゃない」 「は? 遊びじゃないなら、こいつと付き合う気でもあんの?」  成島の言葉に、悠介はキュと胸が痛むのを感じた。  聞きたくて聞けなかった言葉。哲平は自分とのことをどう考えているのか。その先の彼の言葉を緊張と共に待つ。 「──あるよ」  哲平はその時だけは、成島ではなく悠介を見つめたまま答えた。  いまの言葉は、聞き間違いだろうか。それとも、自分に都合がいいように脳内補正された幻聴?  驚いた顔のまま哲平を見つめると、哲平がそれに応えるように悠介を見つめ返した。 「付き合うつもりだよ。気持ちはもうはっきりしてる」  そう言って哲平はまた成島の方に向き直った。  悠介はただ茫然としながらそんな哲平の背中を見つめた。 「おまえ、頭湧いてんの⁉ 意味分かって言ってるのか⁉」 「あんたに言われなくたって分かってるよ。ちゃんと、分かってる」  静かな部屋に、低音ではあるがはっきりと響く哲平の声。 「──は、バカじゃないのか、おまえ」 「バカでも何でもいいよ。悠介のこと悲しませたり裏切ったり……あんたが心配してるようなことは絶対にしない……だから、ここから出てけよ。悠介が傷つくの心配してるみたいだけど、いま、悠介傷つけようとしてんのはあんたのほうだろ!」  哲平の言葉に成島が驚いた顔をした。  やがて悔しそうに唇を噛み、ゆっくりと立ち上がってから息を吐いた。 「俺は──、認めない」  そう言うと、成島は哲平に殴られて傷ついた口元を押えながら、ソファの上のバッグとジャケットを抱えて、悠介を見据えた。 「今日は、帰る。岩瀬、さっきは乱暴なことして悪かった」  そう言うと、いつもの冷静な表情に戻った成島は静かに部屋を出て行った。

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