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第11話 ①

 成島が部屋を出て行ったのを確認すると、哲平は悠介を振り返った。 「大丈夫か、悠介。怪我ない?」  哲平が訊ねると、悠介が「ああ」と頷いた。  とりあえず悠介に大きな怪我がなかったことと、成島に酷いことをされかかっていたのを寸前で止めることができたという安堵感に息を吐いた。  悠介と会うのは、悠介を抱いたあの夜以来。妙に照れくさく、悠介の顔をまともに見ることが難しい。  そんな照れくささを誤魔化すように、慌ててしゃがみ込んで床に飛び散ったグラスの破片を拾い始めると、悠介もその傍らにしゃがみ込んだ。 「哲平、手切るぞ」 「大丈夫だって。大きいのだけ……」  そう言って大きな破片に手を掛けた瞬間チクッとした鋭い痛みが右手の人差し指に走った。 「……っ」 「ほら、言ったろ」  そう言った悠介が、しゃがんだまま哲平の手を取り、指先の傷口を見た。 「ちょっと切っただけだな。あと俺やるから」  悠介はそういうと立ち上がり、哲平の手を引いたままキッチンに行くと、黙って指先の血を水で洗い流す。いまだ掴まれたままの手。悠介が触れているところを意識する。  さりげなく触れている肩と肩。ふと悠介のほうへ視線を向けると、悠介がそれに気づいたようにこちらを見た。 「ん?」 「いや」  実感する。自分で言った友達じゃないという言葉が、現実味を帯びる。  以前とはあきらかに違う感情が自分の中に芽生えているということ。 「……さっきの。あの人の前でいった事、嘘じゃないから」  哲平がそういうと、悠介はそれが聞こえているのかそれとも聞こえていなかったのか、黙ったまま水道の水を止めて哲平の手をタオルで拭いた。  それからリビングのチェストの引き出しから絆創膏を取り出すと、黙ったままそれを哲平の指先に貼り付けた。 「俺、悠介とのことちゃんと考えてるから」  そう言うと、悠介が哲平の手を離しようやくこちらを見て口を開いた。 「──本当かよ」 「本当だよ」  哲平が悠介を真っ直ぐに見据えて頷くと、悠介が小さく息を吐いた。 「おまえ、分かりにくいんだよ……」 「は?」  悠介が少しイライラしたように頭を掻きむしりながら、恨めしささえにじませた口調で言葉を続ける。 「あの次の日、朝気づいたらいなくなってるし」 「帰るって、置き手紙残したろ?」  仕事だったため一度家に帰って着替えたかったのも事実だが、一夜明けて悠介と顔を合わせるのが気恥ずかしかったというのが本音だ。 「あれから一度も連絡ねぇし」 「そりゃあ、俺だって心の準備とかいろいろ……」 「は? 心の準備って何だよ」 「そりゃ、悠介とあんなことしといて、どんな顔して会えばとかさ……」  小さい頃から傍にいて、幼馴染みとして長年過ごして来た相手──しかも男と、そういう関係になったという事実は翌朝思い返してみればやはり衝撃だったことは否めない。 「こっちは、生きた心地しなかったっつうんだよ! 勢いでヤったはいいけど、やっぱ、ねぇわってなったんじゃないかとか。だとしたら、おまえにとって一生の汚点残しちまったんじゃないかとか……いろいろ考えて眠れねぇし、なにやっててもおまえのことばっか考えるし……ほんと……」  まるで痞えていた言葉を一気に吐き出したような悠介の言葉尻に、段々と勢いがなくなったかと思うと、急にその声が掠れた。  俯いた悠介の肩にそっと手を乗せると、微かに肩が震えていた。 「ごめん……! 俺、ちゃんとしなきゃって思ってさ。悠介不安にさせてんのとか気づかなくて」  自分が、悠介と顔を合わせるのが気まずいとかそんなことを考えている間、悠介が不安な気持ちを抱えていたなんて気づきもしなかった。 「俺、なんていうかちょっと浮かれてた」 「え?」 「悠介と、ああいう事して。正直、半信半疑だったんだよ……悠介の事好きだけど、それって友情なのか、それとも悠介が言ってんのと同じ意味を持つのかって」  事実、そうなってみるまで分からなかった。  悠介を好きな気持ちは、ただの友情なのか、それとももっと人間的であり本能的で生々しい感情なのかどうか。 「俺、あの時、確かに悠介を欲しいと思った。欲情した。それって、悠介の気持ちに──悠介の求めてる“好き”に応えられるってことだろ? だから嬉しくて」  今夜だってそうだ。  成島に組み敷かれている悠介の姿を見て頭に血が昇った。ほんの一瞬でも、あの男に悠介が触れられたというだけで、心の中に凄まじい嫉妬が生まれた。  誰にも触れさせたくない。自分だけのものにしてしまいたい。そんな感情が、どういう意味を持つかなんて火を見るより明らかだ。 「悠介のこと、あの人に渡したくないよ」 「哲平……」 「今まで散々悠介の事傷つけてきたのに、今頃何言ってんだって思うかもしれないけど……俺、昔から悠介のこと好きだったよ。悠介が俺以外の奴と仲良くしてんの見ると面白くなかったし、悠介が俺の事避け始めたのだって、すっげぇ寂しかった。あの時は気づいてなかったけど、大人になった今も悠介に執着してたのって、もしかしたらって」  同性同士の自分たちに、そういう感情が存在するなんて知らなかった。  気づいていなかっただけで、自分もずっと昔から悠介のことが──。 「哲平……」  悠介がそっと近づいて、哲平の身体に腕をまわした。  肩に悠介の顔の重みと、まわされた腕、密着した上体から伝わる体温。と同時に香る悠介の匂い。  不思議な感覚だった。その重みも身体の凹凸も、何もかもが驚くほど自分の身体に馴染む。  柔らかく頼りない華奢な女の身体ではなく、肩も胸の厚みも、骨張った硬さも、自分とさほど変わらない悠介を腕に、こんなにも満ち足りたような気持ちになるなんて想像もしていなかった。 「なぁ、哲平」  悠介の声が耳元で響く。 「俺、本気にしていいのか?」 「──ああ」 「これ、夢とかじゃあ……ないんだよな」  余程自信がないのか、何度も探るように真意を確かめようと言葉を繋ぐ悠介が妙に愛おしく思えて、さらに強く抱き締め返す。 「何言ってんだって。違うよ」  こうして触れて、その温かさを感じて改めて思う。  求められて触れるのではなく、自分から触れたいという気持ちが沸き起こる相手は間違いなく──。 「俺……悠介が好きだよ」  その言葉は驚くほど自分の胸の中でストンと落ちた。まるでずっと探していたパズルのピースがそこにピッタリと収まるように。  悠介が少し身体を離して驚いたように哲平を見つめた。  ──が、一瞬止まった悠介の視線はすぐに所在なくあちこちを彷徨ったあと伏せられた。俯いたままの悠介の睫毛が静かに揺れている。 「悠介?」 「……あ、いや」  また無意識に何か悠介を傷つけるようなことをしてしまったのだろうか、とほんの少しの身長差の悠介の顔を下から窺うように覗き込むと、悠介の表情が照れくさそうに歪んだ。 「悠介?」 「……悪い。俺、頭ん中いろいろ追いついてなくて」   と、半ば狼狽えてながら頬を赤く染めている悠介が、それを隠すように顔を覆う姿に胸の奥がぎゅっと何かに掴まれたようになる。  普段大人びていて冷静な悠介の表情が、自分の言葉一つでこんなふうに歪むなんて想像もしていなかった。  もっと、見たい。自分の知らない悠介のこんな表情を。  もっと、知りたい。悠介がこれまでどんな思いを抱えて過ごして来たか。  ひとつひとつ埋めていきたい。これまで知らなかったことを、ゆっくりと。 「好きだよ」  一年半も付き合ってきた、好きだと信じて疑わなかった小夏にさえ、自分のほうから気持ちを伝えたことはなかった。  小夏を好きだった気持ちは嘘や偽りではないが、いまの悠介に対する気持ちはそれをはるかに上回る。  胸の奥に湧きあがって、温められて溢れる想いは、それを口に出さずにはいられない。 「好きだよ、悠介が」 「……何だよ、バカの一つ覚えみたいに」 「バカでいいよ。やっと自分の気持ちに気づけたんだ。悠介は?」 「は?」 「なぁ、悠介は?」  敢えて訊ねた。 「おまえ……調子乗ってんだろ? 分かっててそういうこと言うか?」  悠介が恨めし気にこちらを睨む。  気持ちを知っていて敢えて言わせようとするなんて意地が悪いのは自分でも分かっているが、自分の気持ちを自覚したからこそ、もう一度ちゃんと悠介の気持ちを聞きたい。 「分かってても、ちゃんと聞きたいんだ。悠介の今の、嘘偽りない気持ちを」  哲平の言葉に、悠介が少し困ったような表情を浮かべてから、まるで仕方ないなというように微笑んだ。   悠介の、幼い頃から変わらないこの表情が好きだった。  口では文句を言いながら、その実哲平の我儘を全て受け入れてくれるようなこの表情が。  いつだって安心できた。どんなときだって自分には悠介がいるんだっていう支えになった。 「決まってるだろ。好きに」  悠介の言葉に、胸が温かくなる。 「どんだけ、好きだったと思ってんだ……。嫌われたくなくて哲平避けて、家まで出て。関わらないようにって思ってたのに、おまえ全然空気読んでくれねぇし。おまけに俺がゲイだって知ってからも会いたいとかさ……。こんな展開、想像もしてなかったよ」  悠介の声が次第に湿り気を帯びていく。 「ほんと……哲平って」 「どうせバカだって言いたいんだろ?」 「ああ。大バカだよ」 「だからバカでいいって言ってんじゃん」  長年気づけなかった想いにやっと気づけた。  その間どれほど悠介を傷つけて来たのだろうか。そんなことを思ったら、悠介にバカだと言われようがそんなことは何でもないことに思えた。  確かに、バカだったのかもしれない。  悠介が自分を避けた理由に気付きもしないで、悠介を苦しめていた。  もっとちゃんとぶつかっていれば良かった。そうすれば、もっと早く自分の気持ちに気付けたかもしれない。悠介を苦しめることもなかったかもしれない。  もっと早く悠介の気持ちを知ったところで、きっといまと同じことだっただろう。  あの時も、今も、悠介を大事に思う、その気持ちに何の変わりもなかったのだから。 「悠介……」  そう呼び掛けて、自分の額を悠介の額にコツンとぶつけた。 「なんだよ」 「キスしていい?」 「……いちいち聞くなよ、そんなこと」  また悠介の顔が照れくさそうに歪む。  触れたい──。本当の意味で誰かを好きになるってこういうことなんだと気づいた。  額をぶつけたまま、哲平はゆっくりとした動きでそっと悠介に唇を寄せた。  悠介の唇は、やはり温かくて柔らかくてしっとりと哲平の唇に重なった。そのまま目を閉じてその感触だけを堪能する。  どれくらいそうしていただろう。焦れたように唇を動かした悠介のそれに応えず、唇を離すと 「哲平……?」  と悠介が小さく首を傾げた。 「ごめん、今はこれ以上は……」  哲平がそう呟くと、悠介が何かを悟ったように表情を変えた。 「本当は今すぐ悠介に触れたくって堪んないんだ。けど、俺まだちゃんとしなきゃいけないこと残ってるから……」  哲平には、悠介と向き合うと決めたことのためにまだやり残したことがある。 「──彼女との、ことか?」 「うん。小夏とちゃんと話をしなきゃならない。実はここに来る前に小夏に連絡してたんだ。少し時間がかかるかもしれない……」  哲平の言葉に、全てを悟ったような悠介が頷いた。 「俺もだな。成島のことちゃんとしなきゃな」  お互い付き合っている相手がいた。  いいかげんな気持ちでその相手と付き合ってきたわけではない。自分にとって小夏が大事な存在であったように、悠介にとっての成島も大事な存在だったのだろう。  その相手を傷つけることを覚悟で、哲平は悠介を、悠介は哲平を選んだ。その代償は大き い。    

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