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第11話 ②

「ちょっと出てこれないか?」  そう言って小夏を彼女の自宅近くへ呼び出したのは、十一月に入ってすぐの週末の夜の事だった。  少し遅い時間だったこともあり、小夏を自宅前まで迎えに行き「歩こうか」と近所の公園へと促した。 「急に来るなんてビックリした。上がってくれたらよかったのに」  哲平の隣を並んで歩く小夏は、夜はもうだいぶ冷えることもあり薄手のコートを羽織っていた。 「ごめんな。ちょっと二人っきりで話したかったから」  住宅街から少し離れた場所にあるこの川沿いの小さな公園は、付き合い始めの頃、小夏とよく訪れた場所だ。  まだ小夏の両親に自分たちが付き合っている報告もしていない頃、デートのあと彼女を家まで送り「もう少し一緒にいたい」という小夏のために、たわいのない話をしながら過ごした場所だ。 「哲くん気づいた? この辺少し明るくなったの。ほら、あそこの電灯とか前はなかったでしょ?」 「ああ。本当だ」 「近頃いろいろ物騒だから、防犯の為らしいけど」 「そうなんだ……」  普段とまるで変わらない態度。しかもどことなく嬉しそうにさえ映る小夏の表情を見ているだけで胸が痛む。  哲平が黙ったまま、公園のブランコを囲う柵のうえに腰掛けると、小夏が哲平と向かい合うようにブランコに腰掛け、静かに漕ぎだした。 「小夏……」  呼び掛けた声が渇く。 「んー、なぁに?」  こうして哲平が会いに来たことを少しも訝しむ様子のない小夏の笑顔に、言おうと思っていた次の言葉がどうしてもつかえてしまう。 「もう! なぁに? こんなところに呼び出すくらいなんだから、家では話しにくいことなんでしょう? 何かあったの?」  小夏の笑顔に、心が揺れる。  けれど、言わなければならない。自分の本当の気持ちを。   「俺と……別れて、くれないか」  勇気を振り絞って言った言葉は、彼女の耳に届いたのか届かなかったのか。  小夏の漕いだブランコのキィコキィコという音だけが静かな夜の公園に響いた。  やがてブランコの軋む音は緩やかになり、小さな砂を蹴るような音が聞こえて、そこでピタリと止まった。 「……いま、なんて?」  ブランコに腰掛けたままゆっくりと顔を上げた小夏は、信じられないという驚きの表情を浮かべていた。 「別れる……? 哲くんと?」  そう呟いた小夏が、ゆっくりとブランコから立ち上がり、哲平の目の前に立った。 「なんで? どうして? 私、哲くんに何かした⁉」  小夏が哲平のスーツの袖を掴んで訊ねた。その表情はさっきまでの温かな笑顔を浮かべた彼女とはまるで別人のようだった。 「小夏は、悪くないんだ。俺自身の気持ちの問題で……」 「やだ……なんで!? 私の何がダメだったの? ダメなところがあるんなら直すから!」 「小夏にダメなとこなんてひとつもないよ。俺が、我儘なだけで……」 「そんなんじゃ分からないよ、哲くん! ちゃんと言ってくれなきゃ分かんない……」  小夏が哲平のスーツの上から腕を掴み、揺さぶった。哲平はされるがまま、小夏の身体を受け止める。 「私が我儘だった? 哲くんにもっと会いたいとか、一緒にいたいとか言ったの負担だった?」 「違う! 小夏は我儘なんかじゃない。俺に会いたいって思ってくれるの嬉しかったし、小夏が俺のこと凄く気遣ってくれてんのもちゃんと分かってた。嫌なとこもダメなとこも何一つないよ……」 「じゃあ……どうして……?」  そう言った小夏の目から涙が零れた。 「どうして? ねぇ、哲くん、どうして……」  小夏がずるずるとその場にしゃがみ込むのを、哲平は胸が張り裂けそうな思いで抱き留めた。 「小夏、ごめん……」  哲平は地面にしゃがみ込んでしまった小夏の肩にそっと手をのせた。  俯いたまま小さな肩を震わせている姿は今にも壊れてしまいそうなほど儚い。 「……やだ」 「ごめん」  次々と溢れて来る小夏の涙をそっと指で掬うと、彼女が涙を流したまま哲平を見つめた。 「……なんで? 私が悪いんじゃないなら、どうして別れたいのか理由を知りたい」  真っ直ぐな小夏の視線に、全てを隠さず話すべきだと思った。   自分の我儘で別れを切り出すのだから、彼女の知りたいと思う全てに真っ直ぐに答えなければいけないと思った。  それが、唯一彼女に対して自分が出来うる精一杯の誠実さの証だとも。 「小夏、立って」  哲平はしゃがみ込んだままの小夏に手を貸し、彼女をゆっくりと立ち上がらせると、近くのベンチまで歩いて行き彼女をそこへ座らせた。  それからスーツの胸ポケットからハンカチを取り出し、そっと彼女に握らせてから小夏の傍に跪くようにしゃがむと息を吐いた。 「……好きな人が、いるんだ」  哲平の言葉に、小夏がピクと反応した。 「小夏を嫌いになったわけでも、大事でなくなったわけでもない。……ただ、小夏より大事な存在がいたってことに気付いてしまったんだ」  小夏は驚いた顔をしていたが、やがて何かに気付いたように哲平を真っ直ぐに見つめた。 「だから……?」 「え?」 「ここ最近、哲くん私と居ても上の空だった。仕事も忙しい時期だって知ってたから、ただ疲れてるのかなって思ってた……」  自分のそういったところに自覚がなかったわけじゃない。  小夏が自分を心配してくれていることもちゃんと分かっていたし、深く追求しないでそっとしておいてくれていることも彼女の気遣いであることくらい十分に分かっていた。 「忙しくて疲れてるんなら、仕方ないかな……って、そう思ってた」 「仕事が忙しかったのは本当だよ。遅くなることも多くて小夏からの誘い断ってたのも本当。──けど、それだけじゃ……なかった」  事実、小夏からの誘いを断って悠介に会いに行ったことがあった。  悠介に会いたかったというのも本音だが、こんな浮ついたまま気持ちで小夏と会うことに罪悪感を抱いたのも本音だ。  いつだって自分にまっすぐな気持ちを向けてくれる小夏を見ていると、同じように真っ直ぐな気持ちを彼女だけに注いでやれない自分が許せなくなる。 「好きな人……って?」  小夏が真っ直ぐに哲平を見つめた。 「ずっと前から知ってる人? 不器用な哲くんのことだもの、昨日今日知り合った相手にそういう感情持って熱くなるって感じには思えないの。……ずっと前から知ってる人なの? 私と付き合う前から? 私と付き合っていながらその人とも会ってたの? いつ好きになったの?」  小夏が涙を零しながら、哲平に訊ねた。  彼女がこの一年半、どれだけ自分を見てくれていたかがよく分かる。どれだけ彼女が自分を分かっていてくれていたか──。 「ねぇ、哲くん……答えて」  そう言いながら、流れる涙を隠そうともせず、まるで子供のように泣く小夏を見ているだけで胸が苦しくなる。  けれど、言わなくてはいけない。 「……ずっと前から知っている相手だよ。けど、最近まで疎遠になってたんだ。小夏と付き合うことになった頃には何の接点もなかったし、ほんの少し前まで、小夏と続くこれからの未来を疑いもしなかった……」 「だったら……!」  小夏が感情を昂らせて言った。 「──ごめん、小夏。俺、このまま小夏と付き合っても、小夏の事傷つけるだけだよ」 「それでも、いい! 哲くんと一緒にいられるならそれでも……」 「できないよ。小夏と居ても、その人のことで頭いっぱいになるんだ。その人のこと以外考えられなくなってしまうんだ。これ以上、大事な小夏を傷つけたくない……」  悠介への気持ちを抑えられないというというのもある。  けれど一番は、この目の前にいる小夏を傷つけることしかできなくなった自分が許せないのだ。 「ごめんな、小夏。俺、最低だよな……」  小夏を好きだと、大事に思う気持ちに嘘はなかった。  ただ、それ以上に惹かれ、求めてしまう悠介の存在。自分の意思だけでは抗うことの出来ない気持ちがあるなんてこと、知らなかった。 「……いや。いやよ、哲くん!」 「小夏」 「別れない……」 「小夏」  すぐに理解してもらえるなどとは思っていない。  哲平は小夏の顔に涙で張り付いた彼女の髪を、そっと指で掬った。 「ごめん……」  小夏が握りしめたままのハンカチをそっと彼女の手から取ると、それで彼女の涙を拭う。  できれば大事にしたかった。こんな形で傷つけるようなことはしたくなかった。けれど、自分の気持ちを殺し、このまま小夏の傍にいたとしても結局は彼女を傷つけることになる。 「ごめんな、小夏……」  呼び慣れた彼女の名前が、自分の声を通して静かな公園に響く。  こんなふうに傷つけてしまうのなら、いっそ出会わなかったほうがよかったのだろうか。  それでも、かけがえのない相手だった。こんなふうに自分を愛し、甘え、真っ直ぐな好意を示してくれた小夏を哲平とて愛していなかったわけじゃない。 「落ち着いたら、帰ろう。送るよ」  立ち上がった哲平がそう言うと、小夏がベンチから立ち上がって哲平の胸にしがみついた。 「哲くん、いや……」 「ごめん」 「好きなの。哲くんが好きなの」 「分かってる」  好きだと返してやれなかった。  小夏を好きな気持ちは、もう以前と同じ響きを持たないことを哲平は知っている。 「哲くん……」  哲平は、自分の名を呼びながら小さな肩を震わせ涙を流す彼女の身体を、ただやんわりと受け止めてやることで精一杯だった。

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