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第11話 ④

 クリスマスや正月を過ぎ、小夏がようやく哲平と会う事を了承してくれた頃には、別れ話を切り出してからすでに二カ月経っていた。  何度も連絡をしたが、小夏がそれに応えてくれることはなく、彼女にも気持ちの整理をつける時間が必要かとしばらくはそっとしておいた。  その間、悠介と会う事はなく、たまに電話やメッセージを送り合う程度に止めたのは、やはり小夏に対して筋を通したかったというのが理由だ。  あの夜からずっと、小夏はどんな気持ちで過ごして来たのだろうか。彼女のことを考えると胸が痛むのは、やはり小夏が哲平にとって特別な存在であったということだ。過ぎたことは過ぎたこととして、あまり人には執着がないほうだった。けれど、小夏に対しては、傷つけた原因を作ったのが自分だということを差し引いても、特別な感情が残ったのは確かだった。  哲平なりに彼女の事を大切に思っていた。それは紛れもない事実だった。  付き合っていた当時、よく仕事帰りに待ち合わせをしたカフェに小夏が姿を現したのは、哲平が飲み物を注文して席に着いてもなくの事だった。  小夏がよく自分を待っていてくれた窓際の席。そこに座る哲平に気付くと、小夏が懐かしい柔らかな笑顔を見せた。  それからゆっくりとこちらにやって来て「久しぶりだね」と言って向かいの席に座った。久しぶりに見る小夏の姿。見た目の可愛らしさは変わらないが、やはり少し痩せた気がする。 「これ。カフェオレでよかったか?」 「うん、ありがとう」  哲平が小夏の前にあらかじめ用意しておいた蓋付きの紙コップに入ったカフェオレを差し出すと、小夏がそれを受け取り、口元を緩ませた。 「哲くん、いつもこれ注文して待っててくれたよね」  小夏の好みはもちろんよく分かっている。こうして小夏の分まで用意して待っているのは癖のようなものだ。 「……ごめんね。哲くん何度も連絡くれたのに逃げてばっかで」  久しぶりに会った小夏は、あの夜とは違い、随分落ち着いた様子だった。 「何言ってんだよ。そんなの当然だ。俺が悪い……小夏の気持ち考えもしないで、何度も連絡したりして。ひとりでゆっくり考えたいって思うの普通だよ」  哲平が言うと、小夏が飲み物に口を付け、一瞬顔をしかめた。彼女は猫舌だ。 「熱かったんだろ……気を付けろっていつも言ってんのに」  そう言って彼女の方へ伸ばし掛けた手を、哲平は慌てて引っ込めた。ここ数カ月会っていなかったとはいえ、小夏を見ていると付き合っていた頃の感覚が蘇って来る。 「ごめんな。傷つけてばっかで……」  哲平の言葉に小夏がふるふると首を振った。 「そんなことない。幸せだった……哲くんと一緒に居られて。大好きだもの」  今までだったら自分も同じ気持ちだと答えてやれた。いまはそれができないことに胸が痛む。 「悠介さんとは? 会ってるの? 私、結局紹介してもらえないままだったな……」 「……」 「私ね、本当はなんとなく気づいてた。哲くんが、他の誰かを見てるんじゃないかってこと。それが、もしかしたら悠介さんなんじゃないかってことも。でも気づかないふりしてた。気のせいだったらいいのに、って自分で自分に言い聞かせてたから」 「……気づいてたのか」  自覚がないわけじゃなかった。悠介と再会してから、小夏といても悠介の事ばかり考えるようになって、デートをしていてもどこか上の空になっていったという自覚はあった。  自分では小夏に気付かれないよう自然に振るまっていたつもりだが、実際はそう振る舞い切れていなかったということだ。 「悠介さんと会う機会増えて……最初は仲いいんだな、ってくらいにしか思ってなかったんだけど。哲くんだんだん私と会ってても、上の空で。そのくせ悠介さんから連絡あったりすると、嬉しそうな顔するの。正直妬けたもの」  ──最低だな。  気づいてて、気づかないふりをして普段通りに振るまってくれていた小夏の優しさに自分は甘えてばかりだったのだ。 「どうして……相手が悠介だと思った? 普通、考えも及ばないことだろう」  そう、普通は。同性同士仲が良くてつるんでいることは一般的にもあるが、仲がいいからといってそれはあくまで友人としてと思うのが普通だろう。 「哲くん、器用な人じゃないもの。特に女の子に対しては」  そう言うと小夏が何かを思い出したように、ふふと笑った。 「ねぇ、哲くん。初めて会った飲み会でのこと覚えてる?」 「え?」  小夏との出会いはもちろん覚えている。半ば無理矢理、人数合わせで連れて行かれた飲み会で、居心地の悪そうにその場にいた哲平に、話し掛けてくれたのが小夏だった。  自分より年下なのに、気遣いに溢れていて、楽しそうに会話にのってくれる彼女に小さく心躍ったことをよく覚えている。  笑顔がとても可愛らしく、人を自然と和ませるような雰囲気を持っている彼女に、どこか癒されていた。  仕事柄人と話す事には慣れていたが、同世代の女性と話をすることは苦手だった自分が、唯一リラックスして話せた相手。  そこはかとない好意を持ったのはもしかしたら自分の方が先だったのかもしれない。 「あの時ね、何がきっかけだったのかは覚えてないんだけど、同性同士の恋愛の話になってね。みんながそういうのあり得ないとかって言ってる中、哲くんだけが『べつにいいんじゃない』って言ったの、覚えてる?」  小夏との出会いはいまでも鮮明に覚えているが、その他のこと、しかも会話の内容までは覚えていない。 「いや、ごめん。全然……」  哲平が答えると、小夏が小さく微笑んだ。 「哲くん、言ったの。『人を好きになるのに性別なんて関係ないだろ。人間的に好きになるってこともあるし、そういうの否定するの俺はどうかと思う』って」 「……そんなこと、言ったか?」  自分は本当にそんなことを言っただろうか。  確かに基本的にそういう考えに近いことは思っているが、何を以てそういう発言をしたとか、その時何を言ったとかまでは記憶にない。 「私、まえに兄がいるって話したことあったでしょう。それは覚えてる?」 「ああ、それはもちろん」  哲平が答えると、小夏が一瞬だけ躊躇うように視線を動かしてから静かに言葉を続けた。 「私の兄ね……同性愛者なの」 「え?」  衝撃というほどではないが、小夏の言葉に哲平は驚きを隠せなかった。  小夏から家族の話はよく出ていたが、兄の話はほんの触れる程度であった。小夏と仲がいいことは聞いていたが、顔を合わせたことは今まで一度もなかったし、そんな話を聞いたのも初めての事だった。 「お兄ちゃんね。昔から、そうだったの。小学生の頃はそうでもなかったんだけど、中学に入ってからなんとなく浮いた存在になってね。どこでそういう噂が広がったのか、クラスメイトに酷い事されるようになって……」 「……」 「お兄ちゃんとは歳も二つしか違わないから、学校が一緒になることもあったし、そういうのなんとなく気づくようになって……お兄ちゃんに聞いたら認めたの」  小夏は当時の事を思い出したように切なげな表情を浮かべた。 「お兄ちゃん、いろいろ辛い思いしたんだと思う。それでも私にはいつだって優しくて、私はお兄ちゃんの事が大好きで……」 「うん」  哲平は頷いた。 「だからね、嬉しかったの。哲くんが、あの場でああいってくれたことが。兄みたいな人たちって偏見受けること多いけど、哲くんみたいにそんなこと関係ない、おかしなことじゃないよって言ってくれる人もいるんだなって……」  小夏がカフェオレの入った紙コップを両手で包み込みながらほんのりと頬を染めた。 「私は哲くんと違って、あの時出会いを求めてあの場にいたの。最初に見た時、見た目とか雰囲気とかが好みだったってのももちろんあるんだけど、その時だったと思う。哲くんのこと、いいな、素敵だなって思ったの……」  小夏が哲平を真っ直ぐ見つめて言った。  ああ、そうだ。あの時もこんな真っ直ぐな目をして彼女は言ったんだ。 『もしよかったら、私と付き合ってもらえませんか?』  嬉しかった。可愛いと思った。  恥ずかしそうに頬を染めて、真っ直ぐに自分を見つめて好きだといってくれた小夏の事が。 「哲くん、私が付き合ってって言ったときすごく驚いてた」 「本当に驚いたんだよ」 「しかもみんなの前で私がいきなりあんなこと言っちゃったから、哲くん断るに断りきれなかったよね」 「何言ってんだよ。嬉しかったよ。驚いたのはなんで俺みたいな愛想ない奴に、って思ったからだし」 「本当? 無理して付き合ったんじゃなくて?」  小夏の言葉に、哲平は無意識にドンとテーブルを叩いていた。 「そんなわけないだろ。本当に嬉しかったよ」  忘れてはいない。あの時の小夏の言葉も、その表情も。  本当に、嬉しいと思ったのだ。こんな子が自分を好きだと言ってくれていることがまるで夢のようだと──。 「私は、哲くんにちゃんと好きになってもらえてたかのかな」  小夏が静かに訊ねた。 「当たり前だよ。小夏のこと大事に思ってた。もちろん、今だって……」  好きだよ、と言いそうになったその言葉を哲平が飲み込むと、小夏が少し寂しそうに微笑んだ。 「いつだって誰にでも優しくて、何でもフラットに受け入れられる哲くんが好きだった。だから、哲くんの好きな人が悠介さんだって分かっても、そういうのやっぱり哲くんだからこそなのかなって……思った」 「……小夏」 「あれからずっと考えてたの。どうするのがいいのか、って」 「うん」  悩ませて傷つけてごめん──。哲平はただ心の中で謝るしかなかった。 「別れたくないよ──でも。傍に居ても哲くんが自分をみてないって事の方が辛い。だって、大好きなんだもん。まだ大好きなの。大好きな哲くんに嫌われたくない……」  嫌いになどなるわけない。  好きなんだよ、ちゃんと。そう思う気持ちを伝えることを躊躇ったのは、彼女に変な期待を持たせることの方が罪であると分かっているから。 「ちゃんと分かってるの。哲くんがたいした覚悟もなしに別れようなんて言う人じゃないってこと。それだけ悠介さんに対する気持ちがホンモノだってことも──」  小夏が俯いて唇を噛んだ。  小さな肩が震えている。きっと涙を我慢しているのだ。分かっているのに手を差し伸べてやれない。その溢れそうになっている涙を拭ってやることもできない。  辛かった──けれど、それ以上に辛い思いをしているのは目の前にいる小夏だ。 「小夏……」 「別れてあげる。……ごめんね、本当はもっと明るくなんでもないやってふうに言うつもりだったの。でも、哲くんの顔みたら、やっぱり好きだなって思っちゃって無理だったよ……」  そう言って深く俯いた小夏の顔からポロリと涙が零れた。   「出よう、小夏」  哲平は椅子から立ち上がり、空になった紙コップを手早く片づけて小夏の手を引いて店を出た。  明るいカフェの店内で泣いている彼女を何事かと見つめる客の好奇の目から遠ざけてやりたかった。  店を出て数メートル歩いたところにある路地の隙間に彼女を促し、ハンカチを差し出した。通りを歩く人の目から遮るように、哲平自身は通り側に立つ。 「ごめんね、哲くん……」 「謝るのは俺の方だよ。ごめん……」  こんなにも彼女を傷つけて、自分は一体どう償えばいいのだろう。 「本当に、ごめんな」  震える肩を抱き寄せてやれない。  こんなにつらそうな彼女に何もしてやれない。  胸が痛かった、心が揺らぎそうになった──それでもやはり自分の気持ちに嘘はつけない。そして、これ以上小夏を傷つけることもできない。  どれくらいそうしていただろう。  小夏がゆっくりと顔を上げた。 「もう、大丈夫。ありがとう」  ぎこちなく微笑んで、哲平の手にハンカチを握らせた。 「本当はこれ洗って返したいけど。そしたら、また会わなきゃいけなくなっちゃうし、このまま返すけどごめんね」 「小夏……」 「今日で最後。そうするって、ちゃんと決めて来たもの」  そう言った小夏が、真っ直ぐに哲平を見つめた。 「哲くん、別れよう」 「小夏」 「私からちゃんと言わないと、終わりに出来ないかなって思って」  小夏がまたぎこちなく微笑んだ。 「いままでありがとう。大好きだった」 「俺こそ、ありがとう」 「私の事……本当に好きでいてくれてた? 最後の我儘。哲くんの言葉で聞かせて欲しい」  小夏のその真っ直ぐな目から、それが本当に彼女の望むことなのだろうということを悟った。  彼女が最後にそれを望むのなら、哲平は精一杯の気持ちでそれに応える必要があるのだと思った。 「もちろん、好きだったよ。明るくて可愛くて、優しくて気遣い屋で……俺には勿体ないくらいの自慢の彼女だった。一緒に過ごした時間は最高に幸せだったし、小夏以上の女の子なんていなかった」  本当にそう思っていた。もっと彼女のいいところはたくさんある。それを全て言葉にできたらよかったのだが、込み上げて来る熱い感情で胸がいっぱいになってしまった。  燃え上がるような恋ではなかったけれど、温かくて穏やかで、確かにそこに気持ちがあった。 「……ありがとう」  そう言った小夏は、今度はぎこちない笑顔ではなく、涙を拭いながらも嬉しそうに微笑んでくれた。  それは、とても小夏らしい、哲平の大好きな彼女の笑顔だった。

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