9 / 19
みっしりとつまる
「木ノ下先輩ホモってマジっすか」
唐突にかけられたとんでもない問いかけに、思わず固まってしまった。
いつもの研究室、時刻は昼過ぎ。机に広げた学生のレポートを分類する作業をしていたときのことだった。
ふいにこちらに向けられた言葉はあまり、嬉しいものではなく、その言葉の発信者もたいして仲が良いとも言えない、名前もあやふやな男子だ。友人が席を立っていたので、たぶん暇だっただけなんだろうけど、いきなりその言いぐさはないだろうと思う。
思うが、怒るのも面倒で溜息一つでどうにかこらえた。
今日は早退というか、午後から用事があるからさっさと作業を片づけたい。無駄話に割いている時間と体力がもったいない。
「……それ、誰が言ってたの?」
「え。学部の先輩っすけど。あと女の子とかちょう騒いでたし。イケメンなのに彼女いないのってコミュ障が原因じゃなくてホモだったからなんだねーとか。あと最近ピアスとかつけちゃって、アレ絶対彼氏の束縛だよとかー。あ、でも木ノ下先輩って二年の川端と付き合ってたんでしたっけ? ほら、川端最近学校きてないから、ふられて傷心なんじゃーとかそういう噂もあるし」
「…………」
随分失礼な言葉の連続に、眉間に力が寄ってしまった。
まずい。よろしくない。睨むと本当に怖いと高校時代に言われてから、極力顔に力を入れるのはやめていたけど、でもだってこれは酷いなーと思うし仕方ないんじゃないの。おれじゃなくても怒るでしょ。
噂とかあんまり好きじゃないけど、言うのは勝手だと思う。ただ、それを本人にわざわざ伝えてきたり確認してきたりする人間が、おれはちょっとよくわからない。
ねえそれ言ってどうすんの。こういうこと言われてますけどホントですか? って確認してどうすんの。
そんな風に思ってしまうのは、最近うまく眠れていないストレスのせいかもしれなかった。
夜になると隣の部屋から足音がする。
コツコツと叩くあの音は無くなったが、バタバタと駆け抜けるような足音が、定期的に響いた。その度におれはびくりと恐怖に固まってしまう。この部屋は大丈夫。そう思っていても、怖いものは怖い。
昨日なんかは深夜三時ぴったりにインターフォンが鳴った。
ぴんぽーん、と、響いた無機質な音に、おれが跳び起き桑名さんも青ざめたことは言うまでもない。桑名さんの部屋を訪れる人間は巻さんくらいだったし、彼なら事前に連絡をするはずだし、インターフォン鳴らす時はもうちょっとうるさく二、三回連打する。
結局鳴ったのは一回だけで、一応ドアスコープ覗いて帰ってきた桑名さんは、真っ青な顔で『寝ようか』って言ったからきっとなんか居たんだろうけど、おれには何も言わなかった。桑名さんが青ざめるレベルの何かを、おれは聞きたくなかったのでおとなしく桑名さんに抱きついて寝た。
一応ベッドがおれで床に敷いた布団が桑名さん、と割り振っているけれど、どちらかと言うとベッドを活用した試しがない。結局おれが恐怖で桑名さんの布団にもぐりこんでしまうのが原因だ。
昨日は外が明るくなる頃合いまで眠れなかった。
桑名さんも同じようで、珍しく欠伸を連発しながら出社した。本当に、おれなんかの隣室になったせいですごく迷惑をかけているのに、良いよ別にだって俺木ノ下くんに頼りにされたいからね、なんて笑うあの人は神様かと思う。
ちょうかっこいい。やさしい。……結構本気で好きだ。だからまあ、ホモかと言われたら実際そうなのかもしれないけど、わざわざ公言することでもないし、実際おれがホモだったとしてもほっとけよと思うわけだ。
あとピアスは、巻さんの伝手の霊能者さんから送ってもらった除霊お守りグッズだ。ちなみにたぶんめちゃくちゃ効いている。一度うっかり忘れて外出した日があったが、バス停前で焼け焦げた手に引っ張られて車道に飛び出しそうになったから、慌ててピアスを取りに戻った。
穴をあけるのは勇気だったし結局自分で出来なくて桑名さんにやってもらったし、ピアスは一個しかなかったからもう片方は桑名さんが買ってくれたし、彼氏からのプレゼントと言われたらそんなものかもしれないけど、それにしたってやっぱりほっとけよという話だ。
……川端さんがあの居酒屋の一件以来、ぱたりと姿を現さなくなったことは知っていたし気にはなっていた。
でもおれにできる自衛策は『なるべく関わらない、なるべく彼女のことは考えない』ということだったので、あえて今は無視をしていた。
川端さんの事よりも、まずは自分の生活が第一だ。
明らかに機嫌が悪くなったおれを見ても、謝るでもない男子学生はある意味すごい。
「木ノ下先輩がホモだったらちょっと相談があるんですよ~、俺、この前合コンで知り合った奴がゲイでー、ちょっと仲良くなっちゃったんですけどこれってもしかして狙われてるんすかね? 超ラインくるんですけどー、これ友情? ケツの危機?」
「……おれゲイじゃないし、本人じゃないから知らないよ。本人に聞けばいいんじゃないの」
そもそも、そんなプライベートな話を赤の他人にぺらぺら喋るお前のことからしてわからない。
わかりたくもないし、一生分かりあえないだろうし、喋るのも面倒になってきて作業に没頭するふりをした。こういう会話の切り方してるから、木ノ下さんは怖いとか言われるんだろうなと思う。
もうちょっと桑名さんみたいに余裕を持った大人になりたい。たぶん桑名さんなら、もっと柔らかく学生を諌める言葉をかけるんだろう。その余裕がおれにはなくて、悔しいような面目ないような、重い溜息を呑み込んだ。
作業を終える頃には部屋には学生が増えていて、おれに話かけた学生も他の女子や男子と一緒に雑談をしている。いつもならまあ賑やかでいいんじゃないの、と思うその光景も、騒ぐだけなら帰ればいいのにと思ってしまって、あーだめだこれ完全に睡眠不足が精神不安定に繋がっている。
巻さんがよく言っている。オバケと対峙する時に一番大事なのは気持ちの強さとポジティブ感、という言葉が頭をよぎる。
とにかく明るい気持ちでいれば何があっても大概平気だと言われたけど、うんまあ、おれだってそうありたいけど、夜中の三時にピンポンされるような生活の中でどうポジティブ感出していけばいいのかちょっとわからない。
とりあえずなんか飲んで落ち着こう、と思って共同の冷蔵庫を開けたら、――目が空洞になっている女が、冷蔵庫にみっしりと詰まっていた。
「―――――――……ッ」
悲鳴は、どうにか抑えた。
こんなとこで叫び声をあげたら、奇人か変人の仲間入りだ。
そう、考える余裕はあった。若干ながら、こういう現象に慣れてきている自分が辛い。
あり得ない方向に曲がっている上に、どう考えても腕が長い。身体を三周くらいしているような気がする。
真っ黒な目の部分は腐った様にどろりと溶けていて、口もうつろな空洞だった。
それでも目が合っているのがわかる。
できるだけ、ゆっくりと、冷蔵庫の扉を閉める。
何事もなかったかのように、自分の机に戻って座ってカタカタ震える手でスマホ握った時にカタン、と音がした。何、と思って視線を上げると、机の向こうから頭半分をのぞかせているさっきの黒い目の女と目があった。
やばい、叫ぶ。
それをぐっとこらえる為に口を押さえ恐怖と吐き気を呑み込んだのに、今度は後ろから肩を叩かれた。
「ヒッ……!?」
「……ビビりすぎっしょ、木ノ下。そんなに私の気配って希薄だったかな」
耳慣れた声に思わず振り向くと、研究室の先輩が立っていた。
今日も見慣れたパンクなティーシャツに、細身なジーンズを穿いている。まるで十代女子のような服装が微妙に似合っていたが、確か三十歳に近いくらいの女性だった。
「高瀬さ、ん、……っあー……びっくりした」
「そこまでびっくりせんでも……あれかな、私忍者になれるかな。研究室捨てて戸隠で修業始めたほうがいいかな」
一ミリも笑いもせずに真顔で言うのはこの人の性格だ。
なかなかの美人なのに、ちょっと変な人だからやっぱり学生たちは高瀬さんと距離を取っている。
ちらりと見た机の向こうに、もうあの腕の長い女はいなかった。
「……伊賀とか甲賀とかじゃないんですね……あー、高瀬さん実家長野か……」
「何、具合でも悪い? 突っ込みにちょっと切れがないし顔青いよ最近メシ食って、あー違う違う、雑談しに来たんじゃなかった。木ノ下、お迎え来てるよ? きがえねーでいいの?」
「迎え……っあ!? うそもう三時!?」
「三時半。なんか、携帯繋がんなかったからって言って学生課に来てたから連れてきちゃったよ。ほれ、言い訳してきなされ」
「え!?」
入口のドアを見れば、確かに私服の桑名さんがひょっこりと顔を出していた。おれと目が会うと、ちょっとびっくりしたみたいな顔になって、その後手を振ってくれる。かわいい。いや違うそうじゃなくて。
「く、わなさんごめんなさいうっかりしてて、いま行きますからちょっと待っててくださ、あ、巻さんも待たせてしまってごめんなさいって伝言……っ」
「あーいや俺も巻も別に休みだし大丈夫だし、急いでないから。約束は夜だし。あと大学入る口実あっておもしろかったよ、ゆっくり支度しておいで」
「はい、すいません、そう言っていただけると……、何です?」
やたら顔を見られてる気がする。
何だおれの後ろにさっきの腕の長い女でもいるのか、と思って息を詰めると、真面目な顔で桑名さんが囁いた。他の人には聞こえないくらいの音量で。
「いやね、白衣と眼鏡、いいなーと思って。ちょっと新しい方向の萌えを開拓したような気に、痛い、木ノ下くん痛い、」
「……そういうのうちでいってくださいばかですか」
「なんか、木ノ下くん真っ青だったから、また心霊某があったのかなーと思ったので。っていうのは言い訳か。言い訳だな。なんでも口にすぐ出すのやめたいんだけどさ、だって言うとかわいいからつい。まあいいや、着替えておいで。俺は別に白衣のままでもいいけど」
ふわりと笑う顔がタラシくさくてもうやだ。
急いで机に戻って書類片付けてロッカーに白衣しまって、ついでに高瀬さんに引き継ぎした。学生たちの視線がちょう痛い。特におれにホモかと聞いていた奴のにやにやした顔がちらりと見えてもやっとした気持ちになったが、ここで親戚ですとか友人ですとか訊かれてもいないのに宣言するわけにもいかず、また溜息を呑み込んだ。
「じゃあすいません高瀬さん、あとよろしくお願いします。明日までに終わっておけばいいそうなんで」
「はいはーい。了解。じゃあいってらっしゃい。デート?」
「そんなんで研究室休みませんよ。なんですか、高瀬さんまでそういうこと言うんですか」
「んー噂とかそういうのはあんま興味ないんだけど、さっき喋ってた時の木ノ下、やったら輝いてたから。あれれ? って思ってしまいまして。何よーイケメンと知り合いならご紹介願おうと思ったのに、っていう個人的事情もありまして。じゃあ素直に聞くけどお迎えの彼、今フリー?」
「…………彼女持ち」
「木ノ下ってよく観察すると全然ポーカーフェイスじゃなくてかわいいよなぁー」
「……駄目ですからね」
念を押すとけたけた笑われたが、あんまり信用ならない。
研究ではすごく真面目な人だけれど、高瀬さんはなんだか掴みどころがない人で、レズだとかバイだとか裏でSM嬢掛け持ちしてるとか教授の奥さんを寝とったとか教授とも実は関係があって泥沼になったとか、そんな無茶苦茶な噂が時折耳に入る。
おれも噂は好きじゃない。でも本人と接しているだけでも、なんだか妙にアヤシイ人だなという感じはするから、いまいち噂を払しょくできていなかった。
高瀬さんに作業を引き継いで、行きましょう、と桑名さんを促した。
学内を歩きながら巻さんは車で待っていると言われる。
「さっきのおねーさん、なんかすっごいな。さらっとナチュラルに口説かれた上に合コンに誘われたわ。いやー手練だ」
「え。まじで」
……釘さす前にもう手を出されていたんだけどどういうことだ高瀬さん。
「桑名さん口説かれちゃった、んですか?」
「んーあー。まあ、タイプではあるけどね。クール系ってギャップが結構かわいいところあるし、頭よさそうな人間は会話楽しいしなー。とは思ったけど俺はもうクール系ギャップ萌えがかわいい子にぞっこんなので、おねーさんと連絡先の交換はできない旨伝えましたね」
「……高瀬さんも強いけど桑名さんもつよい……次元が違う……」
「あれ、俺が乗り換えた方が良かった?」
「やだ」
「うん。即答かわいい。合コンしませんかっていうお姉さんには巻の連絡先を教えておいたんで、勝手にそっちでいろいろやったらいいと思うね。俺は木ノ下くんで手一杯」
付き合いましょうとか、おれも好きですとか言ってないのに、桑名さんはゆるゆるとそれを許してくれる。たまに好きだよって言われる時に、おれもって言おうか迷う。でもなんか、言ったら後戻りできないっていうか、いやもう後戻りなんかしないんだけど。
……なんとなく、心霊現象とかそういうの、全部片付いてからかな、と思っている。今はまだ、同情かもしれない。おれの方も、レンアイ対象として好きなのか、頼りになる友人の最高レベル的感情なのかわからない。
キスされたら気持ちいいし、好きって言われたら嬉しいけど。
「そういえば、大学って『廊下は走るな』的な感じ?」
ひとりでもんもんとしていたところ、急に桑名さんに話しかけられ我に返った。
「……いや別に。そりゃ走らない方がいいでしょうけど、小学校みたいに怒られたりとかは……」
「まあそうか。会社だってそうだしな。じゃあ、エントランス出たら車まで走ろうか」
「え。なんで」
「…………すっごい腕の長い女がさ、腕引きずってついてきてるんだよね」
ああほら、今のおれは本当に恋愛どころじゃなくて、遠のきそうな意識をどうにか引きとめて、いつもみたいに桑名さんに抱きつきそうになるのもこらえて唾を飲んだ。
本当に好きとか嫌いとかそれどころじゃない。正直ここまで来ると生きるか死ぬかレベルの実害がある。
「人間の足で振り切れるもんなんですかね」
「どうかな。でもまあ、どうせ今からみんなでお祓いに行くわけだし、一緒に来てもらっても構わないけど、……一応成人男子の脚力なめんなよって気分で走ってみてもいいかな、と俺は思う」
「……お祓いにこれついてきたら、追加料金とかとられたりするのかな……」
「どうかなー俺お祓いとか初体験だしな。まあとりあえず、」
走ろうか。
にっこり笑われて、その顔が最高に好きで、なんかもう噂とかどうでもよくなって、おれも苦笑いで応じて一気に走った。
ともだちにシェアしよう!