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圭一のひとりがたり
懐かしい話をしよう。
さて・・何処から話そうか。
そうだな。
まずは私のいる国の話をしようか。
この国は、全てが変わってしまった。
軍事増強を推し進めた明治から大正へと時代が変わってはや数年。
地下空間に眠る『コス』と呼ばれる無限の蒸気エネルギ―を、当時科学者であった
片桐藤十郎率いる研究チ―ムが発見したのは、今から八年も前の事になる。
特殊な装置を使い『コス』を細胞分裂させ、別のエネルギ―へと変換させることに成功した彼は、このエネルギ―を別の物に使えやしないかと、協力案をあらゆる企業に持ち掛けた。
度重なる協議の結果、数多くの企業が賛同し、また新たに研究チ―ムが組まれ、その研究に興味を持った政府が資金援助を行い、片桐藤十郎は仲間と共にコスを蒸気エネルギ―に変換させるという偉業を成し遂げた。
過去に起こったイギリスの産業革命を我が国にも!という期待は瞬く間に国内に広がり、コスの力を利用して、鉄鋼業を中心に産業が盛んになり、今度は争いではなく他国との友好的な貿易を中心とした時代を迎えるべきだとの声も多く、度重なる和平交渉の末、多国間との貿易も徐々に増えていき、その後押しもあって、帝都はどこにも負けないほどの強大な蒸気機関都市へと変貌を遂げたのである。
明治二十七年の日清戦争。
三十七年の日露・・・・・。
諸国間の戦争は、結局何も生み出さなかった。誰もが傷つき、多くのものを、人を、同胞を戦火と共に失った。それはどの国も同じだった。
・・・そう・・・我が国も・・多くの人を失い、傷ついたものが大勢いた。
それは、紛れもない事実だったのだ。でも、希望もあった。
他国に比べて、資源力の乏しい我が国に宿った「コス」という名の一筋の光。
それらはやがて多くの富を国に与えてくれたのだから。
そうして安定供給が行われて現在、飛行船の他に、街は車や機関車が空間道路や空中線路を飛び交うように走り、遠くの煙突からはもくもくと立つ蒸気がガシャンガシャンと吹き出している。
雲にまで届くのではないかと思う程の高さの建物が空に向かって建っている光景が遠くに見える。
金属板やトタンの壁が剥き出しになった奇妙な西洋風の建築が立ち並ぶ路地は、通称『工場街』と呼ばれ、ここから数多くの製品が製造・出荷され国内外へと送られている。
勿論、そんな町ばかりじゃない。工場が立ち並ぶ狭い路地を抜けると、昔ながらの和風建築の建物に並ぶようにカフェーにダンスホールをはじめとした西洋風の建物が違和感なく並んでいる。大正時代に入るまでは洋食を口にできるのはいわゆる華族の身分を持った者だけだった。でも今は違う、西洋料理が広く大衆文化にまで広がり、我々のような庶民も店で気軽に洋食を楽しめる時代になったのだ。
それだけじゃないな。衣服もそうだ。
悪くはない。けれど、寂しい。
まあ、これは私の感性の問題なのかもしれないが・・・。
私は行灯に点したロウソクの火が割と好きだったのだけど、帝都は田舎とは違い、今まで家々の灯りを照らしていた火つけ油やロウソクはなりを潜め、代わりにコスを使用した吊りランタンが家々を照らしている。
街に立つガス灯もコスを使用した特殊な蒸気ガスのおかげで消える事無く夜道を照らしてくれる。そのおかげもあってか、夜道を歩いていて急に暴漢に襲われるなんて運の悪い事件は、あまり耳にした事が無いし、仕事や学業で遅くなっても安心して道を歩くことが出来るようになった。
良い事だと私は思う。
士農工商の身分制度は明治に廃止されたとはいえ、人々の中に身分の格差が根強く残っているのもまた事実で、それを拭い去ろうとするかのように、片桐氏が『すべての国民に平等なる文化と社会を提供する。誰もが安心して生活の出来る社会が訪れる事を私は願っておりました。今は道が遠くとも、必ずや実現させたいと願う私の夢であります』と話すスピーチがラヂオから流れたのは春の風吹く五月の頃で。
それを耳にした人々は歓喜の渦に包まれたという。
彼の信念を受け継ぐように、片桐家はまだコスが普及していない地方への安定したエネルギー供給を実現させるかの如く、カンぺニーを新しく設立し、夢への実現に奔走している・・らしい。とは言っても、そんな事。一介の書生の僕には全く関係ない事なんだけどさ。
最初はこのエネルギーからくる恩恵欲しさに数多くの華族が我先にと買い占めようとしたらしいけど、一喝されて終わっちゃったらしい。ハハハ。ザマーミロ。
ブルジョアどもがこぞって欲を出すからそうなるのサ。ごふん。失敬。
そうして、国内で起こった産業革命の波の中で日ノ本のひとつ。
歴史ある国、帝都東京は帝都東響へと名前を変えた。
今や地方に住む若者にとって、蒸気機関都市東響は夢の街へと変化を遂げていったわけだ。
町を颯爽と歩くモガ姿のモダンガァルの華やかな事。いいねえ。帽子が似合ってる。
短い髪も素敵だな。溌剌としたその笑顔の眩しい事。こりゃ、道行く男が振り返るのも無理はないって感じかな。
でも、ブーツ姿に袴を穿いた女学生も美しくて目の保養になるなぁ。洋風文化も確かにいいけれど、本を片手に黒々とした髪を後ろにリボンでちょこんとまとめた娘さんが「あら。霧谷さんではありませんか」なんて言いながら微笑んで僕を見てくれる。
嗚呼、いつか夢でもいいからそんな情景に足を踏み入れてみたいものだ。
つらつらと脳内でそんな事を思いながら町を歩いているのは、霧谷圭一という名の書生である。歳は二十一になる、やや小柄な青年だ。
紀州の山奥にある小さな村から、ここ東響へと上京したのは今から二年も前の話になる。
田舎で通った尋常小学校を卒業したまではいいけれど、その後が良くなかった。
病気がちだった兄の代わりに働かねばならなくなった事と裕福ではなかった事が災いして高等小学校に通う事が出来なかったのだ。
それは仕方がないと今でも思っているし、その合間に本を見る事だって嫌ではなかった。けれども、黙々と仕事の合間に勉学に励む私を見ていた兄が、結果はともかく、村長に話をつけて来るから隣の村にある高等学校の試験を突発で受けてみろと言いだして、受けた結果が飛び級。中学も年齢も何もかもをすっ飛ばして合格し、しかも飛び級をしてしまったものだから、当然、風当たりも強ければ家族の心中も、さぞや複雑なものだったに違いない。
それでも学ぶ場が確保された事には間違いがないし、受かったのだからと通う事にはしたけれど、ほんとにさ。何度『行けっ!田吾作!』『飛べ!玉三郎!』と奴らの顔に飼い猫をけしかけたくなったか分からない。それくらい、年下の私に対して最初の歓迎は酷いものだった。
けれども、関わってみれば色々と見えないものが見えてくる。
そうして気が付けば、何気なく話せる友も出来、何とか高等学校を卒業したかと思えば、
「その頭をそのまま寝かせておくのはもったいない。高等学校で年に一度、試験を受ける事が出来る。お前、結果はともかく、受けて来い」
と、兄の助言で試験を受けて、今度は東響の大学に合格してしまった。
その事を何処で知ったのか。叔父が自分に電報と文を数回寄越して来たのだ。勿論、本当に行けるなんて思っちゃいなかった。うちにはそんなお金はないし、ましてや東響なんて汽車で何日もかかってしまうというじゃないか。そもそも汽車に乗ったことが無い圭一にとっては全てが未知の領域だった。
自分が留守にしている間、父や母に何かあってはたまった物ではない。
合格という名の書状を貰えただけでも、ありがたいと思っていたし、嬉しかった。
本当にそう考えていたのだが、叔父は違っていた。
『圭一君といったね。君は、新しい世界を見てみようとは思わないか?君の住む町は自然が豊かでさぞ良い所だろうとは思う。私もそこに住んでいたのだから、その良さはよく分かっているつもりだ。しかし、キミには才がある。田舎で家業を手伝いながら、難関とうたわれた東響大学に合格するのは至難の業ではなかった筈だ。君の才がこんなことでくすぶってしまう事を見るのは惜しい。必要な援助ならば私がしよう。東響に来なさい』
最後通告とも取れる数回目の手紙には、ただそれだけが書かれていた。
同封された東響行きへの切符を見る。
丁寧に和紙に包まれたそれは四枚同封されていた。
東響までに汽車でまずは大坂へ。その後、名古屋まで向かい、名古屋から東響行きへの空上列車へと乗り換える。それまでの片道切符が添えられている。
「・・・・・・・・・」
切符を見る。
空上列車は、圭一が幼少期から見ていた三等車両付きの汽車とは違い、席番が指定されているらしく、席番号が黒字で印字されている。
三十七円五十銭と書かれたその価格に、圭一は目玉が転び落ちそうになってしまった。
それだけではない、三等車両と印字されてはいるが、村から名古屋までの片道切符、それぞれ一枚ずつ購入するだけでも、けして安い買い物ではなかった筈だ。
事実、風の噂で名古屋発東響行きの空上列車は人気が高く、なかなか手に入らない品だと聞く。
ここまでしてくれるとは思っていなかった彼は、意を決して父と母、兄に相談した。
今まで届いた手紙も全て見せた。切符を見た母と兄が行きなさいと背中を押してくれなかったら、今の自分はここにはいなかったかもしれない。
叔父の家は叔父が一代で築き、財を成した資産家だと聞く。
勿論、最初からそうだったわけではない。
自分の父が叔父を大学へと行かせたことを知った時は、なんとも数奇な縁だと彼は思った。
急ぎ、東響に向かう事を知らせる為に電報と文を出し、未知の世界へと足を踏み入れた頃が些か懐かしい。何せ、日帰りで行けるような軽い旅ではないのだ。
早朝、九魔狩り村から汽車で和歌山へ向かう。
大坂では人の多さに圧倒され、人の波に押されながらも耳心地の良い、聞きなれた言葉にホッと安堵し、人の波に飲まれるように名古屋行きの汽車へと乗り込んだ。
石炭の匂いが微かに残る車内は満員で、荷物と人であふれかえっている。座れた事が奇跡だとさえ思えるくらい、ごった返している車内から見た景色に感動したのは、それからしばらく経過しての事だった。
そこから揺られる事数時間、トンネルに入る度に煙を車内に入れないように窓を何度も閉めた。
ガタンガタンと体が左右に揺れているうちに、すっかり汽車酔いしてしまい、申し訳なく思いながらも、母が持たせてくれた弁当を口にすることは出来なかった。
そうこうしているうちに名古屋が見えて来た。
名古屋に到着した頃には時計の針は深夜の二時を指していた。
泊まる宿の当てもない彼は朝まで他の乗客と同じように駅で過ごした。
勿論、始発の空上列車に乗るためだ。
名古屋駅に足を踏み入れた時の話になるが、ここが名古屋かと感動している暇はない。
名古屋駅は大坂駅とは違い、通路が何か所にもわかれていて、とても紛らわしかった。
空上列車で行く東響と、普通の汽車で他県に行く人々の群れで駅の混雑がさらに増していく。
圭一は大きな鞄を両手に抱えながら、必死に行き先を告げる看板を見た。
しかし、どんなに頑張っても荷物と人の頭しか見ることが出来ない。
嗚呼。こんな時、自分の身長がもう少しだけ高かったら・・そう思わずにはいられない。
事実、圭一は同じ年頃の男子に比べると、やや背が小さかった。
女子よりは高いが、男子のそれには到底及ばない。そんな彼だからこそ、混雑時の人の群れに抗う事にこと関しては、やや分が悪かったのだ。
もたつく足で、へとへとになりながら歩いて行くと、大きなホールが見えて来た。
駅で夜を明かす者の姿はけして珍しいものではないのだろう。圭一の他にもかなりの人数の人々が腰を降ろしている姿が見える。さすがに危険だからという理由なのか、女子供の姿は見えなかったが、その方が良いとも思う。ざっと見ただけでも男ばかり、二十人は超えるだろうか。
この中にうら若き未婚の女子がいたとなっては、万が一にも間違いが起こらないとも限らない。
女や子供は、宿代がかさんだとしても宿を探して泊まるべきだ。心からそう思う。
皆に習って圭一も床に腰を降ろす。床が固く冷たいが、そうも言ってはいられない。
斜め向かいには、暖簾を下げた駅中食堂の文字が見える。
駅弁の販売もこの時間になると、すでに終了してしまっている。
あんなにも騒がしく混雑していた音はいつの間にか消え、静けさだけが圭一の頬をゆっくりと撫でて行った。
本来ならば空腹でのたうち回るところだが、幸いにも鞄の中に手つかずの母の作ってくれた弁当がある。痛まないようにと麦飯に塩を多めに混ぜ、さらに梅を入れて母が握ってくれたものだ。
竹の葉で包んだそれは、なるほど確かに長く持ちそうな予感がした。
しかし、誰も飯を食わない空間で、自分だけそれを頬張るわけにもいかず、圭一は口を閉じたまま斜め上にある窓を見た。
名古屋駅から、かすかに見える空上線路は、奇妙な事に空へと線路が上っているような形になっており、その先をどう目を凝らしても目にすることが出来ない。
「・・・・・・奇妙なものだ・・・」
鉄の塊のような汽車が空に浮くというのを目にしたことが無いせいか、圭一は駅から見る景色を余所に、手にしていた鞄を手放すことなく、影に潜むように眠りについた。
「・・・ん・・・」
周囲の動く気配で目が覚めた。
外を見る。微かに橙色の朝陽が昇りかけている光景が遠くに見える。
駅中食堂の暖簾は、未だ下がったままだ。
朝陽の色に合わせるように、何処からか味噌の良い香りがする。
「・・・・・・・味噌汁・・?」
ぼんやりとしたままで未だ眠い目を擦りつつも、すんすんと鼻を鳴らした。
駅のどこかにこんな朝早くから開いている食堂があるのだろうか・・?
いや、もしかすると朝餉用の仕込みをしているのかもしれない。飯だって炊き上がるには相当の時間がかかる。味噌汁だってそうだ。きっと相当な量だろう。
値段が安ければ、どんな味噌汁なのか味わってみたい。素直にそう思う。実際、家を出てから何も口にしていないので、腹の虫がぐうぐうと煩く鳴ってしまっているのだ。
寝ぼけ眼で辺りを見渡すと殆どの客が未だ眠りについていた。
無理もないなと彼は思う。
自分と同じように、何か理由があって赴く者。理想を現実に変える為に東響に行く者。
中には帰る者だっているだろう。皆、理由は様々だ。
皆が寝ているうちにと、圭一は昨夜から鞄の中に眠っていた母の握り飯をひとつ、取り出した。水筒は持ってきてはいるものの、既に飲んでしまっていて中身が空になってしまっていたが、圭一は特に気にする様子も無く、握り飯をじっくりと眺めている。
竹の皮で包んであるそれは、握り飯と同様、竹の良い匂いがぷんとした。
皆を起こさないようにと気遣いつつも、ひとくち頬張る。塩と梅だけなのに、少し硬くなってしまっているそれは、どこか懐かしい味がした。
「・・・・・これから、そうだ。一人なんだ・・・・・」
ぞくりとした感覚が背を伝い、妙に寂しい気持ちに襲われる。
そうだ。この先は自分を知る者が殆どいない場所に行くのだ。誰も知らない。何があっても簡単に戻ることの出来ない距離。何気なく見ていた景色が、もう変わってしまうのだ。
「・・・・・・・・・・・・」
圭一は、何も言わずにバクバクと握り飯をひとつ食べ終えると、もうひとつの飯にも齧り付いた。
どこか胸の奥がツンとする。痛みの理由も痛みの奥もはっきりとしないままで、もやもやした何かを覆い隠すように、彼はただ黙って両頬を膨らませながら地面に視線を向けた。
そうしないと、自分に向かって襲ってくる寂しさに耐えることは出来ないと、どこかで思っていたからだ。
その日、食べた母の飯は本当に美味かった。
それから、空上列車に乗る人の為の乗車手続きの時刻を知らせる鐘が何度も鳴ったのは午後十二時を少し回った頃だった。
鐘の音に弾かれるように、いそいそと皆が立ち上がり、荷を担いでいる。
紺色の制服を身に着けた駅員がコチラですと言いながら誘導してくれるその列に沿って圭一も習うように歩いた。
蒸気のような白い煙がゆっくりと流れて来る。ギギギギッとどこか鉄が軋むような音が眼前から響き、人の背中しか見えないまま、この音は何であろうかと思う圭一の首が左右に揺れた。人の列に余裕が出来て、ふと眼前に視線を向けた瞬間、圭一の瞳が丸くなった。
「・・・・ほぅ・・・」
空上列車を見た人々から感嘆の声が漏れる。無理もない。
見た目は普通の黒々とした汽車に見える。しかし、強大な鉄の塊にも似たそれは、これから乗る人々を大きく圧倒させた。車輪が汽車のそれとは違い、微かに空に浮いているのだ。
「・・・・・・・・・」
ごくりと喉が鳴る。本当にこれに乗るのかという、どこか夢心地にも似たような気分で駅員に切符を見せ、誘導されるままに列車に乗った。この列車は必ず駅員の案内誘導に従って乗らなければならないらしく、他の汽車に比べると乗車までにかなりの時間を必要とした。
しかし無理もないなと思う。
列車の中にある時計に目を向けると、乗車が開始してから、一時間は優に経過している。
「・・・・・・・長いな」
思わず、そんな言葉が口をついて出てしまうが仕方がない。
何せ、この鉄の塊が空に浮いて走るのだ。
神経質なくらい安全に気を配って当然だと彼は思う。
内装は汽車とほぼ変わらない。二人掛けの座席が進行方向に沿って配置されている。
『荷物は通路に置かないでください』と書かれた張り紙。乗務員が座席の下の扉を開け、そこに荷物を入れている光景があちこちに見える。圭一もそれにならって手荷物を座席の下に入れることにした。入りきらない分は足の前に置いて下さいと何度も説明しながら乗務員が歩いて行く。
「・・・・ほう」
汽車に比べると、座席のクッションがふかふかと柔らかい。何度も腰を揺らしていたが、隣に男性が案内されてきたのを見て、その行為を止めてしまった。
段々と列車の中が乗客で満席になっていく。期待に震える者。安堵したような表情の者。
どこか不安げな様子を見せる者と皆の表情は様々だった。
それから三十分を過ぎて、発車を告げるベルがジリリリリとけたたましく列車内に響き渡り、圭一は弾かれるように窓を見た。
どんな大砲も銃弾も通さないんじゃないかと思うくらいに、かなり分厚いガラス製で出来たその窓からは、名古屋駅に乗車している他の汽車がいくつも見えた。
ガシュウウウウと唸るような音が微かに聞こえてくる。ゆっくりと車体は進む。
少しずつ速度を上げながら真白い蒸気と共に列車が空上線路へと向かって行く。
「・・・・・・・・・・」
ごくりと唾を飲む。自分の背後で男性も窓を見ているような気配がしたが、特に何も言わなかった。皆同じだ。そう思う。だって、はじめてなんだから。
はじめはゆっくりだった列車が段々と速さを増していき、空上列車の線路に沿うように上へ上へと上っていく。ぐいんと椅子に引き寄せられる感覚に従いながら、圭一は椅子に掴まりながらも必死になって窓を見た。
なるほど、確かにこれは向かい合わせに座ると大惨事になりかねない。
更に速度を増した列車が一瞬、ぐらりと浮いた。
お世辞にも気分の良いものとは言えない感触に、ぞわりと毛肌が逆立ち、背中を汗が滑り落ちていく。
「・・・・・・・・・・・・」
時間にすれば数分なのに、何時間も経過しているような不思議な感覚。どこか酷く心地が悪い。
しかし、それは自分だけではなかったようで、ホッとしたような表情で、隣に座る男性が懐から手拭いを取り出すと額に浮き出た汗を何度も拭っている。その光景を見ながら、自分だけではないと知り、圭一はホッと息を吐いた。
上へ上へと上った列車は空上線路に無事に乗ることが出来たのか、暫くするとやや車体が落ち着いたように見えた。
「・・・・・・・・空だ・・・・白いのは・・・雲・・?」
窓を見る。カッシャカッシャと規則正しい車輪の音が鳴る車内から見る光景は、何とも不思議なものだった。透き通るように青い空が何処までも続いている。その隙間を縫うように白い雲が綿あめのように浮き上がっている。
「・・・・・・・こんな光景は・・見た事が無い」
言葉を失うほどの光景。
このような世界があったのかと思うほどに、眼前に広がる青はとても美しかった。
快適な空の旅。そのフレーズが一番似合うと思う。本当に快適な旅だった。
一番驚いたのは食事だった。弁当が出たのだ。
空に浮いて一時間を経過した頃、着物に袴姿の乗務員が、大きなカバンを手に入室してきた・・・かと思うと、中から竹を編み込んだ弁当箱と水筒を取り出し、全ての乗客に手渡していく。
「終着までに回収に来ます」そう言いながら一人一人に配っていく光景に目を疑った。
さすがは空上列車。
ここまでしてくれるとは。
そんな事を思いながら圭一もありがたく弁当と水筒を受け取ることにした。
「・・・まだ温かい・・」
竹で編みこんだ四角い弁当箱を開けると、麦で握ったおむすびがふたつ。大根の漬物が二枚添えられている。しかもまだ温かい。彼は嬉しい気持ちを押さえながら、その握り飯にがぶりと噛み付くように頬張った。
「・・うん。ふまい・・」
握りたてのおむすびに漬物。最高の贅沢だと彼は思う。
やや塩味のきいたそれは本当に美味しかった。時折、配られたアルミニウム製の水筒のお茶を口にしつつ、黙々と握り飯を食べていると、不安と興奮でかき乱されていた感情も、段々と落ち着いてきたように思う。
しかも、嬉しいことに水筒のお茶も、やや温かい。温かいお茶を飲むとほっとした気持ちになるのは何故だろう。
不意にそんなことを思う。
こうして午後十一時に駅に着くまでの間、うとうとしつつ空の旅を満喫したのである。
「・・・・・・・うわぁ・・・・・・」
午後も十一時半を過ぎると人の波もやや疎ら・・になるわけがなく、東響は人でごった返している。
駅の中も人の波で溢れており、波に逆らいながら駅の出口を目指すのには骨が折れた。
外に出れば大丈夫かと思ったが、残念。そうでもなく、駅と変わらないくらい人の波でごった返している。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
圭一は、何だか無性に故郷に帰りたくなった。嗚呼。カエルやフクロウの声が酷く恋しい。
洋と和が入り交ざったここ東響は、田舎から出て来た彼にとって、何処か不気味な風格を漂わせているようで、あまり心地の良いものではなかったのだ。
「・・・・・えーと・・叔父さんは・・・?」
そう思いながら叔父を探す。確か、馬車が止まっている場所に行けば会えると伺っていたが・・?
何度も首を傾げながら馬車を探していると、案外それは簡単に見つかった。
車が止まっていないのは、多分、空を走るからだろう。
「圭一君。ここだよ」
自分の名を呼ぶ声がして、ふっと彼は振り向いた。
数年前に会っただけの叔父が、自分を見て軽く微笑んでいる。懐かしさに胸を打ちながら、圭一も何度も会釈を返しつつ、洋装姿の叔父の元へと小走りで走っていった。
カタンカタンと一定のリズムを打ちながら、馬車がゆっくりと走っていく。
「・・空上列車の乗り心地はどうだった?」
「驚きました。本当に空を走るんですね」
「そうだろう。あれは我が国の威信をかけて作られた最高の技術力の結晶ともいえるものだからね。現在の運航が上手くいけば、今後は北へ南へと線路を伸ばすそうだよ」
そうなると今以上に慌ただしくなるな・・。そんな事を叔父は言う。
窓を見れば色とりどりの街灯が街を照らし、奥に見える大きな洋館からも灯りが煌々と漏れ出ている。
この街は夜も眠らないのだろうか・・?うん?
「叔父さん。あれは・・?」
「うん?ああ。あれかい。あれはカフェーだよ。近くにダンスホールもあるから、今度行ってみると良い。君は活動写真(現在の映画)には興味があるかい?」
「やだなあ。叔父さん。僕はここに勉強しに来てるんですよ」
「分かっているさ。机上の勉学も良いだろうが、自分の目で見て歩いて、見分を広めることも大切だよ。圭一君。この国は蒸気機関を通じて他国列強に少しずつではあるが、近づいていけるくらいにまで成長している。それはこれからもそうだろう。それに、今までは華族を始め、限られた者達のみでしか楽しめなかったものが、ようやくここに来て、庶民の我々も堪能することが出来るレベェルにまで幅が広がってきている。これは本当に凄い事なんだよ。圭一君。時代はいつも先を進んでいる。男児たるもの、眼前の華やかな文化に臆していては、いつか時代に取り残されてしまう。ここにいる間は、存分に文化を見て歩きなさい。」
そんな事を熱く語りながら、叔父は懐から巾着を取り出すと小遣いだと言って五円くれた。
咄嗟に圭一の目が大きくなる。
「・・叔父さん!こんな大金!いけません」
「いやいや。これから君はうちで預かることになるんだ。遠慮せず、受け取っておきなさい」
「・・・ええ・・・・・ですが・・・・・」
圭一は手のひらに握らされた一圓銀貨を見た。一円と少しあれば十キロの白米を買う事が出来るそうだ。村では白米を主に作っていたから、買う必要はなかったのだけれど・・。
これからはどうやってでも必要になるだろう。白米だけだと流行の脚気とやらになってしまう可能性があるので、麦やアワ、ヒエも混ぜたものを食べなくては・・。
洋食の値段は知らないが、きっとお釣りがくるだろう。ふむ。煎餅はいくらかな。
それにしてもこんな大金。簡単に受け取っても良いものかと、暫し悩んだが・・かといってここで受け取らなくては叔父との間に溝が出来る可能性もある。それだけは避けたかったので、何も言わずに受け取ることにした。
そうして、彼は一時間という距離を叔父との会話に費やしたのだった。
「・・・・・・・・・え?」
最初、叔父の家に厄介になるはずだった。
しかし、叔父の家には年頃の娘がいて、未婚の娘と同じ屋根の下で暮らすという事実に難色を示したのは、他ならぬ叔父自身だった。
「・・・・・すまないね。圭一くん」
「・・・・・・いえ・・」
屋敷で世話になった次の日。
そう言いながら彼は、自宅から徒歩数分の所にある下宿屋を紹介してくれた。
人が一人入れるだろうかという程の台所に土間が設置されている、六畳一間。家賃は二円二十銭。厠は共有。けして悪くない。
荷物はもともと少なかったし、布団は叔父が用意してくれた。
叔父は全て自分が世話をすると言って聞かなかった為、ありがたく厚意に甘えることにしたのだ。
空は快晴。ぽかぽかと良い心地である。
昼食を叔父の家族と共にとった後、必要な荷を積んで叔父と共に馬車に乗り、窓の景色を眺めてみれば、空は空上列車や辻待ち自動車がひっきりなしに走っている。皆、自動車や列車に乗るだろうから馬車に乗る人は少ないだろうと考えていたけれど、普通に馬用の信号機が設置されているくらい、何度も馬車とすれ違った。
何とも不思議な町だと思う。
カタンカタンと揺れる馬車の中は穏やかで、叔父は何も話すことなく時折手帳に何かを書き込んでいる。圭一は、これから自分が住む場所であるからという理由から、近所に何があるのか確かめてみることにした。町は着物姿の人もいれば洋装の人も普通に街を歩いている。
洋装は見た事が無いわけではなかったが、鹿鳴館や華族の屋敷の中で着る服だと思い込んでいたので、少々面食らってしまったほどだ。特に女性の洋装姿は斬新で、着物の袴と比べると膝まで露わにしたその短い丈が気になった。膝を人様に見せながら普通に談笑していく横顔を黙って眺めながら、都会とはこういうのもなのか、と、ふと思った。
野菜を売る店の近くに大衆食堂らしい建物が見える。『めし』と書かれているので恐らく間違いは無いだろう。そこから少し離れた場所に湯屋が見えた。
湯屋の値も見ておかなければ・・。
毎日入るわけだし、四銭から六銭くらいまでの値段だとありがたいのだけれど・・・あ、さっき。豆腐売りが来てたな。豆腐の値も知りたい・・。
そんなことを不意に思う。
叔父はいつでも屋敷に湯を浴びに来なさいと言ってはくれるけれど、毎日、風呂の湯を借りるためだけに、あの大きな屋敷の敷居を跨ぐというのは、はっきり言って肩身が狭く、また気が重かった。
日本家屋の屋敷を想像していただけに、叔父の家の門とその後ろにそびえ立つ洋館を目にした時には、来てしまった事を軽く後悔したほどだった。
出迎えの者がずらりと並ぶ玄関口。
見た事もない洋服に身を包んだ初老の男性。黒いスカートに白いエプロンを纏ったうら若き女性達。(後になって分かった事だが、男性は執事。彼女たちはメードというらしい)
・・・あまりにも、世界が違いすぎる。
飯もどうだと言われたが、学業に専念したいからという苦い言い訳をして、その好意をいち早く辞退することにした。
叔父は何か言いたそうだったが、「何か困ったことがあれば、すぐに言いなさい。いいね」と耳がタコになるくらい、何度も繰り返して帰って行った。嗚呼、そういえば「大学の入学式は必ず私も同行するから」そんなことも繰り返し言っていたような気がする。
部屋に必要な物を運び、叔父と共に下宿屋の主人に会いに行くと、年配の夫婦が「やあやあ」と言いながら出迎えてくれた。家賃の交渉や、これからの事を話してみると、『家賃帖』と書かれた冊子を前にして、夫婦は月末に家賃を徴収に行くから持ってこなくても良いと言う。ならばそれに従うのが常と、叔父と二人で「これからよろしく願います」と頭を下げて挨拶を終えることにした。
「では、私はこれで帰ることにするが、本当に他に必要なものはないのかね?」
叔父が問う。心配そうに自分を見る叔父の姿に嬉しくなりながらも、圭一は深々と頭を下げた。そうして、叔父が馬車で帰宅した事を確認し、彼は自分の部屋へと足を踏み入れたのである。
「はー・・これからここにすむのかぁ・・ひろいなぁ」
窓を開けている為、埃っぽさは感じられない。がらんとした部屋の中には大きな布団と持参した鍋類が乱雑に置かれたままになっている。
「・・・・・とりあえず、飯だな・・・」
その日から、圭一はいち早く生活に必要な物が買える店を探しに走ったのだった。
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