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咲里 要という男と、蛇女という妖のはなし

人の縁と言うものは何とも奇妙な物だと圭一は思う。あれはいつの頃だったか・・・。 そうだ、あれは七月も下旬を迎えた頃じゃないか? 大学にもすっかり慣れて、幾人かの飯を共にできる友人も出来た。 経済学を中心に、授業を教える先生の話もまた面白く、圭一は東響に来いと何度も言ってくれた叔父に何度感謝したかしれない。 初めての授業を受けた日の感想を叔父に直接伝えに言った事がある。 夜も遅く、迷惑かと思ったが、以外にも叔父は怒るようなことはせず、圭一の話を嬉しそうに聞いてくれた。 参考になりそうな書物や辞書も幾冊か持っていくと良いと言って、数冊の本も貸してくれた。 本当にありがたいと思う。 広い洋館の客室。目の前には紅茶が注がれたカップとソーサーが置かれている。 彼はそれに手をつけようとはせず、まずは叔父に礼をと頭を下げた。 「叔父さんがいなかったら、自分の世界は未だ狭いままでした。それがどれだけの損を産んでいたのかと思うと・・・本当に叔父さんには感謝をしても足りないほどです」 「・・いいんだよ。圭一君。君は学生だ。君の援助をするのは我々、大人の仕事だからね。 しかし・・嬉しいものだな。こうやって話が出来るというのは・・・」 「・・・はい・・・」 「・・・・・・ところで」 「・・・・・?」 「まだ?・・・見えるのかい?」 「・・・・・・ええ」 「・・・そうか・・・東響でもか」 「あまり土地は関係ないのかもしれません・・」 「・・・・あまり気に病むものではないよ」 「・・・はい、わかっています」 圭一には、人には話していないことがある。 誰かに気軽に話しても良いとは思えないので、そのままにしていることがあった。 自分には十歳、年の離れた兄がいる。 名を悠一という。 自分と兄は昔から、ひとには見えないものが、それはそれは沢山見えた。 透き通った体をした女の幽霊。黒く、吐き気のするような臭気を纏った怨霊ともいえる物の怪の類。ひとでも幽霊でもない、全く異なる異形の類。それが二人には常に見えていた。 見えていたし、触れることも出来た。 その中で、唯一、仲良くなった者がいる。 名を蛇女という。物の怪だ。 花のように甘い香りを体に纏い、とても色が白く艶やかな肌をした女性で、圭一はすぐに彼女のことが好きになった。 「へびねえちゃん。へびねえちゃん」といって、いつも彼女の側をついて回っては、けして離れようとはしなかった。蛇女は不思議な物の怪で、おんぼろな屋敷に住み、いつも小川の辺にいては誰かを待っているようだった。 「・・・ねえ。誰を待っているの?」 「・・・うん?お坊にはまだちょっと早いやね。いつか今よりも大きくなったら教えてやるよ」 そう言って笑うだけで、けして教えてはもらえなかった。今ならわかる。 あれは随分と前に亡くなった彼女の元亭主が迎えに来るのを、ずっと待っていたのだと・・・。 それでも、圭一は彼女に会いに行ったし、蛇女も圭一には優しくしてくれた。 兄もそうだった。 幼い頃は圭一と一緒に蛇女に会いに行った。 その関係が、少しずつ変わっていったのは、悠一が十九を迎えた事だったように思う。 歳を重ねれば、少しずつ男女の関わりが見えてくる。 蛇女と兄が恋に落ちたと知っても、特に何も思わなかった。 これで彼女が幸せになってくれれば良いと思っていたし、兄は体が弱く線が細いが、温和で滅多に怒る事が無い。頭もよく、自慢の兄でもあったので、圭一は応援することに決めたのだ。 それが、がらりと壊れたのは、悠一の婚姻が決まったと聞かされた時だった。 あれは秋の風が残る十一月の事だった。 「・・・・・・結婚?兄さんが?」 「・・・ああ」 「・・・・・・・・相手は・・・・・?」 「ここから少し離れた場所にある巴(は)月(づき)神社の娘さんだ。婿に入ることになった」 「・・・・・・・・婿・・・・?・・兄さん!何考えてるんだよ!蛇は?蛇はどうすんだ!あいつ・・兄さんと夫婦の契りを結んだんだって・・この前、泣いて嬉しそうに話してたじゃないか!」 「・・・・仕方ないだろ!俺は長男なんだ!いつかは嫁を取らなきゃならない!・・それが、今回は見合いで・・・婿に入った・・だけで・・」 「・・・・何も兄さんじゃなくてもいいだろ!・・他に男がいっぱいいるじゃねえか!」 「・・・・俺じゃなきゃ・・ダメな事だってあるんだよ・・仕方なかった・・・・」 「・・・そんな・・勝手すぎる・・・あいつは・・あいつはどうすんだよ!また、一人になっちまうじゃねえか!」 「・・・・・・・・」 「馬鹿野郎が!」 ガツンと兄の頬を力いっぱい殴ったのも。 それを見て母と父に驚かれたのも。 その時はどうでも良くて。 ただ、目に涙を浮かべながら嬉しそうに笑う彼女の顔だけが、悲しくて、切なくて。 兄の結婚を聞いた時も、蛇女は笑っていた。それでいいと彼女は話していた。 「仕方のないことも・・あるんだよ。坊ちゃん。この世にはね。理屈では片をつけられない事ってのが、それは沢山あるんだよ」 「・・・・でも・・・」 「・・・坊ちゃんも、早く大人におなりよ。悠一さんと同じ年になったら、今と見える景色が違うはずさ」 「・・・・・・・・」 胸の奥がつんとする。 ぶわりと溢れたそれは、悔しいからであって、けして悲しみからくるものではなかった。 あの時の彼女の顔は、本当にきれいで。幸せそうで。 だから、俺も祝福したのに・・。 言いたい言葉が沢山あるはずなのに、全てが嗚咽に変わっていく。 「・・・馬鹿だね。あたしの為に泣くんじゃないよ。大の男が女の前で泣きっ面を晒すなんて、かっこ悪いことはしちゃいけない。いいね」 「・・・・・・っ・・・・・・」 「ほんと・・泣き虫なのは変わってないね。あたしは悠一さんよりも、あんたの方が心配だよ」 そう言って、彼女はえぐえぐと泣きじゃくる圭一の頭をずっと撫でていた。 その指は優しくて、やっぱり兄は大馬鹿野郎だと改めて思った。 その気持ちは今も変わっていない。東響に来て初めて気が付いたこともある。 四月。大学の生活にも慣れたその日。 買い物を終えて扉を閉めた時、彼は見覚えのある気配にいち早く気が付いて前を見た。 「・・・・・・・・」 あの時、村で別れたはずの蛇女が何故か自分の部屋で寝ていたのを見た時には、心の臓が抉れて飛び出しそうになった。 机に凭れ掛かりながら、着崩れた着物もそのままに「ああ。おかえりよ」と笑う彼女を見て、圭一は何が起こったのか状況が読み取れず、手にしていた味噌を取り落としそうになってしまった。 「・・・な・・何で・・お前がここにいるんだ?」 味噌を置きながら、緊張で声が上ずっていく。 「・・・さぁ・・どうしてだろうね」 「・・・さぁって・・もしかして兄貴に頼まれたのか?」 「さぁ・・?どうだろうね?」 「はぐらかすんじゃねえよ。俺だって、それくらいは分かる・・」 「・・・・・・・・・・・・・・」 意味深な笑みを浮かべながら、蛇女が圭一を見る。 その瞳は何処までも優しく、温かいものだった。 「・・・ああ。父親になっても、なんも変わらないね。あの人は。ただ、私を抱かなくなっただけで、何も変わらない。お人好しなところも優しい所も」 「・・・・結婚しても・・会ってたのか・・」 「・・・ああ。数日に一度は、やはりお前が心配だと言ってね、嫁や子供のもとに帰れと、何度言っても帰らないんだよ」 圭一は何も言わなかった。 ただ、兄も酷いことをする。 自分は嫁も子もいるのに、それを知っても咎めない、一緒になれないと既に分かっている女に会いに来るなんて。 これじゃ・・まるで・・・。 「・・・・・未練があるんは・・私だけやないんね。坊ちゃん」 「・・・その言い方は止めてくれよ。もう十九になったんだ」 「・・・ふふふ、坊ちゃんは相変わらずさね」 「それで、兄貴は何て?」 「東響はこことは違い、魑魅魍魎の類も数多くいると聞く。俺は何とか対処できるが、あいつは違う。俺がいれば祓ってもやれるし、守ってもやれる。だが東響は遠い。簡単に行ける土地じゃない。そこで、お前に頼みがある。俺の代わりに行って、あいつを守ってやってくれ・・って」 「・・・勝手な事言ってんじゃねえよ・・馬鹿兄貴が・・」 「・・・私もそう思うよ。でもね。断れなかった」 「・・・まだ、兄貴を想ってるのか?」 「・・・・・・」 「・・・・そうか」 「でも理由はそれだけじゃあないよ。ここに来る道すがら、ざっと見て来たけれど、確かに闇に紛れるように、そこかしこに怨霊も物の怪も確かにいるね。見えるだけなら平気だろうが坊ちゃんは違う。もう・・・・・・気づいてるんだろう?」 「・・・・・・・コレの事か?」 そう言って、数分だけ目を閉じていたが、やがて観念したかのように、長い袖をするりと動かすと襟の袂を広げ、ハイカラ―のシャツのボタンを開けた。 それを見て蛇女の目が悲しそうに揺らぐ。 「・・・・・・どこで・・・貰ったんだい?そんなもの・・・」 「大学に・・通ってすぐ。遅くなって夜道を歩いてたら・・・受けちまった・・・」 それは、いわゆる呪怨の類。首から肩にかけて斬られたようにくっきりと赤黒く光る刀にも似た傷だった。ゆらゆらと生きているように傷が動いている。 怨霊が圭一の身体を奪い、魂を引きずり出そうと放った一撃だ。これが綺麗に決まってしまうと、今の自分はここにはいない。 身体だけが、そいつの物になって『霧谷圭一』として生きて行ってしまう。 次に会うまでジワジワと傷は広がり、いつか自身の気を失ってしまう。 相手がそれを待つための目印だ。 それくらい、成仏せずに生き返りたいと願うものにとっては、圭一はとても魅力的な餌なのだろう。 「・・・骨は・・無事かい?」 「ああ。腕と本で受け止めたから、抉れてない。呪を受けただけだし、数日すりゃ砂みたいに消えるよ」 「・・・ちゃんと眠れてるのかい?」 「・・・ああ・・時々、首絞められたり、踏まれたりするけどな。問題ないよ」 「・・・・馬鹿だね。全く・・・」 そう言って、蛇女はゆらりと立って近づくと圭一の傷に唇を押し付けた。 「・・おっ・・おい!」 「静かにおしよ。今、治してやるから」 「・・・・・・いっ・・!・・」 「痛いのも我慢おし」 ぴしゃりと言われて蛇女は赤黒い傷をちゅうっつと吸い上げた。途端に鋭い痛みが全身を駆け巡り、圭一は声にならない呻き声を上げながら身動き一つ取る事ができなかった。 ぬめぬめと動いていた傷が少しずつ吸い上げられて消えていく。 そう言えば、彼女の力は治癒だったな・・とそんなことを思っていたら、髪の隙間から白い肌が見えた。 『目のやり場に困る・・・』 もっとも、彼女に対して淫猥な感情は一度も持ったことはないのだが・・。 「・・・はい。これでいいよ」 ごくんと飲み干しながら蛇女が口元を拭っている。 「・・・飲んだのか・・・それ・・」 「ああ。こういうのは無駄に放出しちまうより、飲んで力に変える方が早いからね。飲ませてもらったよ」 「・・・・・・・・」 「・・・・・?」 「いや・・何でもない・・・・・・」 見た目は何処から見ても人に見える。 けれども、やっぱり彼女はひとではなく、妖怪なんだな・・とやっぱり思い知らされる。 だが、うまく言葉が見つからず、圭一は何も言わなった。 その日から、いわゆる護衛として、蛇女が圭一の側をついて行くことになった。 蛇女が側にいても何も変わらない。他の者には見えぬだけで、圭一自身も蛇女も変わらない。 ただ、いてくれるだけで圭一は何の心配もなく毎日を過ごすことが出来、朝まで眠ることが出来る。口には出さないが、実は嬉しかった。 蛇女は滅多に飯を食おうとはしない。 けれど、煮干しや昆布の切れ端でとった出汁が好きなようで、圭一の味噌汁をいつも嬉しそうに飲んでいる。その様を見ながら、誰かと飯を食うのはやっぱりいいもんだと改めて思うと同時に、言葉には出さないだけで彼女を寄越してくれた兄にも少しだけなら感謝しても良いかもしれないと思うようになった。 普段は妖艶な女性の姿をしているが、側をついて歩く時には蛇の姿に変わっている。 時には圭一の影に隠れて行動することも出来るらしい。 どうやら、こっちの方が手早く力を発揮できるのだという。ただ、そのおかげもあってか、圭一は無意識ながら独り言が増えたらしく、友人から指摘されることが多くなった。 「・・・・・・本当に・・手のかかる坊ちゃんだこと」 「・・・・もう・・子ども扱いすんなよ」 「・・・・減らず口も・・変わんないねえ・・」 そんな関係になって、東響に来て初めての初夏を迎えた。 つらつらと何気ない話に花を咲かせながら、今日も大学の帰り道をのんびりと歩いて行く。 「あら?」 蛇女の声に圭一も前を見た。 透き通るような金色の長い髪をなびかせて着流し姿の男が歩く。その傍らには洋服を華麗に着こなした、うら若き乙女がべったりと張りつくように歩いている。袖に腕を入れたままの男の手を引くように女の腕がべったりと絡んでは離れそうもない。 よく見ると周囲の若い女性が皆、金色の男をうっとりとした目つきで眺めている。 「・・・・・・・・・」 圭一の眉間に皺が寄る。 よく見るとこの男の髪はきんいろで、眼はあおいろだった。 『・・・・・外国人か?見た事ないな』 すらりと立つその姿も目を引くが、女の袖を軽くあしらうその手つきも、なんとも優雅なものだった。よく見ると、とても姿勢がいい。着崩した着物が逆に優美に見える。というか、立ち姿が一枚の美人画のようにも見えて、自然と圭一の足もぴたりと止まった。 なんというか。目が離せないのだ。前だけでも絵になるのだから、その後ろ姿もたぶんそうだろう。体格は自分よりも大きい筈なのに、華奢に見えるのはきっと着物のせいだろう。 『いい男がいるじゃあないか』 蛇女がけらけらと笑う。 『なんだよ。こんな男がお前の好みなのか?』 『馬鹿をお言いで無いよ。アタシが誰を好いてるかなんて、あんたはもう分かってるだろう?』 『・・・・兄貴だろ・・知ってるさ』 『・・・なんだい?嫉妬してるのかい?可愛いねえ』 『うるさいよ。それに・・・・・あのきんいろと兄貴は全然違う・・』 『そうさねえ・・・悠一さんは、あんな風に女性に近付かれたら・・顔を赤くするだけでちっとも動きゃあしないわねえ・・・その点、あんたは相手が誰でも、言いたいことを言っちまうからねえ』 『・・・言われてみれば・・そうだな・・兄貴は俺とは全く逆だな。俺より体が弱かったし、よくせき込んで寝込んでることが多かったから、代わりに俺が畑を耕してたんだ・・・』 『・・・・悠一さんは、いつもあんたに詫びてたよ。俺のせいで満足に学ぶことも出来ないって…』 『・・・・・・そんな事ねぇよ。兄貴がいつも俺の隣で勉強を教えてくれてたんだ。字の読み書きだけじゃない。計算も、大学の試験の問題も、全部・・兄貴が隣で読み解いてくれたんだ。婿入りしても俺は変わらないって言って、毎日家に来て教えてくれて・・・。兄貴がいなかったら、試験も合格してない・・何で・・兄貴は俺に大学に行かせたんだろう・・・兄貴の方が俺より頭がいいのに・・』 『・・・そりゃあ、当り前だよ。自分よりも若くて未来もある。だからどうしても、何をしてでも、あんたには大学に行ってほしかったのさ・・・本当に優しい人だよ・・あの時だっ・・・』 そうまで言って蛇女は次の句を告げようとしたが、ふっと口を閉じた。 『・・どうした?』 『いや・・何でもないよ・・』 『そうか?』 『…ああ』 『でも、不器用だ。不器用で、残酷だ』 『それはアタシに関する事かい?』 『・・・・ああ』 『・・・・気にしないでおくれと何度言ったら分かるんだろうね。この聞かん坊は・・』 『・・・・・・・・・・・・』 『・・・おや?何やら揉めてるみたいだねえ・・足が止まってるよ』 『え?』 蛇女の声で圭一も前を見た。 確かに成程、何やらきんぱつの足が止まってしまっている。 ・・・はて? 「あん、要さま」 「よしとくれよ。今日は忙しいんだ」 「そう言って・・昨日もそうだったじゃないの」 女が頬をぷくりと膨らませて怒っている。しかし当の男は動じる様子も見せぬまま、襟から煙管を取り出すと、それを軽く左右に振っている。どうやらこれ以上近づいてくれるなという意思表示のつもりらしい。 『・・・長い指だな・・それにしても・・色が白い・・こいつ・・本当に男か・・?』 「本当に今日は忙しいんだ・・堪忍しておくれよ。これから浅草に行かなくちゃならない」 「・・・・浅草って・・」 「・・・そう、新吉原だよ。姉さまたちに呼ばれてるんだ」 「・・・・・・・まあっ!」 新吉原と聞いて女の顔が般若になる。 まぁ確かに無理もない。女の気持ちはよく分かる。浅草の裏通りには確か・・遊郭や料亭が数件軒を連ねている区画があるはずだ。ただ遊郭によっては遊女を買う金が高すぎて、庶民には手の届かない店もいくつかあると聞く。そう言った者は新吉原の格子窓を見ながら歩き、江戸の名残で宿場町が立ち並ぶ、品川へと向かう者もいるのだとか・・。 かくいう圭一も、友人達から吉原の妓楼よりも安いから品川へ行くんだが、これから一緒にどうだ?女は良いぞ。と、誘われたことが幾度かある。 その度に断ってはいるけれど・・。断る度に何故かは知らないが、きっとこいつは男色の気があるのだろうと思われてしまい、いやいや、何も珍しい事じゃないよ。霧谷くん。と友人たちからは生温かい目で見られることも一度や二度ではない。 男色だなんて言った覚えはないのだが、何だか訂正するのも面倒なのでそのままにしているのだ。 それにしても・・・何とも変な気性の男がいるなと圭一は思った。 自分にべったりと張りつく女をゆるりとした手つきで払いながら、これから新吉原の遊女に会いに行くという。 それは誰が聞いても、自分の相手はお前じゃない。店の遊女だとはっきり明言しているようなものだ。女が怒るのも無理はない。 『変な奴がいるもんだ』 それが彼、咲里 要を見た最初の日だった。 『やけに色っぽい美丈夫もいたものだわねえ』 けらけらと蛇女が笑う。 圭一はため息を吐きながら 『あれは美丈夫じゃない。女ったらしって言うんだよ』 そう言いつつも、観光がてら煎餅を買う目的で、蛇女と浅草の浅草寺へと繰り出した日が些か懐かしい。 なんせ、その美丈夫が・・・・・今、ここで無防備な姿を晒しながら寝転んでいるのだから・・・・・。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 はっきり言って、邪魔である。 大の男が、本がわんさと積まれた六畳一間のど真ん中で、足を伸ばしてごろりと寝転びながら、こっちを見ている情景は、画家ならば飛びついてデッサンのひとつでもしたいと思うものかもしれないが、あいにく圭一は画家ではないし、同じ男の寝姿を見てもピンとこない。 かえってそれが良かったのかもしれないが・・・。 『餌付けが成功しちまったねえ』 ケラケラと蛇女が笑っている。 昆布の切れ端を手にしたまま、圭一は彼女の声に軽く眩暈がした。 この男との二度目の出会いは、見かけた日から数日が経過しての頃だった。 この日は朝から雨が降っていて、しかも友人達と大学の校舎内にあるミルクホールで専門学について長々と語りこんでしまったものだから、すっかりと帰りが遅くなってしまった。 時間はもう夜の八時を軽く過ぎてしまっている。 雨は止みそうもないし、いつもと違う裏道の方が早く家路につける。 下宿近くの大衆食堂はまだ開いている時間だし、銭湯も閉まってはいないから、先に銭湯に寄ってそれから家に帰ろうと思いついた矢先、圭一は眼前に何か黒いものが落ちていることに気が付いた。 『・・・何だ?』 『・・お待ち』 背後の蛇女が殺気立つ。 途端に圭一は無口になった。 背後の蛇女がするりと圭一の背を離れると、数分も経たずに戻って来た。 『・・・何があったんだ?』 『・・・・・頭だ。頭が落ちてるね。しかも人のものだ』 『・・・・・・・ここはコスの蒸気灯も数が少ない裏道だからな・・・何があってもおかしくはねえが・・』 そう言いながら圭一は落ちている頭に近付いた。明りが少ないせいで眼前が暗く、よく見えない。 『・・・・・おい、あんた・・・?』 そう言いながら圭一は落ちている頭に手を伸ばした・・・瞬間に、あれと思った。 『・・頭だろう?』 『・・・頭・・・だけど・・・変だ。持ったらへこむ・・なんだこれ・・』 そう言いながら圭一は落ちていた頭をむんずと掴むと、そのまま持ち上げた。 うっすらと霞む闇の中に、見覚えのある細い感触。もしやこれは・・? 「髪・・?」 『・・・・・・・・・・』 「髪が・・・頭ごと落ちてる・・?」 むんずと掴んだそれを両手でガシガシと触ってみる。髪は意外と長く、雨のせいでペタペタと張りついてはいるが、触れた感触は男の自分の髪よりもふわふわと柔らかい。 そう。それはとても精巧につくられた頭髪だったのだ。 「誰だよ。こんなもん落としやがったのは。びっくりするじゃねえか」 『・・・・・もしかして、その持ち主ってのは、あっこで転がってるもんかねえ』 蛇女が数回、ため息を吐くように顎を伸ばした。それにつられるように圭一も前を見る。 「うん・・・・・・?」 薄明りの中、首を前に突き出しながら、目を凝らすこと数回。少しずつ歩いて初めて、目の前に足が落ちている事に気が付いた。 裸足ではなく草履が見える。 「・・・・これ、死んでんのか?」 『さぁねえ。どうだろうねえ』 とりあえず周りを見ようと、圭一は懐に入っているきんちゃく袋から、ロウソクを取り出すと慣れた手つきで側に置き、小さな火打石を手に取り、数回擦ってロウソクに火を点けた。 東響じゃ、コスを使用した蒸気ランタンを使う者が多いと聞くが、それは東響の話だけで。圭一のように田舎に住む者は、夜間の外出時には未だ提灯を使用している者が殆どだ。 だからというわけではないが、村の者は誰でも火打石と少しの紙さえあれば、簡単に火を点けることが出来る。 彼は火のついたロウソクを手にすると、地面を照らしながら前を歩いて行った。 するとすぐに火の灯りに照らされて、伸びたような足が見えてくる。 着物の裾から先を見ようと手を伸ばしてすぐ、圭一の声があっと上擦った。 『・・・・・・これは・・・いつかの美丈夫じゃないか・・・・』 蛇女の声が近くで聞こえる。 「・・・・・・ああ」 何でこんなとこで寝てんだこいつはと言いながら、圭一が寝転んでいる男に近付いて行く。 「おい。あんた。生きてんなら起きろ」 そう言いながら、ぺちぺちと頬を数回叩く。と、そこでふと思い立ち、ロウソクを顔に近づけてみた。何となくだが、美丈夫に髪があるのか確かめてみたかったのだ。 「・・・う・・・」 男の呻く声が聞こえ、圭一はホッと安堵した。 いくらなんでもここで死なれては目覚めが悪い。 「これ、あんたのか?・・・・・・あんたのだろ?」 「・・・え・・・なんで・・」 どこか気怠そうな声が聞こえる。ちらりと覗き見た横顔は、泥はついているものの痣は無く、きれいなままのようだから、殴られたわけではないらしい。それにしても酒臭い。 もしかすると泥酔して道に迷い、転んでそのまま寝てしまったのかもしれない。 ・・・しかし、そりゃあ、こっちが聞きたい台詞だ。頭がふたつあんのかと思ったぞ。と言いかけてそれをグッと飲み込んだ。 いくらなんでも、倒れてる相手に言っても良い言葉には思えなかったのだ。 「・・・・こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ。さっさと帰れよ。じゃあな」 「・・・っ!・・・まっ・・・待って!」 変な者には関わらん方が良い。そう思いながら、寝転んだままの姿勢から上体を起こそうとしている男の側に、拾った髪をそっと置くと、圭一はそれだけを言って歩き出した。 「待ってったら・・!」 雨脚は段々と強くなってくる。 何でもいいが雨のせいで身体が冷えて来た。腹も空いてる。 ああなんでこんなもんに捕まっちまうんだ俺は・・と軽く後悔しながらも、これはすぐ銭湯に寄って大衆食堂行きだな・・。あそこの焼きサバ定食、美味いんだよなぁ。 ああ、でも銭湯が閉まっていたら叔父さんに湯を借りなければと、そんな事を思いながら歩く圭一の着物の袖をぐいっと掴む者がいた。 「はえ?」 思いのほか力が強く、圭一の身体が後ろに下がる。と、同時に変な声が出てしまった。 「・・・なんだよ・・頭は返しただろ!」 「・・・待って・・・お願い・・待って・・!・・・」 男がよろりとよろけるように圭一の袖を掴んだせいで、圭一の身体もぐらりと傾く。 「ああ?」 何だ?まだ何かあるのか?と思いながら、くるりと振り返ると着物の帯が見えた。 どうやらこの男の背丈は圭一の倍はあるらしい。 「お願い!・・・・いっ・・行かないで!」 「・・・・・はぁぁあぁあああ?」 ばっしゃばっしゃと先ほどよりも増した雨音が傘に突き刺さる。 圭一は傘を上げて男の顔を見た。 「・・・・・・・・・・」 その顔を見て一瞬、目が丸くなったが、深く息を吐くと「仕方ねえなぁ・・・」と呟いて。 「傘。お前が持ってくれ」 そう言って、差していた傘を男に差し出したのだった。 その時の男の顔は、今も忘れたことはない。 圭一の着物の袖を掴み、雨と泥でぐちゃぐちゃになりながら、綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪ませて。 ぼろぼろと大粒の涙を止める事もせずに、ただ泣きじゃくっていたのだから。 「・・・・・・・すみません。叔父さん」 「・・・・・・構わないよ。友人かね?」 あれから結局、銭湯に向かおうと思ったが替えの着物が無いことに気が付いて、仕方なく、近くに住む叔父の屋敷へと行くことにしたのである。コスの蒸気灯が明々と照らされた屋敷の前。その大きな門をくぐろうとすると、掴まれていた袖がクイッと後ろに引かれ、圭一の足も同時に止まった。 「・・・・・・ここは?」 ひっぐひっぐとしゃくりあげながらも、不安そうな声が背後から聞こえてくる。 無理もない。 いきなり目の前に登場するは、立派過ぎる大きな門。 それにその後ろにそびえ立つ立派な洋館。 誰だって、ここは何処だと思うだろう。 圭一も初めてその屋敷を目にしたときには衝撃で足が竦んだものだ。 「・・・・・・・・・俺の知り合いの家」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「入るぞ。このままだと風邪を引いちまう。確か・・離れがあったはずだから」 そう言いながら圭一が歩く、と同時に背後で袖を掴んだままの男もゆっくりと歩き出した。 「申し訳ございません。夜分に恐れ入ります」 そう言いながら圭一が扉のベルを数回叩く。数分の間が過ぎて扉が開くと、そこにはいつかの執事と叔父が立っていた。 二人とも玄関の前でずぶ濡れになっていた圭一達を見て何も言わずに中に入れてくれたのである。 何も聞かずに中に入れてくれた叔父に、圭一は心から感謝した。 「まずは湯を浴びて下さい。浴室はこちらです」 そのまま執事に連れられて男が歩く。 しょんぼりと肩を落としたその背中を黙って見届けながら、圭一は叔父に深く頭を下げた。 「すみません・・叔父さん」 「いいんだよ。頭を上げなさい」 「・・しかし・・」 「見たところ、君もずぶ濡れじゃないか。まずは湯を浴びてきなさい。そのままでは風邪をひく」 そう言われ、圭一も渋々ながら湯を借りることにしたのである。 「・・・・・・はー・・・・生き返るー・・・」 ちゃぽんと白い湯気が立ち籠る室内。 大の男が余裕で五人は入れようかという広さの浴槽に驚きつつも、圭一と男はほっこりと温かい湯の中に浸かっていた。広いだろうとは思っていたが・・・。 建物は洋風なのに、浴室は木で造られていて和風そのもの。やっぱり風呂は木が良いよなぁ・・そんなことを思いながら、湯を何度も顔にかけた。木の香りが心地いい。 よく見ると圭一の影に隠れていた蛇女も幸せそうに湯に浸かっている。 蛇の姿のままで湯に浸かっている姿に安心しつつ、圭一も長く息を吐いた。 「・・・・・・・・・・・・・」 隣を見る。 隣で何度も湯を顔にかけている男の横顔をちらりと覗き見ながら、洗面の樽に浸かっている金色の長い髪を見た。浴室に足を踏み入れた時、最初に見た光景は、男が長い髪の頭についた泥を落とそうと、丁寧に洗っている姿だった。 そうして、この男が本当はとても髪が短いということを、そこで初めて知ったのである。 幸せそうに目を閉じたまま、ほっとした表情になっていることに安堵しつつ、男の髪に視線を向けた。 壁に設置されたコスの照明が湯気の中で明々と光る。ぽたぽたと湯の滴が肌へと伝う男の髪は、照明の光に照らされて透き通るほどに美しく見えた。 「・・・・短い髪も・・・きんいろなんだな」 「・・・・・・・・・・・・・?」 湯の中に鼻の頭まで浸かった男の目が丸くなる。 「・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 気まずい沈黙。 お湯の音だけがやけに大きく響いて。 「・・・・気を悪くしたら謝る。・・・綺麗だなと思っただけだ・・・」 「・・・・・・・・・・・・・」 男の目が更に丸くなった。青い目が透き通るびろうどのようにきらめいて、圭一は何も言わずにその眼を見た。 空の色とも違う。水とも違う。透き通るようなその色にうっすらと自分の姿が映し出されている。 その姿さえも透明な水の中にいるようで、圭一は一瞬、その瞳から目を離すことが出来なくなってしまった。 一瞬、互いの視線が絡み合う糸のように交錯した。 「・・・・・きれいな・・・あおだな・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 その声に青く大きな瞳が左右にキョロキョロと動き出す。その様がまるで着地点を探す鳥のようにも見えて気まずくなり、圭一はわざと男から目を離した。 そこで気が付けば良かったのかもしれない。湯の熱ではなく、人の言の葉の熱で男の頬が赤く染まっていたことに・・・。 「・・・・・・あ・・・替えの着物が置いてある・・・」 先に湯から上がった圭一が脱衣所に戻ると、そこには叔父の計らいで、二人分の寝巻と替えの着物が綺麗に折りたたまれて箱に入っていた。 「ありがとう。叔父さん・・・」 そう心の中で何度も礼を言いながら、圭一は有難く寝巻を借りることにしたのである。 「・・・・ありがとうございました。叔父さん。おかげさまで大変助かりました」 歓談室に向かうと、叔父は洋酒を片手にソファーで寛いでいたが、圭一の姿を見ると軽く片手を上げて出迎えてくれた。 「いいんだよ。風呂はどうだった」 「おかげさまで、大変良いお湯でした。生き返ったような心地です」 「ははは。それは大げさだよ。でも、良かった。君は何度言ってもうちに湯を借りに来ないから、ちょっと心配していたんだ」 「・・・すみません。いつもは下宿近くの銭湯に通っているものですから・・」 まあ座りなさいと促され、圭一は叔父の前のソファーに腰を降ろすことにした。 目の前にはグラスと水差しが置かれ、彼は有難く水を頂戴すると一気にそれを飲み干した。ずっと雨に打たれたままで、水を飲んでいなかったせいか、喉を通る冷たい水が心地いい。 「・・・おいしい」 セピア色にも似たコスの室内灯がグラスを照らしていく。叔父の持つグラスの氷がカランと鳴った。微かに流れる音楽が室内を包んでいく。 恐らく部屋の隅に置かれた蓄音器からだろう。音量の調節が出来ないのか、広い歓談室の隅にそれは設置されていた。 「・・・一緒にいた彼は、友人かね?」 「・・・・・・友人では・・まだ無いと思います」 「・・・・・・・そうか・・ああ。君も入りたまえ」 叔父の声に、圭一は振り返って驚いた。 そこには先ほど見たような泣きじゃくる顔ではなく、街で初めて見かけた時のような、妖艶で優しげな表情をした男が、寝巻姿で長い髪を袖に隠し持ったまま、ふらりと凭れ掛かるように立っていたのである。 「・・・・・・ご迷惑をおかけしました」 男が軽く頭を下げる。 「・・いいんだ。さあ、座ってくれたまえ」 何かあったのであろうと想像はつくだろうが、叔父は何も聞かなかった。 暫しの歓談の後、今日は泊っていきなさいと叔父に言われ、圭一は何度も叔父に礼を言いながら部屋を借りる事にした。 和室に通された先にある布団を見て、圭一はホッとしたのか何度も欠伸をかみ殺しながら布団に横になると、ご飯を食べる事無く、睡魔が囁くままに眠りの淵へと落ちて行ってしまった。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 虫の音も止む深夜・・・窓枠に腰かける者がいる。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 青い目は窓の外を向いていた。 硝子の窓に自身の顔がぼんやりと映っている。 ザアザアと遠くで雨音が弾ける音が木霊し、外の雨はまだしばらくの間やみそうもなかった。 窓に向いていた目が、布団で丸くなる圭一の方へと向かった。 自分に背を向けて、すうすうとよく眠っている。 考えてみれば、初対面だ。初対面なのに、あんな醜態をさらしても彼は何も言わなかった。 それどころか、こうやって風呂にも入れてくれた。 それに風呂でのあの言葉。 「・・・・・きれい・・か・・」 今日は本当に厄日だった。 ずっと好いていた女子がいた。 その女性は自分にはもったいないくらい良い女だった。黒い髪が特にきれいで。 遊女以外に抱きたいと初めて思ったのも、彼女だった。 洋服も似合うだろうが、自分は鮮やかな着物に袖を包んで、ふんわりと笑う顔が特に好きだった。抱かなくても良い。 身分も家柄も関係ない。 ただ、側にいるだけで・・良かったんだ。 毎日、これが面白かった。これが美味しい。流行の役者は誰で。活動写真のこの作品が好きだとか、こんな雑誌が創刊されたとか。新聞の連載小説はここが面白いとか・・そんなたわいもない話をしながら、一緒に過ごす。 それだけで本当に幸せだったんだ。 ・・・・まさか、そう思っていたのは自分だけで、彼女はそうではなかったなんて・・。 俺の見た目だけが好みで。俺の持つ家柄と資産が目当てで。他の女への見栄で、俺を連れて歩きたいが為に、側に置いておいたなんて・・。想像すらしていなかった。 『あなたに価値があるとすれば、その見た目とお金だけよ。本当にそれだけ。自惚れるのも大概になさってくださいましね。要さま』 そう言って、俺を蔑むように見て嘲笑う彼女の顔が忘れられない。 俺は、もともと自分の顔があまり好きじゃない。 このせいで、子供の頃はよくいじめられた。 石も投げられたし、髪だって何度も掴まれた。でもしょうがないじゃないか。 どうやったって、生まれついた顔は変えられない。だから、顔で好きになったわけじゃないと言ってくれたのが嬉しくて、好きになったのに。あんまりじゃないか。 だったら、最初からそう言ってくれていたら、好きにはならなかったのに・・。 もう、何もかもが嫌になって、店で浴びるように酒を何杯も飲んで。 でも酔えなくて、自棄になって、更に別の店でも酒を呷(あお)って。 傘を差すのも嫌で、雨に打たれながら、夜道をふらふらと歩いているうちに、自分がやってる仕事とか、そういったものが全部嫌になって。カツラを引っ掴んで投げつけて。 そうしているうちに足がもつれて、転んで。 泣きたいんだか、嘲笑いたいんだかもわからないまま、眠りこけてしまった。 ・・・・それが、まさかこんなことになるなんて。 「・・ほんと・・いい大人が何やってんだか・・情けない・・」 今になって、自分の行動に恥じ入る気持ちが生まれてしまう。 けれど、救いだったのは名前も知らない青年が、自分に傘を貸してくれたこと。 何も聞かずに、ただ歩いてくれたこと。 雨音の方が勝っていたとはいえ、男がえぐえぐと泣いているのだから、気になっても良いはずなのに、彼は一度も自分の方を見ようとはせず、ずっと前を向いて歩いていた。 どんなに傘を差しだそうとしても、それはお前が使えと言って傘には入ろうとせず、俺の顔を見る事無く前を歩いてくれた。それが、なんだかくすぐったくて、嬉しかったのだ。 今まで、沢山の女達から、いろんな言葉を貰って来た。喘ぐ女の影も見た。 情欲に流される振りをして、ただひたすら生きる為に女を売る遊女は、居場所のないまま、ただ何気なく生きていた自分に、言葉に出来ない衝撃と喝を入れてくれた。 世間知らずの自分に、本当に沢山の知識を教え込んでくれた。舞も、唄も、作法も全て。 でも、女たちはすぐに俺の顔を言う。 ―きれいだ、と。 「・・・何度も言われた・・・何度も言われてる言葉なのに・・・嫌じゃないなんて・・いったい何が違うんだろう・・・?」 囁いたその声は、雨音の闇へと溶けて消えて行ってしまったのである。 「・・・・・・・・昨夜は、大変お世話になりました」 「本当に、朝食は良いのかね?遠慮せずとも食べていきなさい」 「いえ・・そこまで御厄介になるわけにはまいりません。連れも・・・・いつの間にか消えましたし・・・」 そう言って、圭一は重だるい息を吐いた。 事の起こりは夜明け前、誰かが隣で何かをしている夢を見たと思い、鳥がさえずる声でぼんやりと目を覚ました時には、隣で寝ているはずの男の姿が忽然と消えていなくなっていた。 よく見ると、布団はきれいに折りたたまれ、その上に畳まれた寝巻が添えられている。 替えの着物もそのままな所を見ると、どうやら昨日と同じ着物を着て、夜明け前に屋敷を出たらしい。 執事が言うには、夜明け前に何度も頭を下げながら帰っていったらしく、それならば一言くらい言ってくれても良いじゃないかと圭一は思ったが、もとより友人でも何でもない他人なので、確かに気まずいかもしれないと思い、何も言わない事にした。 ・・・もう会う事も無いのだから、あの日の事は忘れよう。そう思っていた。 まさか、そう思っていた日の夕方に、大学の帰りに寄った下宿近くの煎餅屋『真六屋』で大好物の堅焼きせんべいを買い、ほくほくしていた圭一の目の前にまた現れるとは、誰が予想したであろうか・・・? 「・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・」 目の前に立つ金色の髪の男がにっこりと笑っている。 「・・・なんだよ?」 「・・何でもない。ただ、会いたくて・・・・会いに来たんだ」 「・・・・・・・・・・・・・・は?」 そう言って、にっこりと笑う男に、圭一の口は開いたまま塞がらなくなった。 その男は勝手に圭一の住む下宿屋までついて行き、その部屋を見て愕然とした表情を隠そうとしないまま、ただ「狭い」と言った。 そりゃそうだろう。昨日の家はあくまでも叔父の家で、俺の家じゃない。そう説明すると「そうか、君は大学生なのだな」と首を傾げながらも納得したように頷いた。 扉の前で立ち話もなんだと思い、部屋に招くと男は遠慮がちに腰を降ろしている。 なんだか背格好の良い男が縮こまって座ろうとする仕草が子犬のように思えて、圭一は笑みを隠しつつ背を向けた。 「よし、飯でも作るか」 それを横目に夕飯を作ろうと掛けてあった割烹着に袖を通していると背後から驚くような声が聞こえるではないか。その声に圭一が首を傾げながら「うん?」と振り返ると、男が大変驚いたような顔をしている姿が視界に映った。 「・・・・何だ?」 「・・え・・何をするのかと思って・・」 「何って・・これから飯を作るんだよ」 「えっ・・君が?」 「・・・ああ、飯炊きはわりと好きなんだ」 「・・その服装は?」 「服?ああ、この割烹着か?これは母から借りたものなんだ・・良いんだぞ。コレ。着物が汚れなくてさ」 「・・・・・・」 男は口を開けたまま、信じられないといったような表情で圭一を見ている。 何だか失礼な奴だなとも思ったが、よくよく考えてみれば遊郭によく行くのだから、おそらく料亭にも足を運んでいるだろう。選ばずとも女の方から寄って来る、となれば・・・まぁ確かに俺のように自分で飯を作らなくとも女の誰かが、こいつの為に飯を自然と作ろうとするのは、自然な流れでもあるのかもしれない。ふと、そう思いつつ彼は買ってあった大根に手を伸ばした。 「・・・・・・・・・美味しい!」 「・・・・・・・・・・そ・・・そうか・・」 男の食べっぷりは、それはまあ見事なものだった。 圭一の作った献立は麦飯、大根の味噌汁。漬物。里芋の煮つけ。干物。と、いたって普通の料理だったが、男は美味しい。これも美味しいといって顔をニコニコと綻ばせながら、味噌汁と麦飯をおかわりし、壬生菜の塩漬けも最初は珍しそうに見ていたが、麦飯に非常に合う事が分かると、これは美味しいと言いながら、嬉しそうに飯を食べている。 こうやって、誰かと一緒に食事をするのは、やっぱりいいものだな・・と見ていて思う。 何よりも自分の作った飯を美味いと言いながら食べてくれるのは、やっぱり嬉しいと思うし、自然と笑みが浮かんでしまう。・・・おや? 「・・・・・うん?なんだい?」 「いや・・箸の持ち方がさ・・きれいだなって思って・・」 「ああ?これかい?遊郭の姉さまたちに教わったのだよ。箸は慣れてなくて、うまく持てなかったんだ。そんな私を見かねてさ。遊郭の姉御たちが教えてくれたのだよ」 そう言いながら、幸せそうに味噌汁に口をつける男を見て、圭一の目が細くなった。 ・・・・・・・やっぱり、変わった男だ。 でも、こんな日もたまには悪くないな。 本当に、そう思って。圭一も同じように味噌汁をズズズと啜ったのである。

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