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「今日の昼飯は何にする?」 そんな事を斎藤が口にする。 「そうだなぁ・・」なんて言いながらのんびりと圭一たちは席を立った。 本日の午後の講義は珍しく一限のみ休講となっているので、いつもよりのんびりゆっくりと飯にありつける。たまにはそんな日があっても良いさ。そんな事をフムフムと考えながら歩く大学の廊下は、時折通る学生たちの姿でごった返している。 窓の外にはちらちらと舞う雪が見えた。 「・・・今日も寒いな・・」 「ああ。雪だからね。この季節は朝がつらくて本当に参るよ・・もう歳かなぁ」 そう言って斎藤が笑う。 「なぁに言ってるんだよ。のっぽ」 「ううん?」 「自ら年寄じみた事言ってると本当に年寄りになるよ」 橋谷の言葉に、圭一もうんうんと頷きながら激しく同意した。そんな友人に斎藤は苦笑いを返すだけで何も言おうとしない。実際、同期生に比べると斎藤は誰よりも年上で、それを密かに揶揄する者もいたからだ。 あれは数か月前、大学の講義にもすっかりと慣れた圭一は、いつものように橋谷とたわいもない話をしながら廊下を歩いていた時の事だった。 少しの笑い声に眉を顰める橋谷の顔を見た圭一が彼の視線の先を辿ってみると、はてさてどうしたものだろう? 廊下を通り過ぎながら数人の学生が斎藤の方を見て何やら笑って通り過ぎていく光景がそこにはあった。 ちらりと眺めながら笑う学生たちとは対象的に、斎藤は何とも言えないといった様子で俯いたまま、黙って通り過ぎようとしている。 顔には僅かに影が差し、お世辞にも体調が良さそうには見えなかった。 それもあってか、背の高さが目立つその青年が何を言われているのか気になった圭一と橋谷は何度も顔を見合わせていたが、橋谷が「きっとこれは嫌がらせの類だろう。ただ、常に言われているとは限らないから。次に同じ光景を目にしたら、その時は互いに黙って聞き耳を立てる事にしようではないか。それに、言われているあの書生殿は我々よりも背が高い。離れていても彼が何処にいるのか容易に探すことが出来る。どう思うかね?」と言い、何とかできるものなら何とかしようと決めた二人は、次の日から背の高い青年を目で追う事にしたのである。 意外にもその日は早くやって来た。 二、三日、静かだと思っていたはずの揶揄が再開したのだ。最初、圭一は全く気が付かなかった。トントンと蛇女に頭を小突かれるのと同時に橋谷に背中をコンコンと小突かれて、初めてその先を見た。 言われてみれば確かに、教室を出ようとした背の高い青年の行く手を阻むように何やらニヤニヤと含み笑いを隠そうとしない学生が五人ばかり、青年の周りを囲んでいる。 二人は本を開いて読むふりをしながら、黙って会話に耳を傾けることにした。 「聞いたぞ。斎藤殿はどうやら我々よりも人生というものをふかぁく知っておられるとか」 「ははあ。その年になりますと学業ではなく、社会奉仕に勤しむものだと思っておりましたがなぁ・・斎藤殿は試験を何度も受けられたと聞きます。羨ましいものですなぁ」 「その年でしたならば、奥方さまもおりましょうに。共に来られたのですかな」 「・・・・・・・下卑た事を言いやがる」 橋谷の言葉に、圭一は黙ったまま何度か頷いた。 村を出てこの東響に来ることだけでも相当の費用が掛かる。試験もそうだ。入学金だってただじゃない。村のものと郷里の家族が背中を押してくれなければ、自分はきっとここにはいなかっただろう。 そんな同じ想いが二人にはある。 二人だけではない。この大学に通う学生たちだって、箱を開けてみれば同じなはずなのだ。 「・・・・・・・それにしても・・」 「うん?どうした?橋谷」 「・・・・・なんで言い返そうとしないのだ?あの書生殿は・・?」 なるほど確かに。そう思いながら、斎藤殿と呼ばれている一際背の高い青年を見た。 背を向けている為、表情までは伺うことは出来なかったが、離れた位置からでも青年が何も言わずにぺこぺこと頭を下げている姿だけは容易に確認できる。 「・・・問題を起こしたくないからって思ってるからじゃねえのか?」 そう圭一は言う。 「その気持ちは分らんではない。だが、言い返さねばいつまで経っても火種はくすぶるばかりじゃないか。ええ?そうは思わないかね」 「・・・まぁ・・確かに・・・」 「よっぽどあの書生殿は気が小さいと見える」 そうまで話して二人は、はぁぁぁあああと重だるい息を吐いた。 「どうするんだい?お坊」 頭上で蛇女の含むような声がする。圭一はわざとその問いに応えようとはしなかった。 「どうする?面倒な事にならなきゃいいが」 「ふむ。ここで座ったままでは埒が明かないな」 「そうだな」 そういって席を立とうとした刹那、聞こえた声に二人の眼が一際大きくなったのである。 「斎藤殿のお召し物は所々ほつれておりますが、それを直す時間も無いのですかな」 「書生とて、雑事の合間に針仕事をなさる時間が無いわけではないでしょうに」 「今まで苦労なさってきたのでしょうなァ。何度も試験を受けるくらいですから」 「おい。今、何と言った」 「何?」 揶揄していた学生たちが一斉に振り返る。 その先には立ち上がってずいっと近づく圭一と橋谷の姿が見えた。 「なんだ?お前たちには関係ない話だろう。道を通るならあっちへ行ってくれ」 「いいや。行かないな」 そう橋谷が言う。彼の表情は笑ってはいなかった。圭一も前を見た。 斎藤と呼ばれている青年が、そんな二人を見て驚くような表情で立ち尽くしている。 「・・・え・・・なん・・で・・?」 斎藤が絞り出すように、ふるふると首を左右に振りながら二人を見た。 「俺たちは学生だ。ここにいる者達の大半は郷里を離れて暮らしている者が殆どだ」 「・・だから何だ?お前たちには関係ないだろう!特にそこの小さいの。俺達が見えないのか!」 「・・・なんだと・・」 声を荒げる学生たちに向かって、橋谷も圭一も、その言葉にだけは納得しなかった。 納得するどころか、背を向けて去ってこうとする連中を目撃するや否や「身長はともかく!こいつは誰だか知らないが、やっぱり言われたままってのは納得いかん!苦労人で何が悪い!」と、二人で啖呵を切ったのだ。とすると売られた喧嘩は買わねばならぬと相手が言い出し、その勢いたるや凄まじく教授連中が慌てて飛び出してきてもおかしくない有り様であった。 板挟み状態に慌てた斎藤が「え・・っ・・ええっ・・っと・・君たち!まぁ・・待ちたまえよ」と止めようとしたまでは良かったが、「なんだとぉ!言われてんのはお前じゃないか!悔しくないのか!」と燻ぶっていた橋谷の導火線に火が点いて、とうとう殴り合いへと発展してしまったのである。 結局、一番動きが遅く、しかも背の高さが災いしたこともあり、ただ巻き込まれて殴られただけの斎藤も加わって、皆で教授からの有難いお説教を受ける羽目になってしまった。 けれども人とは不思議なもので、それがきっかけで吹っ切れたのか、皆で打ち解けて仲良くなったのもまた事実ではあった。それが縁で、斎藤とも仲良くなり、常に三人で行動を共にする事が多くなった。本当に、先に待つ人の縁とは分からないものである。 「今日は何を食べようかなぁ・・」 「やっぱり洋食だよ。洋食屋よりも安い値段で憧れの洋食にありつけるのだもの。やっぱり洋食を選ばなくちゃ。ねえ。霧谷クン。」 そう言って橋谷が笑う。圭一は「そうだなぁ」と呟いて、食堂に繋がる階段をゆっくりと降りて行った。食堂が近づくと様々な料理の香りに混ざるように、休憩を過ごす人のガヤガヤとした賑やかな声が先ほどよりも大きくなった。 「うわぁ・・まだいっぱいいるなぁ・・」 「ああ。俺。先に席を取っておくよ」 「いいのかい?」 「ああ、俺の方が背が高いからさ。すぐに分かるだろうし」 そう言って斎藤は人ごみの中をかき分けるようにひょいひょいと歩いて行った。 「さて。何にする?」 「そうだなぁ・・・」 学生食堂には数人の働く女性がいる。レジスターの隣に注文を受ける係の人が二人立っており、その人物にメニューを告げるとハンコを押した交換券を発行してくれるから、それを持ってその場でのんびりと待てばいいから簡単だ。 壁には沢山のメニューが書かれた表が値段と共に掲げてあって、その中から選ぶのだけれど、やはり洋食が一番人気らしい。中でもオムレツライスと言うものがあって、これはケチャップをかけて米を炒めながら混ぜた後に薄焼きの卵を乗せた物だ。学生たちは器用にスプーンと言う名の匙を使って卵をすくってはハムハムと口にほおりこんでいる。 あとは蕎麦屋や大衆食堂でもよく見るコロッケにポークカツレツも人気がある。 些細なことなのかもしれないが、ここ東響大学の学生食堂にて初めてオムレツライスを食べた。ライスカレーを食べたという生徒が続出し、学内でちょっとした西洋料理の波が毎年巻き起こっているのだそうだ。 中には洋食で使用する銀のスプーンや、ナイフ。フォークをここで初めて目にした!なんて生徒もいたりして、うちの学生食堂は実に賑やかだったりするのだ。 それは確かにそうだろう。カフェーや洋食屋で洋食を食べようとすると、どうしてもその値段を目にすると怯んでしまいそうになる。こじんまりとした洋食屋『葡萄亭』のライスカレーがいろいろ付いて確か90銭。ポークカツレツで80銭もするらしい。 圭一が良く通う近所の定食屋の焼きサバ定食が20銭。蕎麦屋で食べるコロッケが一個2銭。蕎麦は8銭であるのと比べると40銭あれば食べられる学生食堂の洋食は実に魅力的だった。

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