10 / 16
4
「・・・ふむ。それは興味深い意見のひとつだね」
と、味噌汁が入った椀を片手に斎藤は言う。
ピンと背筋を伸ばして食べる彼の姿は見ていて美しいなといつも思う。
箸の持ち方ひとつとっても、椀を片手に味噌汁を飲む仕草も、自分に比べれば天と地の差があるほどに上品に見える。変な話。こういう何気ない動作の影に、育ってきた家の雰囲気や規律の差が垣間見えてしまうものだから、まったくもって油断ならない。初めて隣に並んで食べた時の自分との差を思い出すと、どうしても隠れたくなってしまう。
橋谷だってそうだ。彼は和食よりも洋食をよく好んで食べるけれど、好きではない味だと思ったとしても、けして皿の中の料理を残すような事はしない。それは作ってくれる人に対して礼を欠く事になると、密かに彼は思っているからなのだそうだ。
いつも一本筋が通っていて、側にいて心地が良いし、そんな二人の友と仲良く並んで食事できている事に感謝を忘れてはいけないなと、圭一は密かに想う時がある。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そうまで考えて、ふとある人物が脳裏を横切った。
金色の其の友である。うん。あいつも確かに食べる姿は上品だ。それまではぐたりとしているのに、食べる時になるとピンと背筋が伸びていて箸を持つ手も美しく見える。
一番驚いたのは干物の食べ方だった気がする。骨に魚の身がひとつも残っちゃいなかった。
きんぱつ自身は遊郭の見世の姉御に箸の持ち方を教わったと言っていたけれど、きっと教わる側も筋が良かったのだろう。と、そこまで考えて、いやいや待てよ。話題がそれたと思い、圭一は茶碗にこびりついたままの雑穀米の粒をひとつ残らず口にしたのだった。
「・・・ふう」
『なんだい?やっぱり浮かない表情じゃないか』
そんな事を蛇女が言う。圭一は時折、オムレツライスを器用にスプーンですくって食べる橋谷の方を見ながら、ううんとしばらく何かを考えていたようだったが、やがてどこかで糸がふっと切れたらしく、また視線を調理場の方へと戻していた。
午後の講義も相変わらず退屈だった。そんな事を何度も繰り返しながら、気が付けば時刻は夕方の四時を軽く過ぎている。他の学生たちに混ざって大学の構内を歩きながら、本日の講義もなかなか興味深かった。面白かったナァなんて話している橋谷の声を横目に圭一は調理場で見たオムレツライスの調理工程を幾度も思い返していた。
そうして、あーしてこーして。ムフフフフ。と心の中でにんまりとしていた、その時だった。
「おや。姫さんがいるじゃあないか」
「ん?」
何やら聞き覚えの無い声がする。その声に圭一と共に歩いていた友の足が同時に止まった。
「・・・・・・」
『姫?姫って・・・誰だ?この学内に女はいないはずだぞ・・・?』
オムレツライスから現実へと引き戻された圭一の両隣からは何やら不穏な空気が漂ってくる。
「・・・おい。今、何と言ったんだ」
橋谷が言う。しかしその声はけして穏やかなものではなかった。
「そうだね。今の言葉は聞き捨てならないな」
斎藤の声も穏やかではない。圭一は内心あわわと焦ったが、眼前に立つ学生たちの自分を見下して笑う様に、はたと気付いた。
『姫って・・・俺の事かぁああ!!』
そうまで気付いて圭一は軽く眩暈がした。
橋谷に深川に行かないか?と軽く冗談交じりに言われた日の事が鮮やかによみがえって来る。
『深川・・?何しに行くんだよ』
『決まってるじゃないか。吉原に冷やかしに行って、深川に寄るんだよ』
『・・・ん?見に行くなら町を歩いてる女じゃダメなのか?』
確かそんなやりとりだった。いまいちピンとこなかった圭一と冗談交じりに笑う橋谷の何気ないやりとりの中で、圭一は『俺はいい。女にさほど興味が無いから』というような事を言ったのは確かだ。ただ、間の悪いことにそれを聞いている者達がいたのだ。
それからというもの。話のどこかに尾ひれがついて、霧谷圭一というこの男は、どうやら男色の気があるらしい。言われてみれば背も低く小柄で、よくよく顔を見てみれば童顔で可愛らしい。もしや・・?との奇妙な噂が回ってしまって、ほとほと困ってしまった事があった。
橋谷も斎藤もその噂には、くくくくくと苦笑いを返すだけで何も言おうとしない。
蛇女もそうだ。あらまぁ。あらまぁ。あらあらまぁまぁと言って笑ったと思えば『まあまあいいじゃないか』と、楽しそうに笑うだけだ。全くこいつめ。人の恋慕の気も知らないでと言いたくもなるけれど・・・。
「おい。今何と言った?もういっぺん言ってみろ」
そう語気を強めた口調の橋谷の声で、圭一は一気に現実へと引き戻された。
「おっ、おい。橋谷」
「なんだぁ?やる気か」
眼前の学生も胸を張ったまま微動だにしていない。
「男に向かって姫と言うのは良くないんじゃないかな」
冷静に斎藤が言う。口調は優しげだが、その表情は笑っていない。
圭一はというと間に挟まれながらアワワと首と手を左右に振っているだけだ。
これはいけない。誰かが止めないとまた喧嘩になってしまう。
そんな想いから「ちょっ・・やめたまえよ・・俺は気にしてないから」と圭一は二人に話そうとしたのだが、冷やかし連中の一人が圭一の背中を見て
「しっかし、本当に細っこいんだなぁ・・。ああ。すまない」と、ぽつりと呟いた。
その声に悪意はない。
圭一も今更言われたところで何の気も起きないのだが、橋谷は違っていたようで。
「おい。失礼だろう」と眼前に立つ学生を見ている。
「なんだよ。謝っただろう」
「お前じゃない。そちらの奴だ」
橋谷の声にこれはいけないと斎藤を見れば、斎藤もやれやれといった様子で圭一を見た。
そうして何処からともなく頷いて、「もうやめたまえよ。橋谷クン。気持ちは分るが喧嘩は良くない」と互いに繰り返しながら、未だ怒る橋谷をズズズと引きずって行ったのである。
「・・・全く。失礼な輩もあったものだ」
「本当にね。ああいう物言いは良くないと思うよ」
大学を出て各駅止まりの空上列車に乗り、上野に向かう。
上野駅に着いても未だ怒りが収まらないといった様子で橋谷が歩いて行くその後ろを、ついて歩くように斎藤と圭一が歩いている。圭一は自分の事で橋谷がここまで怒るとは思っていなかったので、少々面食らってしまったが、それ以上に自分の事を大事に思ってくれる友の言葉が温かくて嬉しかった。
「そういえば、何処へ向かうんだ?」
圭一の声に橋谷がうん?と振り向いた。
「ああ。上野にさ、新しいカフェーが出来たらしくてさ。ちょっとそこに行ってみようと思って」
「カフェー・・?」
「ああ。最近増えて来たよねえ。まぁ・・書生の僕たちにとっては高嶺の花だけど、外から建物を覗くくらいは許して貰えるだろうさ」
そんな事をのんびりといった調子で斎藤が話している。
どこの大学に通う書生にも言える事だが、地方から上京してきた書生の多くは華族や資産家の家で資金援助をしてもらいながら勉学に励む者が多い。かくゆうこの二人もそうだ。
雑事を行う事で家主から給料という名の小遣いを貰い、それで生活している。
圭一のように親族から多額の援助をホイホイと受けながら通う者はごく稀な為、圭一は口が裂けても自分が置かれているこの恵まれた環境を他者には漏らすまいと徹底している。
自分の何気ない一言がきっかけで、今日までの友が明日には敵となるか分からない。
その危うさを知らぬほど、圭一は子供ではなかった。
少し離れた場所を馬車が颯爽と通り過ぎていく。相変わらず不思議な町だと彼は思った。
ともだちにシェアしよう!