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第18話
「これなら、あの小娘よりも高く売れるだろうよ…ふふ、どこで手に入れたか知らんが、ようやった!これで、これでお前にも果実を食わせてやれる…」
健気に輝き続ける紫水の指輪を満月に掲げ、主人は狂ったように笑った。
絶望にマシューの顔が真っ白になる。あれがなくなったら、リチャードと出会ったことさえも夢だったように感じてしまいそうで怖かった。あの優しさに温かさに救われたこと、憧憬と恋情を抱いたことすら否定するようで。
「かえして…返してください…」
ぽろぽろと勝手に頬を伝っていく涙。
力無く地に伏せくたりと垂れ下がったマシューの耳が、微かに第三者の靴音を捉えた。
コツ、コツ。
「これは一体どういうことなのかな。アーノルド国王陛下から伺ったお話と随分と様子が違うようだけど。」
「これは、…その…」
「ああ、結構です。私は自分の目で見た事実を信じますから。」
数は少ない。恐らく三人分。
何人もの貴族を見てきたからわかる、どれも一級品の靴音だ。微かに聞こえる話の内容は頭に入ってこない。
通りがけにこの無力で無様な兎を笑うだろう。そして即座に忘れて自分好みの奴隷を探しに行くに違いない。
身体中の血液が氷水にでもなったように、マシューは脳天から足のつま先までどこも力が入らない。もはや痛みすらも感じなくなってしまった。痛みを感じないなんて、もしかしてこのまま死ぬんじゃないだろうか。
「ッ、どうか、どうかご温情を!なんとしても奴隷制度をすぐに廃止させてみせます!」
「アシュトン王子殿下、貴方は私の話を少しも理解しておられないようですね。ああそれと、約束できないことを簡単に口になさらない方が身のためですよ。それもすぐにとかいう曖昧な言葉でね。」
「リヒャルト様っ!」
コツ、コツ、コツ。
三人分の足音が止まった。
話し声は随分と近くまできた。きっとすぐそこにいるのだろうと思う。それでもマシューは顔を上げなかった。上げられなかった。下卑た笑みを浮かべた貴族がまた兎というだけでマシューを見初め、そしてβというだけで嘲笑するのだろうと思うと顔を上げる気になれなかった。もうこれ以上傷つきたくなかった。
「奴隷制度はね、廃止しただけでは何の意味もないんですよ。それでは我らが父王の愚策の二の舞だ。奴隷として生まれ育った彼らが解放という大義のもと世間に放り出されて生きていけると思いますか?奴隷を養い売買することで生計を立てていた奴隷商人は路頭に迷わせたままですか?」
この、声は。
マシューは漸く少しだけ視線を上げた。
視界に入ったのは上等な革靴。ゆっくりと顔を上げると、頼りない月明かりでもわかる神秘的な輝きを持つ紫水の瞳を優しく細めて微笑む人間の青年がそこに立っている。
青年はゆっくりと膝を折り、マシューに手を差し出した。
「立てるかい?」
高くも低くもない、よく通る澄んだ声。あの時と同じ言葉。
聞き慣れるほど逢瀬を重ねたわけではない。しかし誰よりも恋しい人の声。
まさかそんな。
マシューは差し出された手を震える手で握る。しっかりと握り返してくれた青年は力強くマシューの身体を支え、マシューの服や顔についた泥を優しく落としてくれた。
「ゲオルグ、手当てを。」
「御意。」
青年の後ろに控えていた黒豹の獣人が懐から出した脱脂綿でマシューの傷口を拭う。
漆黒の軍服、金色に輝くボタンにはドラゴンが羽ばたく姿が刻まれている。胸元にいくつもつけられた勲章がその地位の高さを物語っていた。
先に出会った時とは随分とかけ離れた格好をしているが黒々とした美しい毛並みに射るような鋭い眼光は、間違えようもない。
「ジョージ、さん…?」
それでも自信は持てずに小さく問いかけると、その人は視線だけで反応を示した。
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